蔵書目録

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「南清風景談」 佐々木信綱 1 (1904.5)

2024年08月28日 | 人物 作家、歌人、画家他

   

     南淸風景談
                            佐々木信綱
  
 このたび漫遊いたしましたのは、揚子江沿岸の鎭江、揚州、南京、漢口。溯りまして沙市、荊州、宜昌。三峽の下峽ー洞庭湖を横ぎりまして長沙、湘潭。さて蘇州、杭州等で。かの彭澤縣、潯陽江、泪羅、三遊洞、秦淮、靈隱などの名勝古蹟を見めぐりましたが、それらについてお話致しましては、あまりに長くなりまする故、『夕ばえの美しさ。』『岳陽樓と洞庭湖』『浮屠と風鐸。』これらの題目でいさゝか申し述べたいと思ひます。
 大陸の景色で最も感じましたは、夕ばえの美しさであります。漢口、沙市、芦林澤などの平原に立つて、幾十百里見る限見わたす限、人なく家なく木なく山なく、丈低き草は皆うらがれ渡つて、滿目蕭然たる夕つ方、夕陽まさに地平線に沒せむとする頃、野邊に佇ずむでをりますると、秋の末の事とて、空には一點の雲もなく、たゞ眞靑 まつさを な空の果に夕日が入らうとする。空の色は薄靑 うすあを になる。廣い野一面の草は枯草のしづんだ色がやゝ黄ばんだ色になる。夕陽は全くまぶしい光線を失ひ、恰も紅 くれなゐ の眞玉 またま のやうな日が、遠い遠い野邊の果に一分 いちぶ 一分沈むでゆく。見る〱沈むでゆく。沈みはてると思ふ其一刹那の景が實に美しい。日本では見られぬ一種の美があるやうに思ふ。さて四五分たつと、西の空が一面に胭脂色 えんじいろ に彩 いろ どられる。我國の夕やけや、雲の色の赤いのとはちがうて、雲のない空の果が一面にあかく成るのである。其色の美はしさ。いかなる工の手に染めてもかばかりはと思はれる。其美しさは花やかな美しさではなく、おごそかなおもみのある美しさで、華麗といふよりは、莊嚴な美である。佇んむでじつと眺め入つてをると、其のうるはしい夕ばえの中には、けだかい尊とい不可思儀のあるものがこもつてをるやうに感じられる。我等が理想の國、理想の宮殿が其中にあるやうに感じられる。かねて印度の夕ばえの美しさを聞いてゐましたが、佛説に西方極樂淨土というてあるのも、恐らくはかゝる夕ばえの美しいのからいひ始めたのではありますまいか。さて眺め入つてをる間に、日は全く暮れはて、星がきらめきそめ、我立つてをるあたりはうすぐらく、足もとの枯草の中で我國のこほろぎに似た虫がさゝやかに鳴いてゐる。けれども野末の夕ばえは猶あかくうつくしい。夕ばえのうつくしい時間はよほど長い。じつと見てをる間に段々うす赤くなる。暫くしてうす紫に變じる。やがて鉛 なまり の色のやうになる。さてのち夜の一般の色になる。其あひだ茫然として美觀にうたれてをりました。此夕ばえの景色は大陸でなくては見られぬ美しさと思ひます。然るにかの國の詩人で、出日を觀るといふ詩は多く見うけますが、入日を眺めるといふ詩の少ないのはいかなる故でありませうか。李商隱の『夕陽無限好只是近黄昏』。また呉敏樹の『墨山霞色螺洲樹奇絕樓頭看夕陽』といふなどで。なほ滕王閣で王勃が『落霞與孤鶩齊飛夕陽同秋水一色』といふ句があるくらゐ。夕陽の美をあまりうたはないのは不思儀に思はれます。  
 漢口から湖南へは、把杆船といふ民船を雇うてまゐりました。風がわるければ半日も一日も碇舶する。淺瀨にくれば網で引のぼすといふ始末。かの土佐日記の『舟も我身もなづむ今日かな』といふ歌『朝北の出こぬさきに網手早ひけ』といふ歌のとほりで尤も困難を極めました。漢口を出て四日目の午後、道人磯城陵磯をすぎて岳州府につきました。遠淺で船は岸を少し離れてつきました。碇舶してをる船が少なくない。見ますると、川岸には極めてひくい家がこゝかしこに。其間をから人から少女が歩いてをる。總躰支那の服裝は、遠くから見た方が美くしい。上衣は、あさぎ、水あさぎ、桃色、紫、黑などの無地で、縞物は少ない。日本の着物の如く、そばへ寄つて見ねばわからぬといふやうなのとは違ふ。赤いとか靑いとかの極端な色で、單純ではあるが遠見 とほみ が美しい。
 岸の上を見ますると、岳州府城はこだかい丘の上にあつて、幾千の人家を包んだをごそかな城壁は、高い崖の上をめぐつてをる。岳陽樓は城壁の東の隅に鼓樓のやうな風に建つてをる三層樓である。城壁の甎瓦が幾百年の風霜に黑ずむでをるに、建て直してまだ久しからぬ岳陽樓の金碧燦爛たる色彩の配合が極めて美觀であるー元來日本の瓦は、服裝の色の如く黒く沈むだ色で、遠くから見ると誠に引たゞす、活氣に乏しく、一見つめたい感じが起る。支那では晴川閣、禹王廟、何宮、何樓などといふ宮廟は、いづれも黄に靑に金色に彩どつた瓦で葺いて、しかも巴瓦や唐草の瓦が多く、瓦の端には麒麟、鳳凰、龍、獅子などの形の大きい丈たかい瓦があるので、遠景が極めてよい。―我國では大極殿のほかには彩瓦を見ないやうに思います。さて上陸して樓にのぼらうと船ばたに出ますると、●子船といふ小船が幾艘となく我舟の傍に舟を寄せて、これに召せ、わが舟にめせといふのであらう。からさへづりにかしましくいふ。其舟の漕ぎ方が變つてをる。小舟のへさきに二個の櫂があつて兩手で漕いでゐる。しかも漕手は皆な若い女で、其櫂のあやつり方の巧にうつくしい事かの大湖船の俗謠も思い出される。其女の上衣の色が、例の淺黄あるは紫などであるから、●子船の行きかふ樣を遠く望みますと、あだかも冬の流に春の花を浮べたかのやうに思はれる。さて兩手に銀の薄い輻廣い指輪をはめ、玉 ぎよく の耳輪をつけた一人の舟子の船にのつて上陸しやうとする。男女ともに利を貪るはかの國人の常で、與へた賃銭で決して滿足せぬ。例のうるさくねだる。服裝は美しいが心はうつくしくないと思はれる。
 いよ〱上陸すると、岸邊の小屋が又珍らしい。『蘆のまろ屋』と歌にあるが如く、蘆でかまぼこ形に葺いた低い家である。否、家とはいひがたい。人が這つて入る程で、一二疊位の廣さの中に親子夫婦すむでをる。やゝ大きく前に卓がをいて女のをるは煙館風待 かざまち の船頭らが阿片をむさぼる家である。これらの小屋は減水期の間だけあるので、水がませば岸まで水が滿ちる爲とりくづして他へ移るそうである。さういふ小屋の間を通りぬけて、高い石段をあがり、城門をぬけて岳陽樓へ上つた。かなたの建築は形式よりも色彩の方を重んじたやうで、瓦が前に申した金碧で、柱や壁が多くは赤い。色彩の建築としては美である。さて案内の僧に導かれ、壁に題した詩や聯の句などを讀むで三層樓の上にあがりました。かの范文正公がこゝの記を書いて後、この樓は幾度か重修し、人は變り世は遷つても、天然の景は、變遷がない。たゞ見る浩々蕩々洞庭湖は目の前に天地の大幅をひろげてをる。湖の門戸にはかの堯の女㜀君が居たといふ君山が右に、扁山が左に―いづれも江の島ぐらゐの大きさの島で、鏡が浦の沖の島鷹の島を那古の觀音の方から見た位置のやうに並むで、さながら洞庭宮を守る獅子狛犬の如くである。其たゞ中に今や夕日は傾かうとしてゐる。天地の大觀に我を忘れ、しばしあつて樓を下り、船へ歸りました。
 幸に風は追手。帆を張つていよ〱洞庭湖の中に入らうとする。夕日は二つの島の間に落ちて、見る〱紅の眞玉が湖心にしづむ。かへり見れば岳州府城の上に月はのぼる。かの犁雲が『洞庭八百里月照岳陽城』といふた通りである。日を數ふれば十二月三日―あだかも舊曆十月十五日の夜、米南宮が選んだ湘瀟八景の洞庭秋月ではないが、望月の夜洞庭を過ぎる、何といふ好因緣であらう。
 夕日は遂に湖心に沈んだ。其余光が空に輝くや、空の色忽ち紅に變じ、其紅の色、湖上に映じて、畵にも寫しがたい麗しい中を、遙に一帆又一帆、風のまに〱に遠く近くかつ顯はれかつ消へる。其いひしらぬ風景むしろかういふ風景の中につゝまれながら湖の底深く沈んだならばと思はれる。 
 美くしかつた夕ばえも光を失つて湖の上は薄ぐらく成る。月はいよいよ澄みのぼる。見えるものは唯こがね白がねの浪。『晧月千里浮光曜金』といふ樣である。廣い果知らぬ湖の上、進みゆく我舟の近くに二三の釣舟がをる。むかし卓彦恭が洞庭を過ぎた時、月下に漁りせる小舟を呼びとめて、『魚ありや否や』と問ひましたに老人らしい聲で、『魚はないが詩がある』。卓喜むで『願はくは一篇を聞かむ』老人枻を皷ちて『八十滄浪一老翁芦花江上水連空世間多少乘除事良夜月明収釣筒』と高吟し去つたといふ。さる風流の漁翁ありや否やを知りませぬが、二三の小さな釣船が大いなる湖の月夜の景趣を添へる。
 月は良く風は追手。船は帆腹飽滿、一瞬千里の勢で進む。夜はふける。月はいよ〱澄む。『此意無人識』といふ句の如く、いひしらぬ樂しさ寂しさ、何ともいひがたき感が胸にみちて、我身そゞろに我あるを知らず、此隈なき月と果なき湖とに對うて居ました。一昨年の初秋富士に登り、絕頂に見ました七月十七夜の月。かれは山頂、これは湖上、しかしあはれは同じあはれで、風月の緣に富む事を天に謝した事であります。
 呉淞から宜昌まで長江を遡る事千哩。此長い廣い長江の沿岸に、楊 やなぎ と塔 ぱごだ とを取り去つたなら、風景がいかばかり荒涼寂寞であらう。我國の柳とは違って、丈高く枝葉がこんもりとした楊。それで落葉の時期が遲い。『一葉ちり二葉流れて秋風ぞ吹く』とやうに、我國のは初秋に散り始める。支那のは初冬にも猶綠である『揚子江頭楊柳春』楊花が蝶の如く綿 わた の如く散り亂れる比は又一しほであらうと思はれる。揚子江から楊をとりさつたらば、櫻のない吉野山のやうであらう。
 楊につゞいて景趣を添へるは、塔である。楊と柳のちがふ如く、塔も我國のと彼方のとは大にちがふ。我國には五重もしくは三重の木造で形が四角である―信州別所塔の如き例外はありますが―彼方のは七層九層もしくは十層以上の甎瓦製で、圓形が多く、愈上れば愈殺ぐといふさまで、手近に申せば淺草の凌雲閣の式である。たま〱簷角のもあるがそれも八方が多い。我國のは木立の上に九輪の尖端 はし や上層の簷角が見えるのであるが、支那のは山の上もしくは川そひにあつて全部露 あら はに見えてをる。又必しも寺院の傍にあるのではない。
 深夜黄浦江畔を發すると、翌朝長江の岸でまづ目にとまるは狼山の頂なる塔である。千浬の間南北兩岸こゝかしこの塔は數へきれぬ。就中宜昌に近づいて府城の家が見えそめる比、南岸にピラミッド形の山―幾万年前禹が水を治めた時、神の斧で削つたかの如き奇形の山に對して、北岸に塔がある。我船か其傍を過ぎた時、聞なれぬあやしげな聲が聞える。悲しげな寂しげな高いさけびが聞える。あやしみ見れば塔の下に幾十の野羊 やぎ の群が居る。濁水の大江に沿うて、黑く茶色なる塔の下に、白い野羊のむれ。亡國の音ともいふべき鳴き聲、遊子の胸をさすやうでありました。
 湖南では泪羅に古へを吊うて湘江に入らうとした時、白魚磯の塔が殊に感をひきました。これは塔の形よりも塔の傳説が趣味があつたので。むかしある官人が家族を伴なうて任地に赴かうとする時、こゝで暴風に逢つた―洞庭湖では秋冬の比洞庭かぜともいふべき一種の暴風がある。私等も歸途其風に逢つて困難しましたが―波は高い。風は烈しい。官人の船は今にも沈まむとする。そこで官人の妻が湖神に祈つて、どうか風波がをさまり、わが良人の船の無事な樣にと、寶玉眞珠でよそほうた吾髪を切り、それを江中へ投げ入れた。其眞誠 まこと に天も感じてか、風波靜まり舟は無事であつた。幾年かの後、彼の官人夫妻は轉任して故郷へ歸らうと此処を過ぎた。此度は風もなく波もない。先年の事が思ひ起され、船を磯にとゝめ、夫妻語りあうてゐると、大きな白い魚が船の中へ躍り入つた。かの武王の故事も思はれてこれは祥瑞であらうと早速調理を命じた。然るに思ひきや其白魚の腹中から、彼髪飾りが其まゝ出やうとは。これは天が嘉納まし〱したのであらう。又こゝは有名な難所此後とも船の難破があつてはといふので目じるしに此塔を建てたとの事。昔がたりを聞いてさて塔を見てをりますと、折から船人がうたふ送郎十里亭の歌謠。ふしは卑 ひな びてをるがあはれにきこえました。



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