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矢田津世子『神楽坂 茶粥の記』を読んで

2019-06-09 12:57:25 | 読んだ本
       矢田津世子『神楽坂 茶粥の記』         松山愼介
 矢田津世子という名前は知らなかったので、まず近藤富枝『花蔭の人 矢田津世子の生涯』を読んだ。近藤富枝は一九二二年生まれ、瀬戸内寂聴とは東京女子大学での友人という。矢田津世子が一九〇七年生まれで、三十六歳で亡くなっているが、近藤富枝とは十五歳違いである。矢田津世子の周辺の人、恋人にも取材しているので、その程度の年齢差だ。
 川村湊は「解説」で「モダニズム文学、プロレタリア文学、自然主義的リアリズム文学という、当時の大きな文学潮流の影響を受け、その短い文学者としての生涯を駆け抜けた」と書いている。これは平野謙の『昭和文学史』における、昭和初年代の三派鼎立という説の踏襲である。しかし、この三派鼎立は昭和十年前後には、それぞれがあたらしい道を模索していた。矢田津世子は長谷川時雨の「女人芸術」から出発して、「日暦」から、「日本浪曼派」に対抗する「人民文庫」へ円地文子らと進んでいる。その前の昭和八年七月には共産党への資金カンパということで約十日間勾留されている。そもそも「女人芸術」の同人は左傾していたという。
 矢田津世子が留置という、朝日新聞の記事を発見したのは近藤富枝らしい。「某思想事件に資金提供」という記事である。共産党の資金局で働いていた苅田あさのと湯浅芳子を通じて知り合い、カンパに応じたという。林芙美子も九月に検挙されている。林芙美子は「こいつもおさいせん組だな」と刑事が話しているのを聞いたという。この年は小林多喜二の虐殺、共産党幹部、佐野・鍋山の獄中転向声明という、左翼運動にとっては激動の年であった。この流れに追い打ちをかけるように警察は文化人に圧力をかけた結果の事件だということである。ともあれ、この近藤富枝という人は噂も含めてよく調べている。女の川西政明のようだ。以前、横光利一について調べた時、片岡鉄兵が出てきた。上田(円地)文子との関係である。この片岡鉄兵も近藤富枝の手にかかれば「女流作家キラー」ということとなり、矢田津世子の最初の男だという噂を紹介している。坂口安吾との関係についても詳しい。
「父」は「日暦」の十三号(昭和十年11月号)に発表され、「神楽坂」は「人民文庫」(昭和十一年三月)に発表されている。この「人民文庫」も昭和十一年十月二十七日の例会に警官が踏み込み「無届集会」、「共産主義の宣伝方法を協議」ということで大半のメンバーが検挙されたが、幸い矢田津世子は出席していなかった。このような左翼的文学が壊滅する中で、「妾もの」つまり、男の経済力に寄生している女を書いていくことになるのだが、決して弱い女を書いているのではない。それぞれの女性は芯が強く、「旦那」の妻の死後、後妻の座についたりする。また、「旦那」の死後は、娘から財布の権利をつかみ取ったりする。
 このような女性は、この時代、特に珍しいものではなかったのであろう。だが、矢田津世子の眼はいろいろな女性の生き方をしっかり見つめている。この文芸文庫の作品集で一番印象に残ったのは「佝女抄録」の寿女である。自分の体の障害をものともせず、せっせと働く。病気になっても休むことはなく、なお体に鞭打つように働いている。性格も明るい、仕事もできる。死を覚悟した時は、店に迷惑をかけないように施療院へいったようにも思える。この寿女は、美貌をうたわれた矢田津世子の対極にあるのかもしれないが、彼女にとって女性の理想型であったかも知れない。このような働き者の女性は私の母を思い出せる。大正五年生まれだが、子どもが多いこともあって、幼い私の眼からは一日中、働いていたようにみえた。
 作品中の仮名遣いには時代を感じさせるものがあった。読みがわからない字もあり、「加様」が「かよう」という読みだとわかるまでだいぶ時間がかかった。
                         2019年2月9日

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