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幸田文『みそっかす』を読んで

2019-06-09 12:54:02 | 読んだ本
        幸田文『みそっかす』          松山愼介
 幸田文、明治三十七(一九〇四)年生まれ、矢田津世子、明治四〇年生まれ、佐多稲子、明治三十七年生まれ、平林たい子、明治三十八年生まれ、林芙美子、明治三十六年生まれ、森茉莉、明治三十六年生まれと、この幸田文と前後して、多くの女性作家が生まれている。明治という激動の時代が安定化していった時期の現象だろうか?ちなみに男性作家の埴谷雄高、太宰治、大岡昇平は明治四十二年前後に生まれている。
「娘文は八代の悩み深い心に気がついたのは離婚を体験し、母を書かねばならなくなってからであることも示唆的である。しかし継母の心の内の痛みを文の悲しみと共有できるようになっても、寛容な父を深く愛せず、苦しめ続けた継母を許せなかった。それでも文は作品に継母を登場させ昇華させようと苦闘したのが『みそっかす』である」(岸睦子『幸田文』勉誠出版 二〇〇七)
 幸田露伴の妻・幾(き)美(み)(文の母)は文が六歳の時に肺炎(肺結核?)で亡くなった(露伴はインフルエンザとした)。幾美は「きびきびと仕事をこなし食事作りはことに楽しみ、工夫を凝らし明治期にタンを煮たりオリーブオイルを使って料理をして露伴を楽しませていた。着物も露伴の着古しを直し、美しく着こなしていたという」(岸睦子前掲書)。幾美が三十六歳で亡くなった時、露伴は四十二歳であったため、あちこちから再婚話が持ち込まれた。露伴は「妻を迎ふるは予に取りては易し、兒等に取りては易々とすべきならねば、荏苒(じんぜん)として今に至りぬ。(中略)よき人とはおもえど、獨身生活になれし人なれば、兒等の世話も容易なるまじくやなどおもひ煩ふあまりに、遅々として今に及べり」と日記に書いているという(橋本敏男『幸田家のしつけ』平凡社新書 二〇〇九)。露伴はいくつもの再婚話の中から、子どものことを考えて四〇歳を過ぎた児玉八代を選んだ。「おねしょ」には四十四歳と書かれている。
「父の再婚」によると、幸田文は学校へ行って初めて父の再婚のことを知る。その日の新聞に報道されていて、学校中の噂になっていた。その日は早退すると、家に荷物が着いていて、オバ公が荷宰領に膳を出す用意をしていた。結婚式は植村正久の教会で次の日に行われた。ところが、岸睦子前掲書によると、幸田露伴の結婚を報じたのは「萬朝報」(一九一二年十月二十五日)で結婚式の次の日であったという。また、この記事によると八代は三十六歳になっている。
 この継母は、生母とは全く違っていた。顔の洗い方も違い、長々と髪にかかりきっていた。そのうち、文にも父と母が不和であることがわかってきた。母がお客を呼ぶための支度が何もないという。「紅茶茶碗とパン皿」だった。露伴は「買ったらいいだろう」と言った。日本語を話す西洋人(バンカム夫妻?)がやってきて、文と一郎もお相伴にあずかったが、文は匙の置きかたも知らない、一郎は吹いたり吸ったりして騒々しいと叱責された。また、一郎のおねしょと、露伴の酒を嫌悪した。
 生母は労働派であり、家全体が「自分のうち」だったが、継母には新しく四畳半の部屋が建てられた。しかし、継母はこの部屋が不満であった。幸田文は生母のことを「母」、継母のことを「はゝ」と表記している。長押でないこと、天井の低いこと、畳表、押入れのないことが不満で、「安普請で人をばかにしている」と言った。「蝸牛庵というのはね、家がないということさ。身一つでどこへでも行ってしまうということだ」という露伴の考え方とは根本的に相容れなかった。一郎がおねしょをしても、継母は「酒飲みと寝小便の世話は私はいやです」といい、「革表紙の三方金の厚い旧新約聖書」から眼を放さなかった。文の継母に対する気持ちは「愛憎が縄のようによじれ」たもので、自分の家出を考える一方、継母の悲しみの姿に同情するものでもあった。
 結局、二人は別居することになるが、露伴は毎月五〇円の仕送りを続け、離婚することはなかった。このような家庭環境のため、幸田文は露伴から家事全般にわたって、きびしく仕込まれることになる。
 この『みそっかす』は、岩波書店の小林勇が、露伴の死後、『露伴全集』を刊行するにあたって売り上げを伸ばすために、文に協力を頼んだ末の企画だったらしい。ともあれ、このような経緯で作家・幸田文が誕生したということになる。
                       2018年1月12日 

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