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辻邦生『西行花伝』を読んで

2022-02-22 23:24:40 | 読んだ本
        辻邦生『西行花伝』             松山愼介
 歴史上の一番興味ある天皇は後白河帝と崇徳帝である。後白河院は、義経に頼朝追討の院宣を出しながら、裏で頼朝に対して、あの院宣は義経に迫られて仕方なく出したものであると弁明するなどして、この時代を生き抜いている。西行(1118~1190),清盛(1118~1181)、崇徳帝(1119~1164)は、ほぼ同じ時代、後白河帝(1127~1192)、法然(1133~1212)は少し後の生まれである。
『西行花伝』では、保元の乱における崇徳院の苦悩について、詳しく歴史的記述があり面白く読んだ。我が子の重仁親王を帝にする一念で、左大臣頼長につき、甲冑まで用意するが、頼長が夜討ちは卑怯ということで、その作戦を拒否したところ、関白忠通、後白河帝側の平清盛の夜討ちの奇襲のまえに敗れ去ってしまう。この辺は、NHKの大河ドラマ『平清盛』での知識である。これに付け加えて、福原遷都が平家側に混乱をもたらしたという点は、始めて知った。在地の小領主は、自分の土地を守るのに全力を尽くす。しかし、自分の領地を守るために、領主は自分の土地を、有力貴族に寄進し、その保護を求める。その保護にあずかれない小領主は、自力で武力を集め、土地を守るしかない。しかも、その土地をめぐる抗争は中央で決着をつけるしかない。ところが、それは民部省に集積された書き付けで裁かれるのだが、福原遷都による混乱で、この土地をめぐる書き付けが、どこにいったかわからず裁決がくだされない。このような、各国の混乱を、西行は陸奥への旅の途中でつぶさに見ることになる。
 陸奥への旅は人々の生活が疲弊していることを、西行に実感させる。これが、後の鎌倉仏教の無常観につながり、西行の出家の動機ともなるのでああろう。以前、田山花袋が一日、10里を歩くと読んで驚いたことがあるが、この時代の旅は徒歩なので西行もその程度、歩いたものと思われる。ただ、まだ歌人として名をなしていなかった時代の西行が路銀をどのように工面したのかは書かれていない。おそらく、土地土地の有力者の庇護を受けたのであろう。
『西行花伝』は優れているが、何か違和感がある。架空の人物と思われる藤原秋実を語り手にしていること、漢字にルビをふっていることである。たとえば、森羅万象は「いきとしいけるもの」となる。極端なのは「現実を超えた現実」を「うつせみを超えたまこと」と読ませている。藤原秋実には辻邦生自身を投影しているのであろう。
 もう一点は、作者が全く西行に対する批判的視点を持っていないことである。いわば、西行のいい所ばかり集めている。有名な出家する時に、「四歳になる娘が縁に出むかえて袖にすがりついてきた。煩悩のきずなを断たなければと、娘を縁の下に蹴落とすと、娘は泣き悲しんだ」という挿話については一言も触れられていない。
 崇徳院の讃岐配流は、ただ流刑になっただけだと思っていたが、運ばれる船での居場所も狭く、閉じ込められているような感じである。讃岐に行ってからも、罪人としての監視と待遇を受け、かなり苦しんだようである。それが、後に怨霊となって都に現れると噂されることになる。
この作品によれば、西行は歌の道による政治を重要視している。武力と権能(ちから)である。崇徳帝にもそれを求めたがかなえられなかった。

 私は新院の歌会の折や、寂念、寂然、藤原俊成、徳大寺実能などと内輪に月見の宴や菊花の宴に招かれるとき、その雅一すじに打ち込まれた気魄の中に、歌による政治(まつりごと)の復活としか言えないような高揚(たかまり)をはっきり感じることができたのであった。
 新院が錯乱されたのは、大いなる歌の道を見失われ、ご自分を宮廷から追放された罪人としか見られなかったからである。宮廷から追放されたと見られたのは、結局は、宮廷から御心を離すことができなかったためであった。宮廷への執着が新院から大いなる歌の道を奪ったとも言える。

 ただ、これは辻邦生の政治にたいする理想論でしかないと思った。
                                         2021年3月13日

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