遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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瀬戸内晴美『余白の春』を読んで

2020-05-17 20:28:57 | 読んだ本
         瀬戸内晴美『余白の春』          松山愼介
 瀬戸内晴美が『遠い声』を書き始めたのは一九六八年の初めで、四十五歳だったという。そのきっかけは「丸の内にある中央公論の図書室で、青鞜を見せてもらうために本を捜していて、偶然、何かの拍子に、『死出の道艸』が出てきた」からだということだ。それまでに田村俊子などの自伝的小説を書いていたが、『遠い声』で「管野須賀子を書く時は、もっと小説的にしてしまおう。しかも史実にはあくまで忠実に、大逆事件の真相と、須賀子の人間像の真実を、余すところなく書ききってみたい。そんな思いで、私が考えあぐねていたとき、ふっと『死出の道艸』に書かれた一月二十四日、一日にしぼって、その日の須賀子の意識の流れをたどったら、書けるのではないかという考えがひらめいた」という。
 この須賀子について書いていることを総合雑誌、文芸誌の編集者に打診したが、「大逆事件はどうも……」ということで冷ややかな反応だった。天皇制を書くことに対するタブー、あるいは『風流夢譚』の余波が残っていたのか。そんな時に、「思想の科学」の編集者を通じて鶴見俊輔に話がいき、鶴見俊輔の決断で「思想の科学」に連載されることになった。
『余白の春』は、「婦人公論」一九七一年一月号から連載された。伊藤野枝、管野須賀子ときて、金子文子を書くようにすすめたのも鶴見俊輔であった。逡巡していた瀬戸内晴美に決断させたのは「婦人公論」の編集者・関陽子で、あっという間に彼女から文子に関する資料の山が持ち込まれたという。金子文子も『なにが私をかうさせたか』という自伝を残している。しかし、「文子の手記を読んでその烈しい短い生涯には圧倒されたが、なぜか文子を好きになれなかった。文子の文章の中から詩が感じられなかったせいもあった。野枝も須賀子も年齢の割に文書がしっかりしていて、内容も説得力を持っていた」。それを瀬戸内晴美は文子の二十歳という年齢のせいではないかという。三十歳まで生きていれば、どれほど成長しただろうと感じたという。
 裁判記録を読むうちに、若い文子の自尊心をくすぐり、煙のような天皇暗殺計画を、確固たる陰謀のように仕立て上げていく判事の誘導尋問に、肌に粟を生じたという。文子の辛い生いたちは、文子の若い筆では充分に書ききれていないことに気づいた。そんな時に、まだ生存していた韓国の同志たちに会い、韓国の文子の墓を訪れることになる。さらに、不逞社の栗原氏から、朴烈・文子の怪写真の真相を聞くことができ、『余白の春』は完成することになる。
 金子文子の思想は、無政府主義ではなく虚無主義である。虚無主義というのは少しわかりづらいがテロリズムのことであろう。文子は社会主義を批判している。社会主義者が民衆のためにといって動乱を起こし、革命がなったとしても革命の指導者は新しい社会で権力をにぎり、新しい秩序を立て民衆が再び権力者の支配下で奴隷になるだろう。文子は自らのテロリズムを「ニヒリズムに根を置いた運動である。そしていわゆるテロリズム運動は一つの政治運動である。ニヒリズム運動は哲学運動である……、と私は思う」と、公判準備手続に書いている。
 文子は朴烈より先に、爆弾使用の計画、皇太子を狙った事などを自供している。これは文子が朴烈の思想に全面的に共感し、朴烈を「ありあまる自分の生命の余剰を惜しみなくあふれさせ注ぎこめる対象」としたためであろう。このような文子の思想は自ら築いたのではなく朴烈から教えられたものと思われる。『余白の春』を読んでいると文子が生き急いでいることが感じられる。一方で、思想的変遷を重ね、一九七四年まで生き、北朝鮮でスパイとして処刑されたとされる朴烈のその後の生き方が気になった。
 このように瀬戸内晴美が、伊藤野枝、管野須賀子、金子文子を取り上げ、国家権力による大逆罪をでっち上げる過程を小説という形に作品化したことは評価できる。一時は「文学などやめて女革命家にでもなりたいような気持」と書いたこともあるという。ところが今年の五月九日の「朝日新聞」に「残された日々」、「御大典」を書いている。そこでは幼少の頃の代替わり(昭和天皇の即位)の日の浮き浮きする感じを回想し、「上皇、上皇后になられた両陛下に、しみじみ御苦労さまでしたと掌を合わせた」と書き、最後に「どうかあくまでもおだやかなお二方のお時間を末永くお楽しみ遊ばすようにと、お祈り申し上げます」と結んでいる。金子文子、朴烈に大逆罪で死刑判決を下した天皇制を糾弾しながら、平成を生きた天皇は平和愛好家という論理なのだろうか。
『余白の春』を書いたすぐ後の一九七三年に出家しているのは、この世の波風を避けるためだったのだろうか。この朝日新聞の記事を読んで、ある人が「愚かなり、瀬戸内寂聴さん!! 金子文子が泣いていますよ。瀬戸内さんに「原則」や「節操」を求めても意味はないでしょう。しかし、天皇制を真っ向から断罪して獄死した金子文子に感銘したあなたの感性をお忘れになるな、と申し上げます」と書いていた。
                              2019年7月13日

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