萩原葉子『天上の花―三好達治抄―』 松山愼介
三好達治といえば「雪」である。日本の民話的抒情をうたっている。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
一方で、三好達治は「捷報いたる」の作者でもある。
捷報いたる/捷報いたる/冬まだき空玲瓏と/かげりなき大和島根に/捷報いたる
眞珠灣頭に米艦くつがへり/馬來沖合に英艦覆滅せり
この詩は、マレー上空の空中戦の大版グラビア写真に添えて、「婦人朝日」昭和十七年二月号の巻頭に掲げられた。「婦人朝日」のこの号は、日米開戦後の最初に発売された号である。
吉本隆明に「「四季」派の本質―三好達治を中心に―」(「文学」一九五八年四月 『抒情の論理所収)という論文がある。これは「四季」派の代表的詩人が、民話的抒情詩の作者から、どうして戦争詩を書くに至ったかという、「文学者の戦争責任」の追求に関連したものである。「四季」は、昭和九年に創刊され、昭和十九年が終刊となっている。中心人物は堀辰雄で、詩人には萩原朔太郎、立原道造、中原中也が名を連ねている。つまり「四季」派はプロレタリア文学運動の解体期から、「大東亜戦争」の終末期に至る、危機と戦争の時代が全盛期だったのである。
「皇国少年」だった吉本にとっては、「「四季」派の戦争詩は、おおむねつまらない便乗の詩とみえたが、かれらが(昭和)十年代前期に生んだ抒情詩は、過酷な戦争の現実から眼をそらしたい疲労をかんじたとき、一種の感覚的安息所のような役割を果たしていた」。つまり、吉本は「四季」派の抒情詩の世界によく浸っていたということであろう。
「天皇制下における金融・産業資本からなる日本の支配権力は、自体のなかに奇妙な前近代性をはらみながらも、高度な資本主義支配の特質をもち、しかし巧妙なことに大衆の意識感情を組織するにあたり、その極度におしすすめられたアジア的後進性の側面を組織した。大衆のなかにある近代的意識を組織したのではなかった」。「四季」派の代表的詩人・三好達治の「神州のくろがねをもてきたへたる火砲にかけてつくせこの賊」という詩句は、大学においてフランス文学を習得し、フランス文学を日本に移植した人物が書いたものである。つまり「四季」派の詩人たちの中にも近代性と前近代性が共存し、社会に対する認識と、自然に対する認識とを区別できなかった。それが戦争詩と日本的抒情詩が通底した根拠であった。彼らの中では「恒常民衆の独特な残忍感覚と、やさしい美意識」とが共存していた。
これは一般化できないが、日本においてやさしい父が、中国大陸において残忍な兵士になり得た根拠でもあろう。少し言い過ぎになるが、三好達治においても、「やさしい美意識」が「慶子」を慕いながらも、「恒常民衆の独特な残忍感覚」が「慶子」に暴力をふるうのである。もっとも、この『天上の花』における、三好達治のDVは病的だが。伊藤信吉によれば、萩原朔太郎が青年・三好達治のことを、「三好君は人と話をする時、胸を張って直立不動の姿勢をとり、軍隊式に、ハイッ、ハイッと言う。陸軍幼年学校に居た時の習性が、未だに残っているのである」と書いているという。三好達治のDVには陸軍幼年学校、士官学校の影響があるのかもしれない。
(DV男といえば、テレビドラマ『ラスト・フレンズ』(二〇〇八年)の錦戸亮(NHK『西郷どん』で西郷従道役)を思い出す。このドラマで錦戸亮が長澤まさみにふるうDVは衝撃的で、それを実に見事に錦戸亮が演じたのである。そのため、その後、錦戸亮=DV男となってしまって気の毒で同情していたが、西郷隆盛に比べて弱虫の西郷従道役に抜擢されて良かったのかなと思う。)
『天上の花』でも、三好達治の人間的な側面も書いているのだが「慶子の手記」だけが独り歩きしているようである。このような文学者の私生活は、近親者が書かない限り世に出ない。
私は吉本隆明の批評の方法は平野謙によるところが大きいと考え、吉本も平野謙を尊敬していると思っていた。ところが、平野謙が新居を建てた吉本を妬み、また特許事務所に勤めていた吉本を特許庁に勤めていると誤解して、奥野健男の特許庁長官賞受賞に裏工作をしたと考えていたのは思わぬことであった。これも吉本が書かない限り世に出ない平野謙像であろう。
2018年12月8日
三好達治といえば「雪」である。日本の民話的抒情をうたっている。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
一方で、三好達治は「捷報いたる」の作者でもある。
捷報いたる/捷報いたる/冬まだき空玲瓏と/かげりなき大和島根に/捷報いたる
眞珠灣頭に米艦くつがへり/馬來沖合に英艦覆滅せり
この詩は、マレー上空の空中戦の大版グラビア写真に添えて、「婦人朝日」昭和十七年二月号の巻頭に掲げられた。「婦人朝日」のこの号は、日米開戦後の最初に発売された号である。
吉本隆明に「「四季」派の本質―三好達治を中心に―」(「文学」一九五八年四月 『抒情の論理所収)という論文がある。これは「四季」派の代表的詩人が、民話的抒情詩の作者から、どうして戦争詩を書くに至ったかという、「文学者の戦争責任」の追求に関連したものである。「四季」は、昭和九年に創刊され、昭和十九年が終刊となっている。中心人物は堀辰雄で、詩人には萩原朔太郎、立原道造、中原中也が名を連ねている。つまり「四季」派はプロレタリア文学運動の解体期から、「大東亜戦争」の終末期に至る、危機と戦争の時代が全盛期だったのである。
「皇国少年」だった吉本にとっては、「「四季」派の戦争詩は、おおむねつまらない便乗の詩とみえたが、かれらが(昭和)十年代前期に生んだ抒情詩は、過酷な戦争の現実から眼をそらしたい疲労をかんじたとき、一種の感覚的安息所のような役割を果たしていた」。つまり、吉本は「四季」派の抒情詩の世界によく浸っていたということであろう。
「天皇制下における金融・産業資本からなる日本の支配権力は、自体のなかに奇妙な前近代性をはらみながらも、高度な資本主義支配の特質をもち、しかし巧妙なことに大衆の意識感情を組織するにあたり、その極度におしすすめられたアジア的後進性の側面を組織した。大衆のなかにある近代的意識を組織したのではなかった」。「四季」派の代表的詩人・三好達治の「神州のくろがねをもてきたへたる火砲にかけてつくせこの賊」という詩句は、大学においてフランス文学を習得し、フランス文学を日本に移植した人物が書いたものである。つまり「四季」派の詩人たちの中にも近代性と前近代性が共存し、社会に対する認識と、自然に対する認識とを区別できなかった。それが戦争詩と日本的抒情詩が通底した根拠であった。彼らの中では「恒常民衆の独特な残忍感覚と、やさしい美意識」とが共存していた。
これは一般化できないが、日本においてやさしい父が、中国大陸において残忍な兵士になり得た根拠でもあろう。少し言い過ぎになるが、三好達治においても、「やさしい美意識」が「慶子」を慕いながらも、「恒常民衆の独特な残忍感覚」が「慶子」に暴力をふるうのである。もっとも、この『天上の花』における、三好達治のDVは病的だが。伊藤信吉によれば、萩原朔太郎が青年・三好達治のことを、「三好君は人と話をする時、胸を張って直立不動の姿勢をとり、軍隊式に、ハイッ、ハイッと言う。陸軍幼年学校に居た時の習性が、未だに残っているのである」と書いているという。三好達治のDVには陸軍幼年学校、士官学校の影響があるのかもしれない。
(DV男といえば、テレビドラマ『ラスト・フレンズ』(二〇〇八年)の錦戸亮(NHK『西郷どん』で西郷従道役)を思い出す。このドラマで錦戸亮が長澤まさみにふるうDVは衝撃的で、それを実に見事に錦戸亮が演じたのである。そのため、その後、錦戸亮=DV男となってしまって気の毒で同情していたが、西郷隆盛に比べて弱虫の西郷従道役に抜擢されて良かったのかなと思う。)
『天上の花』でも、三好達治の人間的な側面も書いているのだが「慶子の手記」だけが独り歩きしているようである。このような文学者の私生活は、近親者が書かない限り世に出ない。
私は吉本隆明の批評の方法は平野謙によるところが大きいと考え、吉本も平野謙を尊敬していると思っていた。ところが、平野謙が新居を建てた吉本を妬み、また特許事務所に勤めていた吉本を特許庁に勤めていると誤解して、奥野健男の特許庁長官賞受賞に裏工作をしたと考えていたのは思わぬことであった。これも吉本が書かない限り世に出ない平野謙像であろう。
2018年12月8日
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