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島村利正『奈良登大路町・妙高の秋』を読んで

2015-09-19 09:33:17 | 読んだ本
        島村利正『奈良登大路町・妙高の秋』          松山愼介
 なぜか島村利正は私小説作家だと思っていたが、実際は違うようである。作品集『奈良登大路町』のあとがきには《私はながい間、私小説風の作品が書けませんでした。確たる材料をもとに、虚構を組み立てる苦しみと喜びのなかに、自分の小説があると、いつも考えていましたが、私は私小説も好きでした。この小説集のなかには、はじめての、私風の私小説も何篇かあります》と書いている。『仙酔島』、『残菊抄』、『神田連雀町』、『佃島薄暮』は虚構の作品であろう。『奈良登大路町』、『焦土』、『妙高の秋』は私小説風の作品である。
 前者のなかでは『残菊抄』がよかった。おちか、お澄に、菊造りの甚吉をうまく配している。最初の《潮のうごく時刻なのか、隅田川の匂いが、その辺の街路まで漂ってきている感じがした》という描写とか、さり気なく戦争中の街路の《ところ嫌わず防空壕が掘り散らかしてある道路には、不潔な汚臭が漂い》という描写はさもありなんと思わせる。菊を載せた輓車の通り道に沿って東京の風景がさり気なく描かれている。「焼かせてたまるか日本橋」という張り紙も面白い。
 お澄の母親のおちかは十八歳のころから菊売りの車を一人で引くようになった。大阪方面で生産される木綿織物を専門に扱う阪物問屋の、阿波屋治兵衛の店の番頭、連太郎とふとしたきっかけから関係を持つようになる。連太郎は得意先から集めたお金で芸妓遊びをするような男であった。連太郎はおちかを遊び尽くすと、姿をくらませた。おちかは関東大震災の火炎に包まれ死んだ。お澄三歳の時である。お澄も昭和二十年三月の空襲で、歩行困難な祖父の甚吉をかかえて逃げられず、煙にまかれて死んでしまう。短編のなかに、関東大震災から戦争による空襲までを、東京の風景の移り変わりを交えながら二人の女性の生涯を巧に組み込んでいる。
 島村利正のえがく女性像は、『神田連雀町』、『佃島薄暮』の佳津子も、『残菊抄』のおちかもよく似ている。最初は男に言い寄られて、つかず離れずだが、身体を許してしまうと、女から男を求めるようになるというパターンである。このような女性像は男から見た一面的な、希望的なものではないのだろうか。
『焦土』は志賀直哉の疎開先を伊那谷に探す話であるが、瀧井孝作も登場し、空襲のなか八王子まで行くところは、当時の空襲の実態をよく伝えているようである。『妙高の秋』は奈良飛鳥園に勤める経緯を書いた自伝的短編である。この飛鳥園の当主小川晴暘の一生をえがいたのが単行本『奈良飛鳥園』である。この作品には会津八一も登場し仏像撮影の黎明期の困難なさがえがかれている。仏像写真は光線の当て方によって表情が異なるのである。
 問題なのは『奈良登大路町』である。作中、小川氏が講演会で《ハーバート大学のラングドン・ウォーナー博士の人となりを簡単に述べ、そのウォーナー氏がアメリカ大統領をうごかして、奈良や京都を爆撃から救ってくれたのだ、とはなした》というところがある。この一篇はラングドン・ウォーナーに捧げられたようなものである。この「ウォーナー伝説」には吉田守男による手厳しい反論がある。『京都に原爆を投下せよ―ウォーナー伝説の真実』(一九九五年 角川書店)と『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(二〇〇二年 朝日文庫)である。それによると、ウォーナー博士は日本美術研究者であり志賀直哉とも柳宗悦を通して奈良で交友があった。このウォーナーが美術品リストを作ったことは間違いないが、それは日本が朝鮮・中国等から略奪した文化財を返還できない時に、等価交換として日本の美術品を海外に持ち出すためのリストだったというのである。戦後、法隆寺が解体されてアメリカに持ち去られるという噂もあったという。
 アメリカは原爆投下を、本土決戦で予想される五〇万から百万人のアメリカ人兵士の命を救うためであったと抗弁する国である。当初から、古代からの文化の中心地、京都に原爆を投下することこそが、日本の息の根を止めると考えていたのである。この「ウォーナー伝説」を最初に報道したのは昭和二十年十一月十一日の朝日新聞であった。アメリカの日本の都市に対する爆撃は人口の多い順になされた。百八十の都市がリストアップされ、人口八万人の都市までいった時点で終戦となったのである。鎌倉は人口四万人でまだ順番に余裕があったが、奈良は五、七万人で爆撃直前だった可能性があるという。京都が爆撃されなかったのは、原爆投下の候補地だったからであり、模擬原爆パンプキンは京都周辺のいくつも投下されている。また三発目の原爆も完成に近づいており、終戦が遅れれば八月二十日前後に京都に原爆が投下された可能性があったという。島村利正も『奈良登大路町』でもウォーナー自身が文化財を救ったことを否定しているし、ウォーナーの死にあたってもアメリカでは小さな追悼記事しか出なかったと書いている。
                          2015年9月12日 

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