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木山捷平『長春五馬路』を読んで

2018-01-07 16:23:05 | 読んだ本
          木山捷平『長春五馬路』              松山愼介
 木山捷平が満州から帰国した時、妻のみさをに、その苦悩は表現する言葉がないと言いつつ「敗戦後の一年間の生活は、百年を生きたほどの苦しみに耐えた」と語ったという。ところが、この作品には、そんな悲惨なところは書かれていない。一方で、「敗戦以来一ヶ年間に長春に於いてだけでも八万から十万人の死者を出しているのである。長春に於ける人口は敗戦当時約十万、奥地よりの避難者が約十五万、合計凡そ二十五万人であったから、その死亡率たるや思うべし」と木山捷平は書いている。蒋介石は、日本人に危害をくわえないようという指令を出している。満州では、中国人大衆の一部が日本人住宅を襲い、進駐してきたソ連兵は掠奪、暴行を好き放題に行い、日本軍捕虜だけではなく日本人男子を拉致し、シベリアへ抑留した。
 二十一年四月半ばソ連軍にかわり八路軍が入城した。約一カ月半の駐屯にすぎなかったが、日本人庶民の生活を擁護した。五月下旬、国民党軍が無血入城し長春の治安は回復した。木山捷平は引揚船に乗るため、二十一年七月十四日、無蓋車で南長春駅を出発した。葫蘆島を出発したがコレラ患者がでたため佐世保沖で三十二日間船に閉じ込められた。妻のみさをは木山捷平の様子を「肩から出た手は関節だけ瘤のようで、箒木ほどの骨を見た途端、私はその栄養失調が極限に近いことを知って息を呑んだ。脚も手と同様で坐骨は飛び出し尖っていた。よくもこの体で、はるばる海をわたって帰ってきたことだと私は気力というものは怖ろしいものと思った」と書いている(岩阪恵子『木山さん、捷平さん』)。帰国後、木山捷平はむさぼるように飯を食ったが、食べた後から下痢をした。しかし、その下痢も十六日目にピタリと止まったという。栄養失調の身体が食べ物を受け付けなかったのである。
 昭和十九年十月中旬に満州農地開発公社に嘱託として採用され、十二月に長春に赴任する。この満州行きには、満映に就職していた北村謙次郎の熱心な誘いがあった。国内では自由な出版ができず、満州で「軍部なんかの驥尾に付さない純文芸誌の計画をたて」、その題も「飛天」と決まっていたという。酒好きの木山捷平が、自由に酒が飲める満州に行こうとしたという説があるが、栗谷川虹は『木山捷平の生涯』で、日本国内での文学的行き詰まりを打破し、一方で満州という「精神の極北」に身を晒すという思いがあったのではないかと推測している。
 私は敗戦後、中国に取り残された日本人が、引き揚げまでの期間どのように過ごしていたかが気になっていた。漢奸として処刑されそうになった李香蘭の親は北京に住んでいたが、家財を売って食いつないでいた。武田泰淳はたしか上海で代書屋をやっていたらしい。引き揚げるときに子供を中国人に預けたという悲劇をえがいた山崎豊子の『大地の子』という作品もある。この作品は当時の首相・胡耀邦に三回も会見し、現地の取材許可を得、八年間かけて書きあげたそうである。
『長春五馬路』では、最初は高粱から作った白酒(パイチュウ)を売り、後からはボロを売って生活をしている。満州人のなかに、一人、日本人が混じっての商いであった。商売の場所を移動させられる場面では、さりげなく八路軍と国民党軍の争いをえがいている。『長春五馬路』の前編にあたる作品に『大陸の細道』がある。『大陸の細道』の第一章「海の細道」は昭和二十二年に発表されている。そのためもあって、この作品では満州の零下二十度に達する寒さのなかでの生活が綴られている。人々が寒さに耐えるために常に足踏みしているとか、朝起きたら顔に霜が降りていたとかリアルに書かれている。十五年間に書かれた四つの短編をまとめた『大陸の細道』が昭和三十七年に発表され芸術選奨文部大臣賞をもらっている。『長春五馬路』も八年間に書かれた作品がまとめられたものだが、刊行されたときには木山捷平は鬼籍に入っていた。
『長春五馬路』は、敗戦から相当の年月がたっているため、満州での生活を余裕をもって振り返って書いているようである。それで相当、話を膨らませているようである。七家子などは架空の人物だと思われる。講談社文芸文庫に木山捷平の作品は十冊以上あるそうだが、一見、簡単なユーモア小説らしく書いているが、この作家は一筋縄ではいかないと思う。朝鮮で敗戦を迎えた日野啓三、後藤明生らの作品は読んでいたが、満州で敗戦を迎えた作家の作品は初めてだと思うので新鮮だった。
                       2017年10月14日

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