2021年の締めくくりは、
私の父の「死」でした。
2021年12月26日(日曜日)
79歳でした。
母から父が危篤という連絡をもらい職場を早退し、バイクで病院に向かった。
この日の京都市内は、毎年恒例の駅伝が開催されており、気持ちばかりが焦る。
そして、雪もちらつく寒い日だった。
病院は、コロナ禍で感染防止対策のため全病棟面会禁止。入院中は、父には会えない。今回は“制限付”で父の顔を病室で見ることができました。面会できるってことは、別れが近いってことだと思った。
ベッドに横たわる父の姿は、痩せこけて別人のようだった。父の手を繰り返し握ったけど、反応なし。目を見開き、天井を見つめる姿は“死”への歩みを際(きわ)で踏んばっているかのように見えました。
一旦待合室へ移動。
しばらくすると、再び家族全員が病室へ呼ばれた。先程は、80代だったベッド横の機械装置の数値が、半分の40代になっていた。30代。20代と数値が下がっていく。数値が下がるにつれ、私の鼓動が上がっていくのがわかった。
そして、ゼロ。
ピーーー。という機械音が鳴り響く部屋。
自分たちでは止められない音、そして、耳障りな音に胸が締めつけられた。
2019年の夏に、大腸がんの手術をしてからストーマという人口肛門を身体につけながらの生活となり抗がん剤治療を続けていましたが、それも効果なく再入院してすぐのことでした。
息をひきとった父に言葉をかける度に、
口から何かが吐き出されていくかのように、
自然と涙が出てきました。
父へ。
“ありがとう”と。
12月が誕生日だった父は、79歳になったばかり。自宅でお祝いをし、家族で一緒に写真を撮った。それが、最後の記念の写真となりました。
誕生日を迎える2週間前。
まだまだ意識がしっかりしていた頃に、僕は父に感謝の気持ちを伝えました。
“お父さん。気を悪くせんといてな。後悔したくないから、失礼を承知で僕の気持ちを伝えておきます。
今までお世話になり、
ありがとうございました・・・。”
と床に頭をつけました。
父は、苦笑い。
“そうか。そうか。お前はそう思ってたんか。わかった。わかった。”と言ってくれた。
傍にいた母は泣いていた。
こんなことをしたのは、
私が、そうしたかったから。
コロナ禍でも、
母。弟。かみさん。私。
家族がそろって父の最期に立ち会うことができて本当に良かったと思います。
お父さん・・・。
ありがとう。
お父さんが次のステージへいったように、僕の心も次のステージへ成長していけるように頑張るわな!
息子より。