おばあちゃん(僕の父の母)が亡くなった。
2020年3月に100歳(百寿)を迎え、その命を全うして息をひきとりました。
大正、昭和、平成、令和を生きてきたことになります。
100年!
すごい!
おばあちゃんは、結婚して3人の子供に恵まれましたが、旦那(僕にとってはおじいちゃん)、子供1人を亡くし、幼い子供2人(僕の父と叔父)を戦中、戦後をシングルマザーで育てて来ました。
当時の環境がどんなものか想像もできませんが、懸命に働き続けてきたことだけは知っています。
僕の父も中学卒業後、会社に就職して、おばあちゃんと家計を支えてきました。
僕が記憶しているおばあちゃんは、いつも農作業をしていました。お米や野菜などを作ってた。農作業に使う運搬用具の一輪車をよく押してたなぁ~。毎日働いていた。
遊ぶのも、お昼ご飯を一緒に食べるのも田んぼでした(笑)
プレハブのような簡易な自宅。
外にあるトイレ(夜が怖かった)。
そんな環境から2階建ての立派な家を建てるほど働いていた。
そして、食べることが好きでした。
“うまいもん。みんなで食べよな”
食べに行くと
“(お腹一杯)食(く)ったけ?”と僕らに聞いてくる。
そう言いながら、シワくちゃの顔で笑ってました。
葬儀の時、
隣にいた父がおばあちゃんの遺影を遠目で見つめながら、
“お前(=おばあちゃん)も、よぉー頑張ってきたな。ワシ(=父自身)も頑張ってきたんやで。”
と語りかけるように声をかけていた。
この言葉は、おばあちゃんと父の間でしかわからない苦労がにじみでるもののように思えた。
田舎の葬儀は、大変だ。
僕にとって、自分の家系の葬儀は、おばあちゃんが初めてだったから、余計にそう思ったのかもしれません。
町内から「葬儀委員長」という人が現れ、その葬儀を喪主である叔父と進めていく。
祭壇に飾る花の並べ方や席などの「順番」が決められ、僕の知らない「田舎(町内)の慣習」に沿って進められる。
本家。分家。
兄弟、その妻、その子供・・・。
家系の縮図を基に「順番」が決められ、葬儀が進行される。
父は、長男。
実家を離れて約50年となる。
その間「実家を守ってきた」のは、叔父でした。
参列者からお別れの花が手向けられたおばあちゃんの棺を挟んで、父が叔父家族に深々と頭を下げて、声をつまらせながら、このようなことを言った。
今まで、(おばあちゃんのことも含め)世話になりました。ありがとうございました。
と。
父の流す涙には、父がこの約50年間抱え続けてきた何かがあるのだろう思う。
叔父家族に対する謝罪と感謝。
一度実家を出たなら、帰るまい。
父は父なりに、最終的に、自分の実家近くに店を構えられるまで仕事を頑張ってきた。おばあちゃんが行き来できる距離に。
そこにも、父なりの思いや考え方があるんだろうと思います。
思うだけで、本当の気持ちは、僕には、わかりませんが(^-^;
ただ、おばあちゃんの死が、父の心にあったものを素直にさせた瞬間だったのでは?と・・・僕は、思っています。
そして、その父の姿に自然と涙が出ました。今でも、強烈に僕の心に残っています。
おばあちゃんの葬儀は、無事に終わりました。
おばあちゃんに付けられた戒名の中には、僕とは面識のないおじいちゃんの戒名と一対になるように「ある一文字」があることをお坊さんが教えてくれました。
確かに、おじいちゃんとおばあちゃんがつながった(T∀T)
おじいちゃんとの結婚生活が短かったおばあちゃん。二人が再び出会い、一緒にいられたらいいのに。
そして、僕らを見守るように照らし続けてほしいです。
おばあちゃん。
ありがとう!
南無阿弥陀仏。
読んでいただき、ありがとうございました。拙い長文になりましたが、この時の気持ちを忘れないためにも、自分のブログに掲載しました。