SAMMYのみちくさ日記

「気まま」に「みちくさ」しながら、ありのまんま思ったことを無精者が書いてるブログです(^_^)v

父親の姿。

2022年01月23日 | Michi-kusa
私の父は、2021年12月。
79歳で他界しました。

「父親」

亡き父のことを自分のブログに書いてみたくなったので書きます。


父が、まだ3歳の頃。
父は、父親と妹と死別しています。

私の父は「父親の姿」を覚えていなかった。

戦中、戦後、残された母親と弟と生きるために中学を卒業して働きに出ました。
父は必死に働いたと言っていた。
当時「三種の神器」と呼ばれた家電を買えたと自慢気に話していました。

そして、私の母と結婚。
私と弟を授かりました。
父と母との出会いにもエピソードがありますが、こちらはまたの機会に。

父は、建築関係の仕事をしていてサラリーマンから独立して個人事業主となりました。

私が、小さな頃。
父の仕事について行くことが多かった。
車の助手席に乗っているだけでしたが(笑)
弟が産まれたこともあって、母が弟、父が私をみていたのです。

取引先へ行くと、おっちゃんやおばちゃんがお菓子をくれる。そのことが嬉しかったのを今でも覚えています。
そして、助手席に乗る私の急にやってくるトイレ攻撃が父にとって最強最悪のことだったと言っていました(笑)トイレを探すのに一苦労したからです(^^;

夜になると、父が車の運転をしながら“眠かったら、ここで寝たらええしな”と言って、自分の膝をポンポンと叩く姿を覚えています。

配達に行った時の私の寝床は、父の膝でした。私はこの頃に「父の匂い」を知りました。それは、服に染み込んだ油臭いもので
した。この父の匂いと車の中で過ごした時間、膝の感触は生涯忘れることのない大切な思い出となっています。

そんな当時の父は、頑固で気が短く、厳しいというより、怖かった。そして、真面目で、仕事一筋な人でした。
母がよく“今日お父さん機嫌悪いからな”って小声で教えてくれてました(^^;

小さな頃は、忙しい中でも釣りや海水浴などアウトドアによく連れて行ってくれて「釣りの楽しさ」を知ったのも父のおかげでした。後に、私がボーイスカウトに入ったことで、父の野外活動、奉仕活動が本格化し、父は、隊長になってしまった(^_^)隊長を退いてもボーイスカウトの活動を裏方として支えるなど子供たちの世話をするために休日を過ごしていました。怖かった性格がどんどん丸くなっていったのも、この活動が影響していたと私は思っています。

私が進学を迎える頃、父の仕事は大変な時期だった。これは、後から父から聞かされました。何とかお金を工面して進学させてもらい、無事に卒業することができました。就職のタイミングでも“この仕事は継がなくていい”と言われたのを覚えています。

この頃の私はというと、以前ブログにも書きましたが、バイトとバンド漬けの生活を送っていました。そんな中、父から言われた言葉を思い出します。

“お前は、頭で飯を食っていくんか?身体で飯を食っていくんか?どっちや?”

父らしい言い方だと思います。
ちなみに、父の仕事は“身体で飯を食っていく”分類になります(笑)

父の職種分類からみると(笑)、
私は当時”頭で飯を食っていく”職につきましたが、今は“身体で飯を食っていく”職についてます。色々と考え方など親との相違があり、感情的になったりしたこともあるけど離れて暮らす息子のことを陰ながら気にかけてくれていたこと。当時は、素直に感謝できませんでした。

そして、結納当日のエピソード。
かみさんの実家へ挨拶をしに行くのに、結納品がないことに父は激怒。

“お前は、いらんかもしれんけどな!考え方が古いっていうかもしれんけどな!ちゃんとしとかなあかんもんなんや!”

お店が開いてない早朝のことだったけど、父ひとりが車を走らせ結納品を買って私に持たせてくれました。今となっては、結納品を持ってかみさんの実家へ行って“けじめ”をしっかりとつけられたのは良かったと思っています。

結婚して、私は実家を離れた。
たまに実家へ帰ると、父は口ぐせのようにこう言っていた。

“「漬け物(つけもん)」をつまむだけでもええねん。こうやって、家族は集まらなあかんねん。”って。

このブログでも「オトン」「オカン」の呼び名で両親が登場していたけど、母がガンを患い、翌年父がガンを患った頃から、両親は殆ど登場していない。それは、私があまり実家へ帰らなくなったからです。親子間では色々ありますね~(^_^;)
親子。人生においての修行の場です。

父の余命が「半年」と告げられ、実家へ行くとしんどいながらも寝床から力を振り絞って這い上がるように身体を起こす姿は、見ているこちらが胸を締め付けられるほどの正に「父親の姿」でした。

そこまで父を突き動かす気持ちは、何なんだろ?

こたつのへりを掴みながら、身体を起こそうとする父が発した言葉が今も忘れられません。

“死にたい時。あるんやで。でもな、預かった命。簡単に死ねへんねん。”

父が大腸ガンの手術後に私に言った言葉が過(よぎ)った。
“ひとつの命を預かったけど、これから大変やわ”

正面に座る父と話す中で、父に次のような質問をしました。

“お父さん。僕に伝えておきたいことってある?”

即答したのが「奉仕をする」でした。
(ボーイスカウトで)もっと奉仕をすれば良かったと言いました。そして、「人につくす」「人はみてる」でした。
父の店に奉っていた伏見稲荷大社のお稲荷さんにも「手を合わせていて良かった」と言いました。色々と窮地を救われたからだと言いました。

顔。手。足は、むくみ。
言葉も発しにくい。
時に、テーブルに顔を伏せながら呼吸をする。

「父親の姿」

勝手な想像ですが、父は、父親というものを知らないが故に、ずっとその姿を探し続けていたと思います。

振り返ると、私は、父から沢山の心に残るものや生きるための着地点などを躾られていたと思います。
父は、最期まで私達家族それぞれに、そして、私に「父親の姿」を残してくれました。

この身体に。
この精神に。

父は生きている。
そう思えるんです。

父の死が、私の人間力を一歩進めてくれたと思っています。

お父さん。
ありがとう。

“家族は集まらなあかんねん”って言っていた父。その父の他界により、2022年の元旦は、家族全員で母の作った「白味噌のお雑煮」を食べることができたのでした。

美味しかったです!
ごちそうさまでした!

冷凍生餃子の自動販売機。

2022年01月21日 | Michi-kusa
最近、頻繁に見かける店舗があります。
それが、冷凍生餃子の自動販売機がある《祇園餃子》
どんなんかなぁ~って興味もあるし、食べてみたいし・・・(笑)
勝手がわからんので、少し緊張するけど、24時間営業の無人販売所。
入ってみました!

店舗に入ると、防犯カメラがとらえた僕の姿がテレビ画面に映し出された。

“お~~~。録られてる”っ感じ(笑)

冷凍庫前に貼られた購入方法を熟読。
この熟読風景も監視カメラサイドから見ると“怪しい”(;¬_¬)ように思えるのだろうか?

・冷凍庫から餃子(36個入)を出す
・1,000円を料金箱へ投入(おつりはでません)
・レジ袋、保冷剤もありました。

購入は楽チン(^_^)

包み紙には作り方、そして1,000円の領収書も印字されていました。

今回は、油と水を多めに調理してみたんですが、焼き目がカリっとして、皮は少し厚めかなぁ?餃子の餡にニンニク感は、あまり感じなかったけど、翌日やってきました(笑)

無人販売なので、食べたい時にゲットできる手軽さ。料金も1000円。

このご時世。
こういう販売形態もありですね。

気になっていたお店。
コンプリートです(^^;

閉店。

2022年01月16日 | Michi-kusa
餃子の王将 五条桂川店。
慣れ親しんだお店の味。
マスターが定年の為、寂しいですが閉店。

長い間。
美味しく料理を食べさせてもらいました。
ありがとうございました!
そして、
お疲れさまでした!

最後のオーダーは、僕の中の思い出メニュー。
《ラーメン定食》


《餃子》

最後まで美味しくいただきました!
ごちそうさまでしたm(_ _)m

お葬式を知る。

2022年01月14日 | Michi-kusa
「父の死」は、私に色々と教えてくれています。

その一つが、お葬式。
遺族として京都市内でお葬式をしたのは、初めてのことでした。

今後のために、記憶が多少(笑)あるうちに書き残しておこうと思います。
ここからは、長文になりますので、ご容赦くださいm(_ _)m


父が亡くなった後、葬儀社へ連絡をとった。病院側が葬儀社の連絡先を教えてくれました。葬儀社が父を迎えに来るまでの約90分間。病室から荷物を搬出したり、父が退室できるように看護師さんの作業に立ち会ったり、死亡診断書の説明を受けたり等々と落ち着くことはなかった。

雪が降る中、自宅近くを通ってもらい葬儀場の霊安室へ父を搬入。
そして、葬儀の打ち合わせへ。
通夜と告別式の日程、祭壇や祭壇装飾など決定事項は多い。ここも約90分ほどかかった。帰宅後、遺影に使用する写真を探す。事前に“これ。いいね”ってやつを準備しておいて良かったと思った。

翌朝。遺影に使う写真などのデータを葬儀場へ持って行った。この時、葬儀を担当する方と初対面。私がこれまでに経験した葬儀で思っていたことは、葬儀における担当者の人柄や判断・指揮力などは喪主や遺族にとってとても大切で重要なことってことです。今回の葬儀では、担当者やスタッフの方々のおかげで、父を気持ち良く見おくれたと思います。

父を湯灌(ゆかん)するために別の葬儀場へ移動。湯船に横たわった父が、全身を洗われている。そんな姿を別室からガラスごしに眺める。私ならお風呂に入って、あの世に行きたい!と思ったので、費用増し増しになったけど(笑)チョイスして良かったと家族全員一致。おばあちゃん(母方)が手作りした着物の死装束に着替えて葬儀場へ戻りました。湯灌をしてもらっている間に式場の準備が完了。

通夜。
広い会場に36席の椅子。
ソーシャルディスタンスのためその半分の18席の椅子となっていたけど参列するのは、

母。弟。かみさん。私。
4人だけが見送る葬儀。
祭壇中央には、父の遺影。

“この写真にして良かった”とまたまた家族全員一致(^_^)

通夜が始まる前。葬儀社に紹介してもらったお寺の住職さんと初対面。話しやすくて、気さくな住職さんで、こちらが話しやすいような雰囲気を作ってくれて本当にありがたかった。戒名も“最後の文字を除いて”その場で一緒に考えた。
一文字目→父の人柄を表す文字
二文字目→男性を表す文字
三文字目→父の名前から一文字を使用
四文字目→「告別式に発表!」

この四文字目については、
私から“ご住職が私の父の遺影をみられて感じた文字でお願いします”とお願いしました。住職さんは、笑いながら快く“わかりました”と返事をしてくれました。

4人だけが見送る通夜は、住職さん、スタッフのみなさんのおかげで無事に終わりました。

そして、告別式が始まる前。
再び住職さんにご挨拶(御布施を含む)。今後の法要を住職さんにしてもらえることとなる。心からありがたいと思った。

そして、戒名の四文字目。

住職さんが考えたその四文字目は、涙がこみ上げてくるほど父を表している文字でした。父の戒名は、家族全員が喜ぶものとなったので本当に住職さんに感謝です。

告別式後すぐに初七日の法要を行い、また、故人を偲んで思い出の写真12枚がスライドショーでながれた。スクリーンに映し出される1枚1枚の写真に家族みんなが反応してくれたので嬉しかった。前日に遺影写真と共に、ハードディスクにあるフォルダ名を見ながら家族の思い出の写真12枚を探しまくってよかった(^^;

そして、家族4人と棺を乗せた縦長の豪華センチュリーは、京都市中央斎場へ向かいました。初めて来た斎場の施設は、巨大。
東西南北に1ヶ所ずつホールがあり、その各ホールに6つの火葬炉が配置されているとのこと。施設の利用にあたっては先着順となり多い時には、100近くの火葬が行われるそうです。父は京都市民なので2万円(京都市外なら10万円)。葬儀社が立替払いをしてくれ、後日請求されます。
斎場は、待合室も広くコロナ禍でも立ち会う遺族は多かった。喪服姿が占めるフードコート。券売機前の行列。鳴り響く“できましたよ~”の呼び鈴。ここでも世話役は大変だなって思ったし、生きるために食べる至極当たり前の光景が同じ敷地内でいとなまれていることに“生きてる”を実感した。
ちなみに、はいからうどん(550円)京乃笹寿し(小鯛、鮭、穴子600円)カレーライス(750円)ミックスサンド(750円)などでした。約2時間待って収骨。父の骨格は、しっかりしていた。初めて見たのど仏もキレイに残っていた。父の身に仏がいたことに父の生前が思い出されました。合掌。

父の葬儀が無事に終わりハイヤーで帰路についた。そして、実家に法要の祭壇が設置された。

通夜が行われる前の時間を利用して、実家を大掃除。祭壇を置くスペースの確保です。遺族はやることが多い。

設置後、今後の法要の流れや葬儀社への新規加入などの説明をしてもらい一旦終了。

ようやく、遺骨と遺影を前に、家族だけの時間を過ごした。

2日間。家族だけの葬儀となりました。
父が生前に言っていた葬儀のやり方で、喪主である母が決めた葬儀は、ずっと父を思うことができて、父とじっくりと向き合えた葬儀となりました。遺族としては、本当に良かったと思っています。

父の治療にあたっていただいた医療従事者の方々、葬儀関係者の方々のおかげで無事に終えることができました。
本当にお世話になり、ありがとうございました。


最後に、
お母さんへ。

お疲れさまでした。
お母さんの自然と笑う姿が見られる日をゆっくりと僕は待っています。
息子より。

2022年。寒中見舞い申し上げます。

2022年01月12日 | Michi-kusa
2021年の締めくくりは、
私の父の「死」でした。

2021年12月26日(日曜日)
79歳でした。


母から父が危篤という連絡をもらい職場を早退し、バイクで病院に向かった。
この日の京都市内は、毎年恒例の駅伝が開催されており、気持ちばかりが焦る。
そして、雪もちらつく寒い日だった。


病院は、コロナ禍で感染防止対策のため全病棟面会禁止。入院中は、父には会えない。今回は“制限付”で父の顔を病室で見ることができました。面会できるってことは、別れが近いってことだと思った。

ベッドに横たわる父の姿は、痩せこけて別人のようだった。父の手を繰り返し握ったけど、反応なし。目を見開き、天井を見つめる姿は“死”への歩みを際(きわ)で踏んばっているかのように見えました。

一旦待合室へ移動。

しばらくすると、再び家族全員が病室へ呼ばれた。先程は、80代だったベッド横の機械装置の数値が、半分の40代になっていた。30代。20代と数値が下がっていく。数値が下がるにつれ、私の鼓動が上がっていくのがわかった。
そして、ゼロ。


ピーーー。という機械音が鳴り響く部屋。
自分たちでは止められない音、そして、耳障りな音に胸が締めつけられた。


2019年の夏に、大腸がんの手術をしてからストーマという人口肛門を身体につけながらの生活となり抗がん剤治療を続けていましたが、それも効果なく再入院してすぐのことでした。


息をひきとった父に言葉をかける度に、
口から何かが吐き出されていくかのように、
自然と涙が出てきました。


父へ。
“ありがとう”と。


12月が誕生日だった父は、79歳になったばかり。自宅でお祝いをし、家族で一緒に写真を撮った。それが、最後の記念の写真となりました。


誕生日を迎える2週間前。
まだまだ意識がしっかりしていた頃に、僕は父に感謝の気持ちを伝えました。


“お父さん。気を悪くせんといてな。後悔したくないから、失礼を承知で僕の気持ちを伝えておきます。
今までお世話になり、
ありがとうございました・・・。”
と床に頭をつけました。

父は、苦笑い。
“そうか。そうか。お前はそう思ってたんか。わかった。わかった。”と言ってくれた。
傍にいた母は泣いていた。


こんなことをしたのは、
私が、そうしたかったから。


コロナ禍でも、
母。弟。かみさん。私。
家族がそろって父の最期に立ち会うことができて本当に良かったと思います。


お父さん・・・。
ありがとう。
お父さんが次のステージへいったように、僕の心も次のステージへ成長していけるように頑張るわな!
息子より。