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Soft for Digging (2001年、アメリカ)
監督 J.T. Petty
分類すればホラーだろうが、孤独な老人の奇妙な、狂気寸前の孤独とも言うべき日常がパントマイムで表現される様子は、ありきたりの老境ものを凌ぐリアルさがある。そう、ほとんどパントマイム。この映画の「独特の手法」とは――正解は「ほとんど科白がない」でした。
主人公の老人が喋るのは、序盤の終わり、少女殺害現場を目撃して走って逃げてきたところ、自転車の少年に「murder……」その一言だけ。この手法はさすがに露骨でしたから、ほとんどの人が気づいたようですね。ただ、はっきり書いてくれたのは46人中32人でした。
無言劇ではあっても、うっかりするとそうとは気づかせない緊迫感をもって情景は展開してゆく。孤児院で犯人たちがまとまった科白を短時間発したその時になって初めて、「あれ? 今まで会話がなかったなあ……」と気づいた人もいたかもしれません。科白がないと、いかに日常の物音がリアルに感じられるか、そして通常のハリウッド映画が(それ以外の映画も)いかに科白過多であるかを確認させてくれる映画でした。
サイレント映画とは微妙に違う。話をしている場面そのものがきわどくカットされているような、不思議な視点に観賞者は置かれるのだ。科白極小構成は、老人の独居環境を自然に表現したぴったりの手法と言えるが、しかし「科白カット」の手法以外にも、細かいところでなかなかツボが押さえられている。クリスマスにはちゃんとリースを作って飾り、エッグノックを作って飲む。ツリーも森から掘り出してくる。そのあたりに哀愁が漂う。出勤するわけでもないのに毎朝目覚まし時計の派手な音で起床する日課もほんのり微笑ましくも物悲しいが、目覚まし時計といえば5/7に観た「家での静かな一週間」も終始無言だったことを思い出していただきたい。ただあちらは、世界そのものがシュールでアブストラクトだったので科白無しも当然のような気がしたが、こちらは登場人物もそれなりに多いリアル設定であるにもかかわらず科白を削除しているところが、剥き出しの実験アート色を帯びていると言えよう。
目撃証言を信じてもらえない微妙な苛立ちのあげく、少女霊の見せる夢に誘われて(8割は正気の正義感、2割は怨霊に操られている的なムード比率の配合がまた絶妙)孤児院に車で向かうシーンも、エンジンがかかりにくいほど久しぶりの運転の様子が、どんどん追い抜かれてゆくノロノロ走行の描写によっても表わされ、健気な哀感を伝えている。
アメリカ映画だけあって、こうした変則的な実験映画でも、しっかりエンタテイメントになっている。猫を殺すに至る人格変容のじわじわぶりをラストにダメ押しした物語部分も、〈解釈はご自由に〉モードがあからさま。そのあたりにやや不自然な「青さ」が仄見えもするが、ヨーロッパ系のナチュラルな芸術映画に比べて、こうした幾分気負った実験映画はほどよいアート鑑賞気分を味わわせてくれる。
ちなみに、以前に備忘録的にメモしたレビューはここ↓
http://green.ap.teacup.com/miurat/863.html
Soft for Digging (2001年、アメリカ)
監督 J.T. Petty
分類すればホラーだろうが、孤独な老人の奇妙な、狂気寸前の孤独とも言うべき日常がパントマイムで表現される様子は、ありきたりの老境ものを凌ぐリアルさがある。そう、ほとんどパントマイム。この映画の「独特の手法」とは――正解は「ほとんど科白がない」でした。
主人公の老人が喋るのは、序盤の終わり、少女殺害現場を目撃して走って逃げてきたところ、自転車の少年に「murder……」その一言だけ。この手法はさすがに露骨でしたから、ほとんどの人が気づいたようですね。ただ、はっきり書いてくれたのは46人中32人でした。
無言劇ではあっても、うっかりするとそうとは気づかせない緊迫感をもって情景は展開してゆく。孤児院で犯人たちがまとまった科白を短時間発したその時になって初めて、「あれ? 今まで会話がなかったなあ……」と気づいた人もいたかもしれません。科白がないと、いかに日常の物音がリアルに感じられるか、そして通常のハリウッド映画が(それ以外の映画も)いかに科白過多であるかを確認させてくれる映画でした。
サイレント映画とは微妙に違う。話をしている場面そのものがきわどくカットされているような、不思議な視点に観賞者は置かれるのだ。科白極小構成は、老人の独居環境を自然に表現したぴったりの手法と言えるが、しかし「科白カット」の手法以外にも、細かいところでなかなかツボが押さえられている。クリスマスにはちゃんとリースを作って飾り、エッグノックを作って飲む。ツリーも森から掘り出してくる。そのあたりに哀愁が漂う。出勤するわけでもないのに毎朝目覚まし時計の派手な音で起床する日課もほんのり微笑ましくも物悲しいが、目覚まし時計といえば5/7に観た「家での静かな一週間」も終始無言だったことを思い出していただきたい。ただあちらは、世界そのものがシュールでアブストラクトだったので科白無しも当然のような気がしたが、こちらは登場人物もそれなりに多いリアル設定であるにもかかわらず科白を削除しているところが、剥き出しの実験アート色を帯びていると言えよう。
目撃証言を信じてもらえない微妙な苛立ちのあげく、少女霊の見せる夢に誘われて(8割は正気の正義感、2割は怨霊に操られている的なムード比率の配合がまた絶妙)孤児院に車で向かうシーンも、エンジンがかかりにくいほど久しぶりの運転の様子が、どんどん追い抜かれてゆくノロノロ走行の描写によっても表わされ、健気な哀感を伝えている。
アメリカ映画だけあって、こうした変則的な実験映画でも、しっかりエンタテイメントになっている。猫を殺すに至る人格変容のじわじわぶりをラストにダメ押しした物語部分も、〈解釈はご自由に〉モードがあからさま。そのあたりにやや不自然な「青さ」が仄見えもするが、ヨーロッパ系のナチュラルな芸術映画に比べて、こうした幾分気負った実験映画はほどよいアート鑑賞気分を味わわせてくれる。
ちなみに、以前に備忘録的にメモしたレビューはここ↓
http://green.ap.teacup.com/miurat/863.html