三浦俊彦@goo@anthropicworld

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オトイアワセ:
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2007/6/11

2000-03-02 00:52:36 | 映示作品データ
■ mute ミュート
Soft for Digging (2001年、アメリカ)
監督 J.T. Petty

 分類すればホラーだろうが、孤独な老人の奇妙な、狂気寸前の孤独とも言うべき日常がパントマイムで表現される様子は、ありきたりの老境ものを凌ぐリアルさがある。そう、ほとんどパントマイム。この映画の「独特の手法」とは――正解は「ほとんど科白がない」でした。
 主人公の老人が喋るのは、序盤の終わり、少女殺害現場を目撃して走って逃げてきたところ、自転車の少年に「murder……」その一言だけ。この手法はさすがに露骨でしたから、ほとんどの人が気づいたようですね。ただ、はっきり書いてくれたのは46人中32人でした。
 無言劇ではあっても、うっかりするとそうとは気づかせない緊迫感をもって情景は展開してゆく。孤児院で犯人たちがまとまった科白を短時間発したその時になって初めて、「あれ? 今まで会話がなかったなあ……」と気づいた人もいたかもしれません。科白がないと、いかに日常の物音がリアルに感じられるか、そして通常のハリウッド映画が(それ以外の映画も)いかに科白過多であるかを確認させてくれる映画でした。
 サイレント映画とは微妙に違う。話をしている場面そのものがきわどくカットされているような、不思議な視点に観賞者は置かれるのだ。科白極小構成は、老人の独居環境を自然に表現したぴったりの手法と言えるが、しかし「科白カット」の手法以外にも、細かいところでなかなかツボが押さえられている。クリスマスにはちゃんとリースを作って飾り、エッグノックを作って飲む。ツリーも森から掘り出してくる。そのあたりに哀愁が漂う。出勤するわけでもないのに毎朝目覚まし時計の派手な音で起床する日課もほんのり微笑ましくも物悲しいが、目覚まし時計といえば5/7に観た「家での静かな一週間」も終始無言だったことを思い出していただきたい。ただあちらは、世界そのものがシュールでアブストラクトだったので科白無しも当然のような気がしたが、こちらは登場人物もそれなりに多いリアル設定であるにもかかわらず科白を削除しているところが、剥き出しの実験アート色を帯びていると言えよう。
 目撃証言を信じてもらえない微妙な苛立ちのあげく、少女霊の見せる夢に誘われて(8割は正気の正義感、2割は怨霊に操られている的なムード比率の配合がまた絶妙)孤児院に車で向かうシーンも、エンジンがかかりにくいほど久しぶりの運転の様子が、どんどん追い抜かれてゆくノロノロ走行の描写によっても表わされ、健気な哀感を伝えている。
 アメリカ映画だけあって、こうした変則的な実験映画でも、しっかりエンタテイメントになっている。猫を殺すに至る人格変容のじわじわぶりをラストにダメ押しした物語部分も、〈解釈はご自由に〉モードがあからさま。そのあたりにやや不自然な「青さ」が仄見えもするが、ヨーロッパ系のナチュラルな芸術映画に比べて、こうした幾分気負った実験映画はほどよいアート鑑賞気分を味わわせてくれる。
 ちなみに、以前に備忘録的にメモしたレビューはここ↓
http://green.ap.teacup.com/miurat/863.html

2007/6/4

2000-03-01 23:33:05 | 映示作品データ
皆殺しの天使 El Angel Exterminador (1962、メキシコ)
監督・脚本 Luis Bunuel  ルイス・ブニュエル

 スペイン出身のブニュエルの、メキシコ定住時代の代表作。
 オペラ公演が終って、上流階級の紳士淑女二十数名が、ノビレ邸に招待された。夜食を用意する使用人たちが些細な理由で次々に去ってしまったのと対照的に、客たちは夜遅くなっても帰ろうとしない。邸を出ようとするたびに「まああとコーヒー一杯くらい」などと戻ってしまい、全員が無気力に囚われてますます帰れなくなってゆく。日が経つうちに、外でも人だかりがし始め、状況を打破しようと呼ばれた警察や軍隊もとくに理由なく去ってしまう。「目に見えぬ力に操られている感じ」というのは精神病理学的にありうる現象だ。主賓を殺そうとまで思いつめる客たちだが、それで状況が打開できる保証はない。
 解決は、意外な「それなりに論理的な」形でもたらされる。ふと「最初の夜とみながたまたま同じ席で同じ会話をしている」ことに女性が気づき、同じ会話をやり直して首尾よく帰れるように流れを再構成したのだ。するとめでたく全員の言動がほぐれて心身の自由が戻り、帰途につくことができた……。これは、社会体制によって個人の自由意思が束縛されてロボット化、チェスの駒化してしまう傾向の政治的風刺と見ることもできる(人間機械論?)。
 前回に観た『自由の幻想』がギャグナンセンスだとしたら、これは「不条理」といったジャンルでくくれる作品。ラストで、脱出を祝って(?)ミサをあげにいった教会で、またもや皆が出られなくなってしまうあたりでは、「作者によって操られている登場人物」といったメタフィクション的な主題も仄見える。
 後半で二、三度現われた夢や幻覚のシーンは、短時間なだけに余計シュールな雰囲気を高めている。ヒツジの群れは、始めは豪勢な料理の食材として登場していたようでもあるが、後半にいたって次第に宗教的な(迷える子羊? いけにえ?)意味を濃厚にしてゆく。ハリウッド映画には絶対にありえない静謐なナンセンス劇である。

2007/5/21

2000-02-29 02:12:00 | 映示作品データ
■『自由の幻想』 Le Fantome De La Liberte (1974、フランス)
監督 Luis Bunuel ルイス・ブニュエル
製作 Serge Silberman セルジュ・シルベルマン
脚本 Luis Bunuel ルイス・ブニュエル
   Jean Claude Carriere ジャン・クロード・カリエール
撮影 Edmond Richard エドモン・リシャール

 ナポレオン占領下のスペイン人抵抗者→少女→父親→医者→看護婦→宿泊者たち→教授→友人宅の話→二人の生徒(警官)→癌患者→娘の捜査→ライフル乱射男→警視総監→捜査の終了→動物園……とりとめもなく続くオムニバス形式。いつどこで終わっても違和感のないシュールな〈意味の逆転〉(猥褻な風景写真、神父とギャンブル、トイレと食卓、人口問題と排泄問題、娘を連れて娘の捜索願、死刑宣告への祝福……)そしてミニマルなテンポ。とくに、この映画最大の特徴は、オムニバスの抽象化といおうか、明らかにストーリーは連続していながら、通して出演している人物が一人もいないという点。始めから終わりまで登場している主人公らしき人物はおらず、誰もが一つか二つのエピソードで活躍しただけで姿を消す。消えてしまった人はそのあとどうなったんだろうと気がかりを残しながら話はどんどん脱線してゆく。脱線しながらも新しいエピソードがそのつど観賞者の興味の焦点になるので、飽きは来ない。
 消えた人物への気がかりとは逆に、監督のルイス・ブニュエルのもともとの関心は、世にある物語の脇役たちのこれからの運命だったという。主人公ではなく、脇役のその後が気になるのだと。そこで脇役を次のエピソードの主役へ格上げするという繋げ方をどんどんやりまくっていったのがこの作品。
 この「無焦点オムニバス」とも呼ぶべき手法は、きわめてドキュメンタリー的と言える。私たちの主観的生活には主人公はいて(つまり自分だ)、その主人公の目を通して生活が進行するのは、感情移入するべきメインキャラクターのいるハリウッド映画と同じだ。しかし、現実世界そのものは、対等な「私」たちが中心もなくただ散らばっているだけで、主人公に相当する特権的焦点はない。その意味で、「主観というフィルターを通さないあるがままの現実」の模倣がこの作品の試みだとも言えるだろう。
 「自由」を否定しているようなタイトルと劇中の叫びだったが、焦点の中心人物に終始縛られるハリウッド的大衆映画の不自由さを脱して、真に自由な境地で遊べる、それがこの無焦点オムニバス方式ではないだろうか。
 ぐっとアート色の薄い模倣作としては、最近のJホラーとしては『呪霊The Movie 黒呪霊』(2004)が挙げられる。

 〈主人公不在で脇役が次々に主役化していくという無焦点オムニバス〉がこの映画の眼目だと正しく書いていたのは、45人中29人でした。

2007/5/14

2000-02-29 01:26:24 | 映示作品データ
■『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(ハンガリー、ドイツ、フランス、2000年)
Werckmeister Harmoniak
監督 : タル・ベーラ Tarr Bela
原作 : クロスナホルカイ・ラースロー「抵抗の憂鬱」

 2時間25分の上映時間に、たった37カット。「編集し尽くしNGを小刻みに差し替えて作り出すシミュレーション世界が映画だ」という暗黙の常識をさらりと侵犯していく、剥き出しの時間芸術。思わせぶりな素材はぎっしり。平均律を創始した音楽学者アンドレアス・ヴェルクマイスター(Andreas Werckmeister, 1645-1706)への論及、サーカスのクジラの見せ物、暴動、軍の出動など、それなりの素材が互いに繋がりそうな関係なさそうな、ゆるやかな連絡で羅列されてゆく。口述記録する音楽家の顔アップ360度撮影、クジラを積んだ巨大トラクターが夜の街路をゆっくり走る場面、無言で歩くところを延々と追ってゆくだけのシーン、群衆が一方向に歩くシーン、ヘリコプターの旋回シーンなどが、無駄と思われるほどの長回しでこれでもかとばかり提示され続けると、観ているほうはいい加減根負けしてくる、そんな映画だ。
 正直のところかなり退屈な映画なのだが(相当気持ちに余裕のあるときでないと全尺を真面目に観賞する気になれないかもしれない)、ポイントポイントに配置されたディテール集中シーンに誘われて、ずるずると魅入ってしまうのが不思議。
 ただ、ハンガリーという特殊な風土ならではの「特殊な映画」と見なしてすむかどうか。たしかに、オーストリア・ハンガリー二重帝国の第一次大戦敗戦による国民分断、失地回復を目指してナチス・ドイツの同盟国として最後まで戦った第二次大戦、共産主義国ハンガリー人民共和国下でのハンガリー動乱(1956年)、ソ連軍の介入、冷戦終結とともにハンガリー共和国発足、といった民族の歴史を知った上でないと、この不思議な作品は理解できないかもしれない。とくに、時間の流れ方がハリウッドとは全然違うこと。先進資本主義国のテンポとはまったく異なる「東欧の奥地」を感じさせる(やはり意図的だろうか)。とはいえ、ここで使われた反編集ともいうべき手法は芸術表現の普遍的な一側面を表わしている。色彩の否定、科白とカットの抑制、同じミニマル的BGMの多用、などは、映画に本来できることを極力排除して、最低限の表現資源で最大限の結実を得ようとする、表現の初心というべきものを象徴していた。その一種の<最大化原理>が、この映画の中の意味不明の民衆暴動(病院襲撃)にも共通した「最小限のテーマ」だったのかもしれない。

2007/5/7

2000-02-28 01:41:21 | 映示作品データ
「家での静かな一週間」
Tichý týden v dome (1969年、チェコスロバキア)20分
「ジャバウォッキー」
Zvahlav aneb Saticky Slameného Huberta(Jabberwocky) (1971年、チェコスロバキア) 14分
監督 ヤン・シュワンクマイエル Jan Svankmajer 1934年~
音楽(ジャバウォッキー) ズデネク・リシュカ Zdenek Liska 1922~83

 「特定の意味を持たないがゆえに、強引に意味を考えさせることにより、新たな意味を観賞者に創造させる」――ナンセンス作品は、確かにこのような効能を持つ。しかし、無意味な語や映像の羅列がありさえすれば、観賞者に対して「新しい意味体験」を強いる傑作になるとは限らない。実際、ナンセンス作品の中には、本当に無意味なだけの、啓発機能を持たない駄作も多い(時間があれば、そのような「駄作」もいくつか紹介したいと思うが)。シュワンクマイエルの作品は、この点で、周到に計算された啓発的ナンセンスの傑作と言えるだろう。
 「家での静かな一週間」は、モノクロ+音声のパート(外部)と、カラー+無音のパート(室内)が繰り返されて、日常の一側面を交代で強調しつつ捨象する。一週間の日課表を律儀に抹消しながら、男は機械的な反復作業を続ける。それとは対照的に室内は混沌として、二度と同じ繰り返しはないかのような乱雑運動。穴から覗かれるまではぼやけていて、見られることで室内があわてて焦点を結ぶ、といった構成がどの曜日でも繰り返されるが、これは、量子力学の観測問題(光を当てるまでは電子の位置その他の物理量は定まらない)を思わせる。
 「ジャバウォッキー」の室内の混乱も、「家での静かな一週間」と似ているが、イメージ的に、子どもが部屋を散らかすありさまをシミュレーションした形になっている。そのぶんわかりやすい。一方向に進もうとする迷路の進行と、全体の堂々巡り的な展開とが矛盾して、その緊張が最後に解体される。が、それは爆発的なカタルシスによるスッキリ解決ではなく、猫を鳥カゴに閉じこめるという収束的な形の解決だ。子どもがライバル(邪魔者)を片づけた格好だが、これは同時に、子ども部屋からの成長脱出が社会への「囲い込まれ」である、という事実を暗示しているようにも思われよう。
 一見、デタラメのようなナンセンス世界が、ただのデタラメに終わっていないのは、その表層的な映像表現の質の高さによるところも大きいが、それ以上に、ストーリー(?)の運びがそこはかとなく社会的な意味情報を伝えているからなのである。

 なお、シュワンクマイエルはDVDがたくさん出ていますが、作品を探すときは、「シュヴァンクマイエル」で検索したほうが多く出てくるでしょう。監督作品はどれも傑作。ただし、別の人の監督作品で、シュワンクマイエルが映像特殊効果に協力だけしている映画もシュワンクマイエルの名で登録されていることがあるので要注意。
 シュワンクマイエルの長編では、『オテサーネク』と『アリス』が特にお薦めです。
 http://green.ap.teacup.com/miurat/496.html
 http://green.ap.teacup.com/miurat/293.html
 http://green.ap.teacup.com/miurat/298.html

 授業用でなく自分用メモとして書いたものは↓
    http://green.ap.teacup.com/miurat/515.html
    http://green.ap.teacup.com/miurat/163.html