三浦俊彦@goo@anthropicworld

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オトイアワセ:
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2007/4/23

2000-02-27 02:26:45 | 映示作品データ
■ヒロシマ
 BBC放送
 Days That Shook the World
 2002年 (50分)

 前回に観た終戦直後のアメリカの調査映像とは違って、戦後57年経って作られたイギリスのドキュメンタリーTV番組。制作国、時代の違いを、映像の比較から読み取っていただきたい。
 BBCのこの作品は、アメリカ側の視点に立ちながらも、広島サイドからのショットも同時進行で入れることで、事実を客観的に映し出すドキュメンタリーの建前を強調している。盛り上げる音楽もなく、劇的な解釈や感傷的なコメントもなく、事実をひたすら追ってゆくことで、情緒を掻き立てるスタンスをとっている。
 戦時中にもかかわらず比較的平穏な日々が続いていた広島の日常風景と、アメリカの戦争努力に傾けた科学技術とを対比させることで、戦争を日常と非日常の両極端から照らし出す。アメリカの戦争努力にしても、20億ドルの費用という国家規模と、空中で起爆装置を命がけで組み立てる一兵士の手ワザという、大小の極端を並べることで、ここでも対比の効果を出している。いわば二重のコントラスト効果により、戦争の描写に深みをもたらしているのだ。冒頭近くに、手に血が滲むネジ回しの繰り返し訓練が描かれたことで、原爆を作ったのも被害を受けたのも一人一人の生身の人間であることが強調されたと言えよう。
 ドキュメンタリーでは、描かれる内容は「歴史的事実」として変更できないので、内容よりも手法(映像処理、アングルなど)の占める割合が大きくなる。この作品のように、再現映像と記録映像を組み合わせる場合は、結果的にフィクションとノンフィクションを融合させることになり、無意識の批判精神を観賞者に要請することになる。ドキュメンタリーを単に「事実の記録」として観るのではなく、手法のデモンストレーションとして、フィクション要素との緊張関係における表現芸術として観る姿勢を意識していただきたい。

2007/4/16

2000-02-26 00:01:53 | 映示作品データ
■「広島・長崎 原爆投下」『ドキュメント第2次世界大戦1』コスミック出版
  企画 CINEMA LIFE LTD.

 日本降伏直後に、広島・長崎に入ったアメリカ調査団の報告と宣伝を兼ねたフィルム。
 爆心地から建物までの距離、建っている方角、材質、等によって破壊度を検証しているところが尤もらしい。ちなみに、消滅した大半の建物の間に例外的に残った建物にスポットを当てていること、工業施設や交通施設の破壊に焦点を絞っていること、人間の被爆状況については、視覚的にも言語的にもなんのレポートも含まれていないことに注目すべきである。とくに長崎の描写では、爆発高度を調整したがゆえに、地上での被爆はほとんどなかった、と述べている。
 広島にいて被爆したドイツ人牧師(ジョン・ジーマス)にインタビューして「客観的な」印象を求めているところが面白い。はじめ日本人はアメリカ人を軽蔑していたが、B29による本土空襲が始まると、技術力に尊敬の念を抱くようになった、という観察は面白い。戦争体験者に私が聞いた範囲でも、当時の国民の意識はその通りだったようである。
 ジーマスの言にあったが、総力戦という前提のもとで原爆投下が正しいかどうかという問題と、総力戦そのものに対する倫理的問いかけは区別されなければならない。国民感情からすると、私たち日本人は、「原爆投下は悪だった」に違いないと思い込む。しかし、前提や視点によって見方が全然違いうることは意識せねばなるまい。日本より遥かに激しく長期にわたる空襲に耐えたドイツと、戦争末期の5ヶ月間に集中的に爆撃された日本とを比較することで、「無差別爆撃」について考えるとよいだろう。
 参考図書
 A・C・グレイリング『大空襲と原爆は本当に必要だったのか』河出書房新社
 大内建二『ドイツ本土戦略爆撃』光人社文庫
 前田哲男『戦略爆撃の思想―ゲルニカ・重慶・広島』凱風社
 ロナルド・シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』草思社
 ロナルド・タカキ『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか』草思社

↑ ここから2007年前期の「アメリカ圏研究」&「文学講義」  
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2007/1/22

2000-02-25 03:17:40 | 映示作品データ
[Focus] 1996年
監督 井坂聡
金村…… 浅野忠信
岩井…… 白井晃

 「素人」を演じる浅野忠信の演技が素晴らしい。盗聴する以外は全く無害な内気な青年が、ディレクターにいいように振り回されたあげく、チーマーに絡まれたのをきっかけに突如キレて発砲し3人のテレビクルーを拳銃で脅して監禁するまでの流れも絶妙。ドキュメンタリー形式の映画としては最高の部類に属するだろう。キレまくりながら運転するときの音楽が、カーステレオのように聞こえなかったのが残念。画面内でなく上から作為的なBGMが入ってしまうと、一挙にフィクション仕立てを帯びドキュメンタリー色が中途半端になってしまう。むろん、現実のオクラ入りフィルムに後からBGMを付けられるには付けられるのだが。そしていずれにしても浅野忠信はこの96年の時点ですでに顔が売れすぎていたので、本当の素人インタビューの密着取材の素材映像だと勘違いする観賞者はほとんどいなかったと思われるが。

 無線盗聴の実態を正しく解説しており、テレビ取材というものの本質をも的確に伝えている。その意味で、この映画はフィクションでありながら、ノンフィクションの色彩が濃いと言えよう。それだけに、「しょせん盗聴マニアは根は凶悪犯」といった偏見を強める作用があり、なかなか危険な作品でもある。マスコミのヤラセ事件が後を絶たないが、ディレクターに再三テレビの自己批判を語らせているところも、二重三重の社会批評になっている。思えば、麻原彰晃の映像を視聴者に無断でサブリミナル挿入したオウム真理教のテレビ報道が問題となった直後のことである。

 最後まで声だけ出演で顔を見せないカメラマンが、ラストでもなにやら重要な役割を演じている。突発事故が起きても、撮るなと怒鳴られても決してカメラを回すのをやめないカメラマン精神は、盗聴マニアの執拗さと通ずるものがあり(盗聴マニアがコレクター的ならカメラマンはストーカー的だ)、この映画の隠れた主題と言っていいかもしれない。

2007/1/15

2000-02-24 15:42:22 | 映示作品データ
Why We Fight 『われらはなぜ戦うのか』(全7巻)
第1巻Prelude to War大戦前夜
製作:アメリカ陸軍情報部1942~1945年 
監督:Frank Capra 1897-1991

『或る夜の出来事』『失われた地平線』『スミス都へ行く』などで知られるフランク・キャプラのプロパガンダ映画。今回観た第1巻は、1942年度アカデミー最優秀記録映画賞を受賞している。
 ナチスの宣伝映画とされたレニの『意志の勝利』のシーンが多数、反ナチ宣伝という正反対の目的に流用されているのが面白い。作品それ自体は特定の政治性を帯びてはいないことがよくわかる。
 『われらはなぜ戦うのか』について、Wikipediaから一部引用すると、

The seven documentaries are:
Prelude to War (1942) (Academy award as Documentary Feature) - this examines the difference between democratic and fascist states, and covers the Japanese conquest of Manchuria and the Italian conquest of Ethiopia
The Nazis Strike (1942) - covers Nazi geopolitics and the conquest of Austria, Czechoslovakia and Poland.
Divide and Conquer (1943) - chiefly about the Fall of France
The Battle of Britain (1943)
The Battle of Russia (1943) part 1, part 2
The Battle of China (1944)
War Comes to America (1945) - shows how the pattern of Axis aggression turned the American people against isolationism.
Prelude to War and The Battle of China refer several times to the Tanaka Memorial – Its authenticity is still a matter of dispute, – portraying it as "Japan's Mein Kampf" to raise American morale for a protracted war against Japan.

最後の段落にあるように、日本政府の世界征服計画の証拠とされる「田中上奏文」はその存在が疑わしく、アメリカ国民の日本への敵愾心を高めるために言及されたようである(あるいはこの映画の制作時には信じられていたのかもしれない)。

 なお、キャプラは『汝の敵、日本を知れ』Know Your Enemy JAPANというプロパガンダ映画も作っている。
http://green.ap.teacup.com/miurat/446.html#comment

なお、レポート提出の要領については、↓のコメントをクリックしてご覧ください。

2006/12/18

2000-02-23 02:27:35 | 映示作品データ
■『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』Impressionen unter Wasser
 2002年、ドイツ
監督 Leni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタール
撮影 Horst Kettner ホルスト・ケットナー
音楽 Giorgio Moroder ジョルジオ・モロダー
Daniel Walker ダニエル・ウォーカー

■『アトランティス』Atlantis
 1991年、フランス
監督 Luc Besson リュック・ベッソン
撮影 Christian Petron クリスチャン・ペトロン
音楽 Eric Serra エリック・セラ

 10月に3回に分けて観た『レニ』の終盤に、『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』の制作シーンが入っていたのを覚えているだろう。90歳を過ぎたレニが海に潜って撮影しては、パートナーのホルストといっしょにモニター見ながら熱心に編集作業していた。ホルストが動画撮影、レニはスチル写真撮影担当で、写真集が先に出版された。(『レニ』のときはまだ映画は出来ておらず、完成する予定もなかった)。
 代表的な海洋ドキュメンタリー『アトランティス』と比べると、同じような深さの海を撮っていながら、まったく印象の異なる映画になっている。『ワンダー・アンダー・ウォーター』は、広いアングルで撮らずに、あえて細部を注視している。その結果、構図は捨てられて色彩に集中することとなった。
 『アトランティス』のほうは、ダイナミックな構図と動きで、生物よりも海という環境を表現対象としている。色彩はブルー主体で、色が捨象されたことでコンポジションとダイナミズムが抽象された結果になっている。

 両作品とも、オープニングに説教じみたナレーションが入るのがあまり感心しない。メッセージも表現も通俗で陳腐であるため、本編の説明抜きの芸術的な仕上がりとの間にズレを感じてしまうところがある。
 とはいえ、この2作を観比べるのは、映像芸術の「美的否定」手法の可能性を測定するのにふさわしい鑑賞法であろう。
 『ディープ・ブルー』(2003年、イギリス、ドイツ)や『エイリアンズ・オブ・ザ・ディープ』(2005年、アメリカ)といった他の海洋ドキュメンタリーを比較項に入れていくとまた否定手法の拡がりが見えてくるだろう。