三浦俊彦@goo@anthropicworld

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オトイアワセ:
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2006/7/10

2000-02-13 23:51:35 | 映示作品データ
■エルミタージュ幻想 (2002, ロシア)
監督:アレクサンドル・ソクーロフ Aleksandr Sokurov

 エルミタージュ美術館については、ネット上でどこでも、たとえば→ここ←などを参照してください。
 
 世界遺産に指定されているエルミタージュ美術館の紹介ビデオとして観ることもできる映画だが、もちろんこれ自体がアートになろうとしており、前衛ドラマとして作られている。一見(一聴)わけがわからないところも多いが、歴史上の人物がたくさん登場し、王宮だったこの場所で過去に催されただろう外交儀式や舞踏会などの光景が、21世紀の一般市民の来館者の風景などと同レベルに映されてゆく。
 そう、この映画の驚くべき手法とは、「ワンテイクムービー」である。
 つまり、始めから終わりまで途切れなく、ワンカットで撮ってしまったのだ。
 美術館そのものをセットにして撮るということで、時間的制限もあったらしく、その制約を逆に実験的手法の手掛かりとしてしまったところがすごい。
 アナログフィルムでは90分以上を途切れなく映すことはできない。デジタルの時代だからこそできた離れ業だ。
 美術作品が次々に紹介されるがゆえにこの映画は「美術的」だというだけでなく、このワンカットの手法によって、自らが「絵画的」になった。なぜなら、絵画は、ワンシーンだけを固定的に描くところに神髄がある芸術ジャンルだからである。この映画も、動きはあるにせよ全体を一つの同一シーンとして捉えて、絵画的な枠の中にこの建物のすべての歴史を封じ込めたと言える。

 「正解」を出した人は3人しかいなかった。思ったより少ない。残念。見て取れなかっただろうか? ちらちらとスクリーンから目を離しながら観賞していた人は、ワンカットという手法には気づかなかったかもしれない。じっと見つめ続けていなければならない映画だ。
 「一人の人間の視点から撮られていた」という答えはわりと多くの人が書いていた。声だけで出演していた監督の亡霊(?)の視点が、そのまま途切れなく、まばたきもなしで(亡霊だから?)続いていたという作りだろうか。
 なお、ワンカットという手法は、1948年にアルフレッド・ヒッチコックが『ロープ』という作品で試みている。もちろん、当時は撮影フィルムは1巻最長10分しかなかったので、フィルムの終わりで人物の背中など暗いところを映し、次のフィルムをかぶせてつなぎ目を目立たなくするなどして、見かけ上ワンカットに仕立てたらしい。本当の90分一発撮りのワンカットは『エルミタージュ幻想』が初めてである。
 正直のところ、とてつもなく退屈な映画に落ち込むスレスレのところにある作品だが、やはりワンカットの臨場感は計り知れないものがあったと言えよう。

2006/7/3

2000-02-12 02:15:22 | 映示作品データ

■コヤニスカッツィ Koyaanisqatsi  1983、アメリカ

監督 ゴッドフリー・レジオ Godfrey Reggio
音楽 フィリップ・グラス Philip Glass
製作 ゴッドフリー・レジオ
   フランシス・フォード・コッポラ Francis Ford Coppola

 ポアカッツィPOWAQQATSI(1988)、ナコイカッツィNAQOYQATSI(2002)と続く三部作の第一部。(監督、音楽は三作とも同じ)
 アメリカ国内の風景を、自然→自然開発→都市→自然の順で映し出し、最後にはロケット打ち上げの失敗(爆発)の様子と原住民の壁画を重ねる。
 いろいろな理屈をつけて観ることのできる映像だが、まず第一に脳は停止させてひたすら「体感」するべき映画だろう。反復フレーズをしつこく続けるフィリップ・グラスの音楽は、ミニマルミュージック特有の陶酔感をもたらす。ミニマルミュージックというジャンルは、西洋クラシック音楽の延長上にありながらも、アフリカの太鼓、インドの瞑想音楽、バリやジャワのガムランなど、非西洋音楽の影響下に1960年代に始まった。フィリップ・グラスも、インドのシタール奏者ラヴィ・シャンカールとのコラボレーションを行なっている。非西洋の音楽を取り入れているから西洋文明の自己反省を自然に促す芸術にぴったりなのだ、とするのは安易すぎる発想だろう。が、メロディ、ストーリー、デザイン(構図)など論理的な要素を中心として発展してきた西洋芸術に対して、ハーモニーやリズム、スタイルやムード、色彩といった非論理的部分を強調した『コヤニスカッツィ』のような映像体験は、しょせん西洋文化の枠内で発展してきた映画というジャンルに対し、根本的な「映像体験とは何ぞや?」的思索を迫るのではないだろうか。

 オートメーションでの半導体の生産、自動車の生産、ソーセージの生産、エスカレーター上の人間の流れ、高速道路上のクルマの流れ、等々がすべて同じに見えてくる映像効果は、「アメリカ」というテーマ(?)に何か深く関わっているのだろうか。それとも、時間を圧縮したり引き延ばしたりしないと理解できない視点(宇宙的視点? ロケットの映像が効いている……)からすれば、この世のすべては、自然も人工も国家も何もかも区別のない同根の現象に他ならない、とアピールしているのか。

 今日出してもらった感想では、「面白い」「今までいちばんいい」というコメントが意外と多かったが、「何と言われようとつまらない」「難しくて退屈」という人も少なからずいた。モードを切り替えて、「観かた」を根本から変えられるかどうかが、この映画を楽しめるかどうかの分かれ道だろう。意味に導かれるのではなく、象徴表現に感覚を任せることができるかどうか。その観かたは、セリフのない映画全般について言えることだが。

 なお、『コヤニスカッツィ』の高速度風景など、いくつかの場面は、他の映画にもしばしば引用されています。先日、レスリー・チャンの命日に六本木に追悼上映を観に行ったら(しかしなんで女ばかりなんだろう。男は俺一人だったんじゃないか?)『ブエノスアイレス』という映画の中に、エスカレーター場面等そのまんまが使われていました。
 映画史の一つのスタンダードたるドキュメンタリーアートとして認められている証拠なのでしょう。

2006/6/26

2000-02-11 00:43:51 | 映示作品データ
サン・ソレイユ (1982年、フランス)
Sans Soleil

監督:クリス・マルケル Chris Marker
ナレーション:アレクサンドラ・スチュワルト Alexandra Stewart

 文化論的ドキュメンタリー。
 ヒッチコックの映画『めまい』やムソルグスキーの歌曲、西アフリカのギニア・ビサウの独立運動など、芸術作品や歴史的事件を説明抜きで前提しつつ紀行文が進んでゆくので、しかも文学的なアフォリズムの畳み掛けによって続いてゆくので、通常の意味での「理解」は難しい。しかし、異文化を自国に手紙で伝える、という断片的な作業の雰囲気によって、異文化理解の本質を斜めから捉えた作品だと言える。
 「東京は伝説でいっぱいだ」というセリフがあったが、東京に住んでいるとあまり意識しない私たちも、言われてみればその通りだ、と納得できる。ハチ公から口裂け女にいたる新旧さまざまな「都市伝説」が紹介され、オーロラビジョンやエスカレーターなどの都市風景と重ねて、独特の情緒を醸し出す。
 この映画そのものの制作過程が語られる自己言及的ドキュメンタリーの性格も持ち、知人の日本人クリエーターの映像作品がしばしば引用されるメタ映像作品としての側面もチラチラ覗く。アフリカ、日本、アイスランド、アメリカ等々、とりとめもないといえばとりとめもない移動によって放浪のカメラマンの心情を本人映像抜きで伝えつつ、そのとりとめなさを、「記憶」をキーワードにした警句群で一括してまとめてしまったという印象だろうか。文学的解釈によって世界はどのようにでも見えてくる、といったメッセージが仄見える。
 なお、時代を表わすキャラクターがチラチラ登場していたが、個々の人物やアイテムを個別に調べてみるといい。たとえば、街宣車から演説をしていた右翼の頭領・赤尾敏のテレビ演説は、ここ↓のハプニング板などで見ることができます。
http://www.gazo-box.jp/bbstop.html

2006/6/19

2000-02-10 23:29:07 | 映示作品データ
5/22に短編2編を観たヤン・シュワンクマイエルJan Svankmajerから、さらに2編観ました。

■棺の家   Rakvic karna   (1966)

■ジャバウォッキー   Jabberwocky   (1971)

 この二作は、本来は説明の必要はないと思います。なんとなくのストーリーはあるらしいとはいえ、基本的に、視覚的な楽しさを眺めて<体感>すべき作品。
 「棺の家」は、人間の両手が指人形をはめるところから見せており、舞台装置のセッティングも相俟って、演劇的な枠の中で進行する。一種の劇中劇(メタフィクション)である。演技をしないモルモットと、演技をする指人形との合間に、現実と虚構のインターフェイスが広がる。その意味では、これも「ドキュメンタリー」の一種と言えるかもしれない。
 「ジャバウォッキー」は、迷路を抜けるまでの童心を描いたと解釈できるが、人形、リンゴ、ナイフなど、カテゴリーの異なるアイテムが次々に破壊されてゆくのは、成長に伴う童心の消滅を象徴しているのかどうか。シュワンクマイエルのアニメ手法全開の作品。これも、本気で活動しているネコが、ドキュメンタリー的とは言えないまでも、百%作り物の子ども部屋に、何か現実的な緊張感をもたらしている。

 次回から、映像と文学、映像と音楽、映像と美術(とくに絵画)の関係を考えるのに絶好の三作品を観ていきます。フランスの『サン・ソレイユ』(1982)、アメリカの『コヤニスカッツィ』(1983)、そしてロシアの作品(これはクイズにするのでまだタイトルは明かしません)。
 ★どれも長い映画なので、3回とも、12時45分から開始します。★

 なお、文学的映画、音楽的映画、美術的映画をそれぞれ観賞して、それによって映画と他の芸術ジャンルとの関係を考察する手掛かりとするわけですが、では、映画が映画自身に対していかなる関係を持つかを考える手掛かりとなる作品はあるだろうか?
 いわば、「映像的映画」とでも呼ぶべき映画。どんなものか考えてください。
 映像的映画の適例は、これも機会があったらご紹介することにしましょう。

2006/6/12

2000-02-09 03:47:54 | 映示作品データ

 ■日本のいちばん長い日 (1967) つづき

天皇を守る近衛師団が宮城を占拠して全陸軍を動かそうとしたとは確かに逆説的ではある。しかし、個々の近衛兵は、自分が徹底抗戦派のクーデターに参加しているという自覚はなかっただろう。つまり、直近の指揮官の命令で行進し移動し散会していたのであって、何かの演習だと思っていたかもしれない。

 皆さんの祖父の世代はアジア太平洋戦争に出征した経験者が居られることと思うが、近衛兵を務めて終戦を迎えた人もいるのではないだろうか。8月15日に何をしていたかを聞いてみるといい。実は宮城占拠の反乱軍に加わっていたのだが自分ではそんな自覚はなく、今にいたるまで宮城事件のことを知らないまま過ごしてきた、という人もきっといるに違いない。(昨年の三浦の卒論ゼミには、「終戦時に祖父が近衛兵だったが、宮城事件のことを尋ねたら知らないみたいだった」という学生がいました。)
 経験者よりも、後の世代のほうが良く知っていることはたくさんあるようです。

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