三浦俊彦@goo@anthropicworld

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オトイアワセ:
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2006/5/1

2000-02-03 00:35:35 | 映示作品データ
■『ヒトラーと4人の女たち』(2005年、フランス、92分)
Quatre femmes dans la guerre FOUR WOMEN IN WAR

監督 パトリック・ジェウディ

 ヒトラーの側近(秘書、タイピスト)のドイツ人トラウデル・ユンゲ、ライフ誌のカメラマンとして欧州戦線を撮ったアメリカ人マーガレット・バーク・ホワイト、イギリスの貴族出身でベストセラー小説家のナンシー・ミットフォード、レジスタンス運動家のフランス人学生マドレーヌ。境遇の全く異なる4人の女性を並行的に描く。一度観ただけでは、しばしば2人3人を混同してよく理解できないだろう。観客の理解度などおかまいなしに濃密な情報がどんどん紡ぎ出され折り合わされてゆく流れは、ドキュメンタリーというよりも一種の映像詩のようだ。
 レジスタンス活動では、敵の警戒心にひっかからずに移動できるため女性が大いに活躍したこと、マーガレットは色仕掛けで爆撃機同乗許可や査証をとった等々、「女であること」を武器に4人が活動しているさまが描かれていたが、女であることが武器になるということは、それだけ女が差別され、活躍の場を制限されていたことの裏返しでもある。女性カメラマンが男性カメラマンと同等の権利を与えられていさえすれば、わざわざ色仕掛けに出る必要などなかったのだから。
 情報密度が濃くて聴き取りにくいこの映画をもう一度観るときの予習として、次の2冊を読んでおいたらいかがだろう。
 トラウデル・ユンゲ『私はヒトラーの秘書だった』草思社
 メアリー・S・ラベル『ミットフォード家の娘たち――英国貴族 美しき六姉妹の物語』講談社

 なお、トラウデル・ユンゲを主人公とした2004年のドイツ映画『ヒトラー~最期の12日間~』は必見である。

 ヒトラーが、戦争中は映画観賞を禁じたというようなナレーションがあったが、実はヒトラーは映画好きだった。ヒトラーが観賞した映画のリストが残っている。そのリストには、たとえば、ヒトラーとムッソリーニを風刺したチャールズ・チャップリンの『独裁者』(1940年、アメリカ)は含まれていただろうか?
 そのあたりの情報も含めて、チャップリンの『独裁者』メイキング映像を、いつか上映したいと思います。それまでに、各自、『独裁者』の本編を観賞しておくとよいでしょう。

2006/4/24

2000-02-02 19:48:20 | 映示作品データ
■シューティング・ウォー
       SHOOTING WAR
       (アメリカ、2000年)

Richard Schickel   producer
Douglas Freeman   co-producer
Steven Spielberg   executive producer

 劇映画のメイキング映像は多いが、この作品のように、ドキュメンタリー映像のメイキング映像というのは珍しい。しかも、ドキュメンタリー映像といっても特定のドキュメンタリー映画ではなく、第二次世界大戦という世界的出来事を報道する多くのニュース映画だ(ただし、最初に紹介されたジョン・フォード(超有名!)の『真珠湾攻撃』のような、特撮をまじえた映画作品(戦意高揚映画)のメイキングも含まれている)。それらニュース映画を撮った多くのカメラマン(ハリウッドの映画監督が中心)についてのメタ・ドキュメンタリーが本作品。メイキングの現場が実際の戦場という、究極のドキュメンタリー・メイキングである。
 ただし、アメリカのカメラマンの活躍を伝えた作品なので、太平洋戦争と西ヨーロッパ戦域がメインで、独ソ戦争、日中戦争などは扱われていない。もちろん、日本、ドイツ、ソ連なども戦場カメラマンを動員し、それぞれの国の視点での膨大な記録フィルムが残されている。
 カメラマンが死亡した現場としては、空母ヨークタウン、ノルマンディー、硫黄島が紹介された。カメラマンの一人が語っていたが、ハリウッドの人間が入り込むことは部隊内では歓迎されなかった傾向があるようだ。カメラマンは直接の戦力ではないので、戦闘の勝敗に貢献することはない。にもかかわらず、カメラマンの動きを軍がバックアップし、真っ先に上陸させるなどの投資をするところに、「軍事・政治より文化」の大局観が働いている。戦争が終われば、銃や爆弾よりも記録映像こそが最も重要な財として歴史を形作ってゆくのだからである。
 太平洋戦域が撮影に好都合だったのは、狭い島での戦いが多いためということだった。
 さまざまな演出も証言された。撃墜機の残骸に改めて放火して撮影したり、アメリカ兵にドイツ兵のふりをさせたり、爆発の瞬間にカメラを地面に叩きつけてフレームを振動させて臨場感を出したり、凱旋パレードを華やかにするために市民の女性たちに兵士にキスするよう頼んだり。他にも、演出とは言えないが、味方の損害を伝えるのにフランス兵は映してもアメリカ兵の死体は映さなかったり、敵国人についても、子どもの死体は公開されなかったりという統制が働いていたことが証言された。
 こうしたメタ・ドキュメンタリーは、「撮ること」をテーマとすることによって、内容に注意が向きがちな観賞者の意識を映像そのものの層に(つまり表層に)差し戻し、つなぎ止める作用を果たす。映像表現の手法や効果だけでなく、撮る側と対照との相互作用がこれほどまでに露呈するメイキングは、戦場の映像ならではの特殊形態と言えるだろう。
 次回は、戦場カメラマンとして活躍したアメリカ人女性、ヒトラーの秘書を務めたドイツ人女性、ドイツ占領下のレジスタンス活動家であるフランス人女性、親ナチスの家庭に生まれたイギリス人女性ベストセラー作家、の4人を並行的に追ったドキュメンタリー映画を観ます。

2006/4/17

2000-02-01 18:11:11 | 映示作品データ
Making a Splash    (1984年イギリス映画)

監督 Peter Greenaway
音楽 Michael Nyman

 水をテーマにした短編映画。フェイク・ドキュメンタリーを得意とするグリーナウェイならではの、ドキュメンタリーアート仕立ての映像。マイケル・ナイマンの音楽はミニマル・ミュージックの一種で、短いモチーフを延々と反復する。テーマが水だから流れるような音楽がつくかと思いきや、流麗とはほど遠い、半ば行進曲風の重厚な管弦楽形式。重厚でありながらアップテンポなので、Splashに重点があると思えば、すんなり馴染んでしまう。考えてみれば、オープニングに出てきたカエルなどの小動物にとっては、水は重く厚い生存環境そのものなのだと気づかされる。生命にとっての水の重さと、人間にとっての戯れの素材としての水という側面とを混ぜ合わせたような、重厚で軽快な音楽が、コラージュ的に寸断処理された映像の気まぐれさとシンクロして、軽いトリップ感覚を誘う。

 「意味」よりも「体感」を優先させたという点で、映画が過剰に含みがちなストーリー性だの情緒だのを排した「美的否定」が成し遂げられている。映像芸術たるゆえんである。 いずれ観賞する予定のアメリカ映画『カッツィ三部作』は、テーマは全然異なるがこの「Making a Splash」に似たノリだと思ってください。

 環境音楽から実験音楽まで幅広く発表しているマイケル・ナイマンのCDはたくさん出ているので、現代クラシック音楽の代表的サンプルとして聴いてみるとよいでしょう。

 ――次回から本題に入り、まずは、「ドキュメンタリーを撮る」という行為をドキュメンタリー風に撮った、メタ・ドキュメンタリー作品『シューティング・ウォー』を観ます(制作総指揮はスティーブン・スピルバーグ)。
 初めて全世界的に戦場の報道がなされたWW2(第二次世界大戦)こそ、まさにドラマ的素材の宝庫なので、WW2に関するドキュメンタリー作品を各テーマごとに(独裁者、女性、原爆、終戦……)表現手法に注意しながら押さえてゆく予定です。

2006/4/10

2000-01-31 02:38:37 | 映示作品データ
 本番前の試写として、
 1966年放映の『ウルトラQ』全28話のNo.28「あけてくれ!」を上映してみました。
 基本的に子ども向けの1話完結シリーズで、カネゴン、ガラモン、ペギラ、ケムール人といった古典的怪獣の初登場の舞台です(『ウルトラQ』の後番組が『ウルトラマン』シリーズとなる)。高度経済成長期の日本の風景を見るのにちょうどよいテレビドラマです。
 『ウルトラQ』には『ウルトラマン』のような正義のヒーローは登場せず、この「あけてくれ!」のように明らかにターゲットを大人に絞っているエピソードもいくつか含まれています。その「手加減のない」作りが、当時小学校1年生だった私たちには奇妙な魅力を感じさせました。
 ただし、この「あけてくれ!」はとくに難解とされ、本放送時には放送されずに、翌年の再放送時に初オンエアされました。私も、小学校2年生のときに初めて観た「あけてくれ!」に「なんじゃこれ?」とびっくりしながら、怪獣の出てくる他のエピソードよりも強烈な印象が残りました。子どもにはわからないだろうというくらいの作品が、子どもに最も強いインパクトを与えるもののようです。
 「あけてくれ!」のテーマは人間蒸発。高度経済成長真っ最中の資本主義日本の、社会レベルでの急成長とは裏腹に個人レベルでの行き詰まりが露わになった頃の、社会風刺作品といえます。東京オリンピックと東海道新幹線開通の直後の日本の風景を見直すのに絶好の教材として、機会があれば『ウルトラQ』の他のエピソードも観てほしいと思います。怪獣らしい怪獣の出てこないNo.6「育てよ!カメ」No.17「1/8計画」No.25「悪魔ッ子」などがおすすめ。作品としては、No.19「2020年の挑戦」が最高かもしれません。

↑ ここから2006年前期の「言語と社会」&「文学講義」  
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2005/1/24

2000-01-30 00:26:29 | 映示作品データ
『鬼が来た!』は、明らかにコメディタッチで始まりながら、終盤は一種のホラー&シリアスドラマで幕を閉じます。このように、途中でジャンルが変わることは、ハリウッドでは、A級映画はもちろんのこと、B級映画でも歓迎されません(ノスタルジック友情サイコ映画がエイリアン侵略モノになってしまった『ドリームキャッチャー』や、都市伝説ホラーがモンスターパニックになってしまった『ジーパーズ・クリーパーズ』が不評だったのはそのためですね)。しかし、芸術的表現は必然的にジャンルの枠を踏み越えるものだということを、この『鬼が来た!』は示しているようです。マーと花屋は一時は心を通い合わせた仲であるにもかかわらず、ラストの処刑場面では、ありきたりな命乞いなど友情シーンには陥らず、淡々と刀が振り下ろされる。
 ラストだけが天然色になるのは、明らかに、「美的否定」の手法。全編カラーを使えるのにわざとモノクロとはもったいない、という気もするが、使える資源をあえて拒むのは芸術特有の逆説的戦略である。

 なお、ハリウッド映画でも、ミュージカル(とくに昔の)などには「ジャンル変更もの」でありながら評価の高い作品が見うけられます。1958年の『南太平洋』は、日本兵の動きがコミカルで、この路線で行くのかと思ったら、主人公の一人は戦死するし、意外とシリアスなドラマになってゆく。戦争を絡めた非戦争映画は、ジャンル越境的な複雑な構造を自ずと持つことになるようです。