→ハルヒ新作「七不思議オーバータイム」に私が複雑な感情を抱いた←理由について少し補足させてください。
→ここで述べたように←作品そのものは素晴らしく、期待を裏切られたという含みはまったくありません。
そう、やはりジョン・ケージという前衛的実験芸術とのつながりがカミングアウトされてしまったことへの複雑な思いなんですね。
『涼宮ハルヒの憂鬱』にジョン・ケージやマルセル・デュシャンの影が色濃く差していることは、行間一瞥(アニメ第Ⅱ期に至っていよいよ)一目瞭然なのですが(誰もそれを論じない、言いもしないのがまことに不思議で、それで痺れを切らして『エンドレスエイトの驚愕』を書いてしまった私でしたが)、その一目瞭然ぶりは、明確に作品表層で述べられたりせぬままだからこそ、えもいわれぬ含蓄を放つ効果があったわけです。
やはりライトノベルがアカデミックハイアートをシコシコ参照している図を見せつけられたくはありませんからね? いかにも当該ジャンル色を墨守して娯楽の王道然として、「アートは地雷」的姿勢を装ってほしかった、というような。
(いやもちろん、いまさら前衛アートなんぞとふんぞり返ろうが最早ポップカルチャーの一分野にすぎぬ、と達観するくらいにマルチメディア環境に慣れねばならん平成末ですが、それにしてもラノベ読者主流を成す高校生男子にジョン・ケージはまだ早い、ピカソは推奨できてもデュシャンは18禁!的パターナル意識から逃れられないのは私もすっかり教育職の端くれですかne?)
いずれにせよ、ハルヒとジョン・ケージとの強い絆をあれこれ無粋に語るなんぞはハルヒ研究者が外野でほざいていればいいことであって、疑い深い反サブカル的オタクから「そんなことあるわけない。偶然の一致だろう」等々苦情を浴びせられつつ(実際言われましたし)我々は我々で実作現場と並行的に、暗黙の相互影響のもとで黙々仕事をし続けられればそれがいちばん、というような。
(というか、谷川流にはまず仕事を可視化してもらうこと自体が先決だったわけですが笑)
そこへいきなり、むこうからつかつか歩み寄ってこられて平行線が交わり絡み合ってしまったような錯覚を覚えた、自意識過剰な眩暈にとらわれたというのが「複雑な感情」の主因でした。
谷川流が「天ぷら仮説」や「テラループ説」を目にして急遽カミングアウトを決意した、という証拠などありませんし、それになにより、今回の「4分33秒」の本質的登場の仕方は考え抜かれていて、1年や2年の間に思い付いた即席アイディアとは断固一線を画します。外野の動向にかかわらず必ずや書かれるべき作品でした。私の『エンドレスエイトの驚愕』出版が「七不思議オーバータイム」に先を越されなくてよかった、ホッとしたというのが本来あるべき感想です。
とはいうものの、「4分33秒」のこのたびの前衛露出は、ハルヒセカイの見えない均衡を密かに破った感漂わせているかな、というのが我がどうしても率直な感想だった次第です。
ああいった隠し味は、表に出すことによって作品の質や面白さが増すというものではなく、くどいようですが評論や研究書に任せて作者本丸は泰然素知らぬ顔を通す方がベタに「かっこいい」はずだったのですが・・・
・・・まあ「4分33秒」と「Organ²/ASLSP」ではとりあえず知名度が違いすぎるし(前者は確かに今や「泉」と並んでポピュラーカルチャーの1アイテムと言っていい)、『ハルヒ』がアカデミックアートに寄り添ったなどというのは重ね重ね杞憂にすぎません。それに今回のジョン・ケージカミングアウトは、「このくらい大丈夫。まだまだ」隠し味は無尽蔵、という作者の自信の表われでもあり、コンテンツの頼もしさを大いに増したとも言えます。
ともあれハルヒの〈コンセプチュアルアート色〉については、もはや私が力瘤を作ってあれこれ論陣を張る必要はなくなりました。
次は〈人間原理色〉です。こちらはなかなか作者も言語化に限界を感じざるをえない分野でしょう。
そしてもう一つ、佐々木という過剰にジェンダーを意識する特異キャラクターにちなんで、〈トランスジェンダリズム色〉の探索という大仕事が控えています。
さてまもなく、
二見書房から我がパラドクス本文庫版第3冊を上梓します。(『心理パラドクス』をベースとした加減乗除改訂版)
新作を含む計77問から成る問題集ですが、
問01にトランスジェンダー、問03にハルヒ&ジョン・ケージを配置しました。
ハルヒの挑発力、当方の反跳力、これからが見せ場の本番です。
→ここで述べたように←作品そのものは素晴らしく、期待を裏切られたという含みはまったくありません。
そう、やはりジョン・ケージという前衛的実験芸術とのつながりがカミングアウトされてしまったことへの複雑な思いなんですね。
『涼宮ハルヒの憂鬱』にジョン・ケージやマルセル・デュシャンの影が色濃く差していることは、行間一瞥(アニメ第Ⅱ期に至っていよいよ)一目瞭然なのですが(誰もそれを論じない、言いもしないのがまことに不思議で、それで痺れを切らして『エンドレスエイトの驚愕』を書いてしまった私でしたが)、その一目瞭然ぶりは、明確に作品表層で述べられたりせぬままだからこそ、えもいわれぬ含蓄を放つ効果があったわけです。
やはりライトノベルがアカデミックハイアートをシコシコ参照している図を見せつけられたくはありませんからね? いかにも当該ジャンル色を墨守して娯楽の王道然として、「アートは地雷」的姿勢を装ってほしかった、というような。
(いやもちろん、いまさら前衛アートなんぞとふんぞり返ろうが最早ポップカルチャーの一分野にすぎぬ、と達観するくらいにマルチメディア環境に慣れねばならん平成末ですが、それにしてもラノベ読者主流を成す高校生男子にジョン・ケージはまだ早い、ピカソは推奨できてもデュシャンは18禁!的パターナル意識から逃れられないのは私もすっかり教育職の端くれですかne?)
いずれにせよ、ハルヒとジョン・ケージとの強い絆をあれこれ無粋に語るなんぞはハルヒ研究者が外野でほざいていればいいことであって、疑い深い反サブカル的オタクから「そんなことあるわけない。偶然の一致だろう」等々苦情を浴びせられつつ(実際言われましたし)我々は我々で実作現場と並行的に、暗黙の相互影響のもとで黙々仕事をし続けられればそれがいちばん、というような。
(というか、谷川流にはまず仕事を可視化してもらうこと自体が先決だったわけですが笑)
そこへいきなり、むこうからつかつか歩み寄ってこられて平行線が交わり絡み合ってしまったような錯覚を覚えた、自意識過剰な眩暈にとらわれたというのが「複雑な感情」の主因でした。
谷川流が「天ぷら仮説」や「テラループ説」を目にして急遽カミングアウトを決意した、という証拠などありませんし、それになにより、今回の「4分33秒」の本質的登場の仕方は考え抜かれていて、1年や2年の間に思い付いた即席アイディアとは断固一線を画します。外野の動向にかかわらず必ずや書かれるべき作品でした。私の『エンドレスエイトの驚愕』出版が「七不思議オーバータイム」に先を越されなくてよかった、ホッとしたというのが本来あるべき感想です。
とはいうものの、「4分33秒」のこのたびの前衛露出は、ハルヒセカイの見えない均衡を密かに破った感漂わせているかな、というのが我がどうしても率直な感想だった次第です。
ああいった隠し味は、表に出すことによって作品の質や面白さが増すというものではなく、くどいようですが評論や研究書に任せて作者本丸は泰然素知らぬ顔を通す方がベタに「かっこいい」はずだったのですが・・・
・・・まあ「4分33秒」と「Organ²/ASLSP」ではとりあえず知名度が違いすぎるし(前者は確かに今や「泉」と並んでポピュラーカルチャーの1アイテムと言っていい)、『ハルヒ』がアカデミックアートに寄り添ったなどというのは重ね重ね杞憂にすぎません。それに今回のジョン・ケージカミングアウトは、「このくらい大丈夫。まだまだ」隠し味は無尽蔵、という作者の自信の表われでもあり、コンテンツの頼もしさを大いに増したとも言えます。
ともあれハルヒの〈コンセプチュアルアート色〉については、もはや私が力瘤を作ってあれこれ論陣を張る必要はなくなりました。
次は〈人間原理色〉です。こちらはなかなか作者も言語化に限界を感じざるをえない分野でしょう。
そしてもう一つ、佐々木という過剰にジェンダーを意識する特異キャラクターにちなんで、〈トランスジェンダリズム色〉の探索という大仕事が控えています。
さてまもなく、
二見書房から我がパラドクス本文庫版第3冊を上梓します。(『心理パラドクス』をベースとした加減乗除改訂版)
新作を含む計77問から成る問題集ですが、
問01にトランスジェンダー、問03にハルヒ&ジョン・ケージを配置しました。
ハルヒの挑発力、当方の反跳力、これからが見せ場の本番です。