出版から2週間、ちらほらと「心配」してくださる方々が。
ほぼこういった趣旨の通信――
「いえ、私は別にああいうのはいいと思いますけれどね、世間がどう反応するか……、変な評判が立たないことを祈ります……」
自分は同意しないけど、みんなは……、というのは多数決のパラドクスとか、美人投票のパラドクスとか、私もパラドクス三部作でときおり扱いましたが、たとえば「天皇制」なんかもそうです。
「自分個人としては皇室なんて要らないと思うし尊敬してないけど、みんなが支持してるからなあ……」
極端な話、誰一人支持者がいなくても、他人がみな支持していると思いあって、「空虚な支持」の場が形成されるというわけ。自分の身の回り天皇崇拝者が一人もいなくても、その外では大多数が崇拝者だろうし……と。
売春などもそうでしょう。「私としては、売買春が悪とは思ってませんが、みんなが悪だと思ってるってことは、何かあるんでしょう」。つねに「悪」の根拠は他人にある。誰も自分自身では根拠を持っていないが、根拠の存在を信じている。空虚な差別、空虚なタブー。
さて、ノゾキ本にかぎっては心配ないのです。
あれをヤバイと感じる種類の人は、拒否反応もしくは悪い予感ゆえに、読みゃしないだろうからです。読まない筋からは批判が出ようがないので。
逆に、拒否できるほどきちんと読んだ人は、そもそも読む気になったという時点で、あの本の世界の支持者、とまでいかなくとも少なくとも理解者ではあるわけです。理解者からは、まあ私が色眼鏡で見られる心配はありません。
というわけで、ノゾキ本は覗かれた時点で理解されている、理解されない場合は覗かれもしない、という天然防御を備えているのですね。
あの本の後半にパケ写を垣間見せているのは(計78葉だったか。すべて正規品を自費購入したものですが、掲載をメーカーから断られたのもあって残念でした)、「ホレ、この世界入ってくる気ありますか?」と、こちらにとって不利な(危険な)読者をビジュアルで篩にかける役目も果たしているわけです。
もし、「教育者がこれではヤバイでしょ!」と弾劾の声をあげた人がいれば、その人は通読したということになり、この世界の理解者であり、「どこがどうヤバイのか」を説明できるほどの共犯者でもあることになる。(それにほんとはちっともヤバくなんかないし)
p.165脚注に述べたように、「おれの女房が・娘が・彼女が映っていた! ちくしょう!」と風呂盗撮ビデオが観賞者から告発される例はあってもトイレ盗撮ビデオで類似例がないのは、内容の告発のためには観賞という共犯行為が必要だからでしょう。声をあげにくいでしょうね、風呂はともかくトイレとなると。
「定義(説明)のパラドクス」に似ている気も。「理解できているなら、定義の必要はない。理解できていないなら、定義してもわかりっこない」
「覗かれてるということは、嫌われているはずがない。覗かれてないなら、嫌われるはずがない」
――「
覗きのパラドクス」は、構成的ジレンマの一つなのですね。