花咲く丘の高校生

平成時代の高校の授業風景を紹介したり、演歌の歌詞などを英語にしてみたり。

学校が変わった?生徒が変わった?

2024-08-24 | 高校生
これは、約10年前のお話、私が上越市近郊のある高校で常勤講師をしていた時の逸話です。

  ゴールデンウイークの狭間の5月2日に異動してこられた先生方の歓迎会があった。酒が進むと本音が出た。
「実は、この学校へ異動すると告げられた時はびびりましたよ。茶髪の生徒も多くいる教育困難校と聞いていましたので。しかし、授業に出てみると、みんな素直で人懐っこくて、想像していたよりもずっと授業がし易いです」

私が講師として勤め始めた頃(平成10年以前)のこの高校は、確かに教育困難校の一つだったかもしれない。あれから17年経って、今では県内でいちばん学校らしい学校になったと思っている。

単なる学力だけによって薄く輪切りをされて入学してきた生徒だが、明るく素直で、愛すべき生徒達がほとんどなのだ。

私が言った。
 「そうなんですよ。ここ数年で本当に素敵な学校になったんですよ。この学校の先生方の教育力と生徒たちの吸収力は県下一ではないでしょうか。
『風評被害』って恐ろしいですね。そんな風評差別にもめげずに素直に成長している本校の生徒って、涙が出るほど素晴らしいです。これこそ若者の『生きる力』なんでしょうね。
それにしても、この風評被害がいわれなき『いじめ』となっていることに気づかないマスコミや世間の大人たちは(いつもは苛め、苛めと騒ぎ立てているくせに)全くどうかしていますよね」


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コロナにかかりました

2024-08-16 | 逸話
令和6年8月16日

4日前の火曜日夜に顔が火照ったり、寒気がしたり。夜中に体の節々が痛んだりした。

水曜日には体温が37.7°cになったが、夏風邪だろうと思って、風邪薬を飲んだが、せき込んだり、痰が出るようになったので、
昨日木曜日に病院に行った。

隔離されたVIPルームで、鼻を棒でつつかれて、待たされること約10分。
看護師さんに案内されて特別診察室へ入ると、医師から渡された「検査結果」は、COVID19抗原(+)だった。

医師の説明によると、発症から5日で症状が治まり、10日で完治するらしい。
「なにか思い当たることがありますか?」と聞かれた。

11日の日曜日に40年ほど前に学級担任をした生徒(今は55歳)たちの同級会があって、調子に乗って大声で話をしたり、2次会では「俺の高校時代からの親友に贈りたい歌だ」といって、村木騨の『友情の星』や、「俺の中学時代の同級生の半数以上は岐阜や名古屋や大阪へ就職していった、その彼らに贈る歌だと言って、霧島昇の『誰か故郷を想わざる』を歌ったりした。

今日でコロナ発症から4日目、喉が少し痛むだけで体調は良好です。




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名残の月

2024-08-12 | 思い
名残の月
「せんせ~、ジョーバ連れてって~」2年生の優衣が言った。
「ああ、いいよ」と答えたが、ジョーバって何?「乗馬」かな?もしかして遊園地のメリーゴーラウンドのことかな?と考えを巡らせた。
「どこのジョーバなの?」
「上越大通りのセブンの前のジョーバだよ」
・・・・ああ、そうか。それは『上越バイキング』という焼き肉店のことだった。

 授業中は落ち着きがなく、成績も下降している優衣だった。だから、「ジョーバへ連れてって」は、「優衣のことを見捨てないで」というシグナルだと思った。
 だから私は「ああ、いいよ。期末考査で優衣の成績が少しでも上がっていたらね」と答えた。

・・・それから夏休みに入り、そして夏休みが終わった。

二学期が始まって2週間が過ぎるというのに、優衣は学校に来ていない。
夏休みの間に両親が離婚して、優衣は母親と一緒に他所へ引っ越したのだという。親しかった級友との連絡も途絶えているらしい。

・・・そして、今日は初秋の9月の13夜。見上げると、空には名残の月が浮かんでいた。

・・・・ああ、そうだったのか。「せんせ~、ジョーバへ連れてって~」は、優衣が父親に言いたかった言葉だったのだ。
 まだ子供だった頃、優衣は両親に連れられて何度も「ジョーバ」に行ったのだろう。家族が団らんで、あんなに楽しいバイキングだったのに・・・。
 そう、あの店では、大好きなプリンやケーキも食べ放題だった。そしてくるくる回っている綿飴機の前にじっと立って、優衣はふわふわと純白な夢を膨らませていたことだろう。

・・・優衣は行ってしまった。父親への思いを断ち切るかのように。あれは、もう二度と会うことの叶わない父との想い出を呼び戻そうとしていたのだろうか。
「せんせ~、ジョーバ連れてって~」この言葉を私の心に置いたままで。
 以上は、siawase-kさんに発掘していただいた2013-10-05の記事です。
 幸せ-kさん、ありがとうございました。(5381naninani ゆ~)


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ショートショート 桂子

2024-08-01 | 思い出
桂子

 1960(昭和35)年6月15日、全学連による『安保反対』のデモ行進が大々的に行われた。翌日の新聞は「国会議事堂正門前で機動隊がデモ隊と衝突し、デモにい参加していた東大生の樺美智子さんが圧死した」と報じていた。
 
 5月のその日、粛々と講義が行われているはずの文学部40番教室は、「安保反対!」のプラカードを持った学生でごった返していた。顔見知りの自治会役員にガリ版刷りの情宣ビラを手渡されて、森本は抗議集会に出てみる気になった。
 4人掛けの長椅子を連ねたこの大教室もほぼ満杯になっていた。一番後ろに座っていた女子学生が席を詰めてくれたので、「あっ、どうも有難う」と言って隣に座りかけると、彼女は上目使いに森本を見て、
「あら、森本先輩?」
「えっ、あっ、里見さん?」
里見桂子は国文学専攻の二年生だった。文学部でも女子学生は数名しかいなかったので、森本は彼女が二年後輩であることは知っていた。
自治会の委員長が演壇に立って、アジ演説を始めた。

「自治会の連中って、大げさだなあ。あれじゃ、ついていけないよ」
「そうじゃないわ。彼は真剣に訴えているのよ。彼の立場を分かってあげるべきだわ」

 デモ隊はプラカードを先頭に二列になって営所通を下っていった。白いブラウスの上に羽織っている里見桂子の淡いクリーム色のカーディガンが、初夏の向かい風を柔らかく受け止めていた。街路樹のライラックの香りを孕んだ桂子のカーディガンが甘酢っぱく匂っていた。
 青空色の花房をつけたライラックの下をデモ隊は、静かに整然と行進していた。
メインストリートに出ると、デモ隊は四列になってスクラムを組んだ。森本の左腕と桂子の右腕もスクラムを組んだ。
 先導隊が、「アンポ ハンタイ」と叫んだ。桂子に合わせて森本も叫んだ。
二人は、午後5時の太陽に向かって叫び続けた。
「アンポ ハンタイ アンポ ハンタイ」
機動隊との小競り合いを繰り返しながら、デモ隊はジグザグ行進を続けた。
「アンポ ハンタイ アンポ ハンタイ」
・・・県庁前で最後のシュプレヒコールを上げて、デモ隊は解散した。

桂子と森本は海岸の方へ向かっていた。ワルツ坂を上って、護国神社を抜けて、海岸線に沿ったアカシアの小径に出た。日本海に沈もうとしている夕日の木漏れ日を浴びて、長く伸びた二人の影法師が、アカシアの白い花びらを踏みしめながら歩いていた。

『砂山の碑』がある小高い塚で、二人は腰を下ろした。
「素敵だわ。夕日があんなに大きくなって、海があんなにキラキラして」
 眼下の砂浜では、テトラポッドの上で子供たちが魚を釣っていた。
「何がつれるのかしら?」
「『あぶらこ』だよ」
「あぶらこ?食べるのかしら?」
「食べたりはしないよ。釣るのが面白いだけさ」
「それでは魚がかわいそうだわ」
 水平線をみつめたまま、桂子は自分に言い聞かせるように一語一語ゆっくりと続けた。

「積み木遊びのように、子どもたちにとって、あの魚も、玩具にすぎないのね。遊び終えてしまえば、あとは、捨てられてしまうのだわ」
「楽しませてくれるだけで十分さ 」
「男の人って、はじめから失うものは何もないでしょう?」
 唇をちょっと窄(すぼ)めて、桂子は森本をじっと見上げた。開きかけた姫小百合の蕾ような唇だった。 水平線の上で雲がいくつもの金色の条を作っていた。

釣りをしていた子どもたちは、いつの間にかいなくなっていた。蝙蝠が一直線に飛んできて、テトラポッドの上で急に方向を変えると、バタバタと松林の中にに消えた。
「あら、子どもたちは皆お家へ帰ったのかしら」
「そうだろうね。まさかテトラポッドから落ちていたりしていて、、、」
「悪い冗談だわ。でも、あのような場所で遊ぶなんて、危険だわ」
「危険じゃない遊びなんて面白くないよ。女の子なら人形遊びで結構楽しいんだろうけど」
「そんなことないわ。女の子だって、いつか突然、、、」
「いつか突然どうするの?」
「変わったりするわ」
「変わる?成長するってこと?」
「息苦しくなるの。お人形で遊んでいた自分が嫌いになって、お人形しか与えてくれなかった親を嫌いになって、、、」
「反抗期ってやつだね」
「反抗さえ出来なかった自分が嫌いになって、いっそ死んでしまいたいんなんて思うのよ」
「究極の反抗が自殺だなんて、考えたくないよ」
「ええ、そうだわ。だから誰かが手を差し伸べてあげないと・・・」
「しかし、優しいと思っていたその手が釣り糸だったりして・・・」
「そうなの。あの『あぶらこ』のように釣り糸に弄(もてあそばれて、日干しになってしまうなんて・・・だから、なおさら死にたくなるの」
「でも、生きてさえいれば、本当の手を差し伸べてくれる人って必ずいると思うけど」
「そうなの。だから私は教師になるの。中学校の先生になるの」
 じっと肩を並べたまま、二人は黄昏てゆく水平線を眺めていた。まるで、一対のブロンズ像のように・・・。
1960年6月15日には、日本中で大々的なデモがあって、デモに参加していた女子大学生が圧死したと新聞が報じていた。

あのテトラポッドに押し寄せている波を、森本は飽きもせず眺めていた。
日本海の波は、いろいろな物を運んできては、また攫(さら)っていった。
過去や未来、希望や絶望、愛も嫉妬も。そして、あの匂いさえも。ただ思い出だけを残して。「文芸妙高第39号」(令和3年2月発行)『青色のスプレイ』より 
 
「文芸妙高」では皆様からの作品を募集しています。
応募資格は、「妙高市民の他に、妙高市及び『文芸妙高』に心を寄せている高市以外の人」となっています。
 例えば、妙高市に「ふるさと納税」された人や「文芸妙高」(@1200円)を購読してくださる方は大歓迎です。
応募締め切りは、毎年9月末日、発行は翌年2月末です。
・募集作品:小説・随筆・短歌・俳句・川柳で、ペンネーム可
・応募作品は、未発表・他紙への既発表を問いません。
・応募などの詳細については、下記へお問い合わせください。
〒944-0046 新潟県妙高市上町9-2 
妙高市図書館内 文芸妙妙高編集委員会
電話 0255-72-9415 メール myoko_lib@extra.ocn.ne.jp 
  ご応募お待ちしております。

 ご訪問、ありがとうございました。 次回もよろしくお願いします。(ゆ~)

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