桂子
1960(昭和35)年6月15日、全学連による『安保反対』のデモ行進が大々的に行われた。翌日の新聞は「国会議事堂正門前で機動隊がデモ隊と衝突し、デモにい参加していた東大生の樺美智子さんが圧死した」と報じていた。
5月のその日、粛々と講義が行われているはずの文学部40番教室は、「安保反対!」のプラカードを持った学生でごった返していた。顔見知りの自治会役員にガリ版刷りの情宣ビラを手渡されて、森本は抗議集会に出てみる気になった。
4人掛けの長椅子を連ねたこの大教室もほぼ満杯になっていた。一番後ろに座っていた女子学生が席を詰めてくれたので、「あっ、どうも有難う」と言って隣に座りかけると、彼女は上目使いに森本を見て、
「あら、森本先輩?」
「えっ、あっ、里見さん?」
里見桂子は国文学専攻の二年生だった。文学部でも女子学生は数名しかいなかったので、森本は彼女が二年後輩であることは知っていた。 自治会の委員長が演壇に立って、アジ演説を始めた。
「自治会の連中って、大げさだなあ。あれじゃ、ついていけないよ」
「そうじゃないわ。彼は真剣に訴えているのよ。彼の立場を分かってあげるべきだわ」
デモ隊はプラカードを先頭に二列になって営所通を下っていった。白いブラウスの上に羽織っている里見桂子の淡いクリーム色のカーディガンが、初夏の向かい風を柔らかく受け止めていた。街路樹のライラックの香りを孕んだ桂子のカーディガンが甘酢っぱく匂っていた。
青空色の花房をつけたライラックの下をデモ隊は、静かに整然と行進していた。
メインストリートに出ると、デモ隊は四列になってスクラムを組んだ。森本の左腕と桂子の右腕もスクラムを組んだ。 先導隊が、「アンポ ハンタイ」と叫んだ。桂子に合わせて森本も叫んだ。
二人は、午後5時の太陽に向かって叫び続けた。
「アンポ ハンタイ アンポ ハンタイ」
機動隊との小競り合いを繰り返しながら、デモ隊はジグザグ行進を続けた。
「アンポ ハンタイ アンポ ハンタイ」
・・・県庁前で最後のシュプレヒコールを上げて、デモ隊は解散した。
桂子と森本は海岸の方へ向かっていた。ワルツ坂を上って、護国神社を抜けて、海岸線に沿ったアカシアの小径に出た。日本海に沈もうとしている夕日の木漏れ日を浴びて、長く伸びた二人の影法師が、アカシアの白い花びらを踏みしめながら歩いていた。
『砂山の碑』がある小高い塚で、二人は腰を下ろした。
「素敵だわ。夕日があんなに大きくなって、海があんなにキラキラして」
眼下の砂浜では、テトラポッドの上で子供たちが魚を釣っていた。
「何がつれるのかしら?」
「『あぶらこ』だよ」
「あぶらこ?食べるのかしら?」
「食べたりはしないよ。釣るのが面白いだけさ」
「それでは魚がかわいそうだわ」
水平線をみつめたまま、桂子は自分に言い聞かせるように一語一語ゆっくりと続けた。
「積み木遊びのように、子どもたちにとって、あの魚も、玩具にすぎないのね。遊び終えてしまえば、あとは、捨てられてしまうのだわ」
「楽しませてくれるだけで十分さ 」
「男の人って、はじめから失うものは何もないでしょう?」
唇をちょっと窄(すぼ)めて、桂子は森本をじっと見上げた。開きかけた姫小百合の蕾ような唇だった。 水平線の上で雲がいくつもの金色の条を作っていた。
釣りをしていた子どもたちは、いつの間にかいなくなっていた。蝙蝠が一直線に飛んできて、テトラポッドの上で急に方向を変えると、バタバタと松林の中にに消えた。
「あら、子どもたちは皆お家へ帰ったのかしら」
「そうだろうね。まさかテトラポッドから落ちていたりしていて、、、」
「悪い冗談だわ。でも、あのような場所で遊ぶなんて、危険だわ」
「危険じゃない遊びなんて面白くないよ。女の子なら人形遊びで結構楽しいんだろうけど」
「そんなことないわ。女の子だって、いつか突然、、、」
「いつか突然どうするの?」
「変わったりするわ」
「変わる?成長するってこと?」
「息苦しくなるの。お人形で遊んでいた自分が嫌いになって、お人形しか与えてくれなかった親を嫌いになって、、、」
「反抗期ってやつだね」
「反抗さえ出来なかった自分が嫌いになって、いっそ死んでしまいたいんなんて思うのよ」
「究極の反抗が自殺だなんて、考えたくないよ」
「ええ、そうだわ。だから誰かが手を差し伸べてあげないと・・・」
「しかし、優しいと思っていたその手が釣り糸だったりして・・・」
「そうなの。あの『あぶらこ』のように釣り糸に弄(もてあそ)ばれて、日干しになってしまうなんて・・・だから、なおさら死にたくなるの」
「でも、生きてさえいれば、本当の手を差し伸べてくれる人って必ずいると思うけど」
「そうなの。だから私は教師になるの。中学校の先生になるの」
じっと肩を並べたまま、二人は黄昏てゆく水平線を眺めていた。まるで、一対のブロンズ像のように・・・。
1960年6月15日には、日本中で大々的なデモがあって、デモに参加していた女子大学生が圧死したと新聞が報じていた。
あのテトラポッドに押し寄せている波を、森本は飽きもせず眺めていた。
日本海の波は、いろいろな物を運んできては、また攫(さら)っていった。
過去や未来、希望や絶望、愛も嫉妬も。そして、あの匂いさえも。ただ思い出だけを残して。「文芸妙高第39号」(令和3年2月発行)『青色のスプレイ』より
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