はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

風の終わる場所 22

2021年05月08日 10時03分13秒 | 風の終わる場所
すでに陽は落ち、昼なお暗い山間の道は、ますます闇を濃くしはじめる。
文偉は、前方にいる馬光年たちを見失わないように、必死であった。
あちらこちらに聞こえる百舌の鳴き声は、今日ばかりは気味悪く聞こえる。
馬光年たちには慣れている道かもしれないが、文偉にとっては、まだ二度目の、なれぬ道である。
芝蘭に示唆されて、村から逃げ出したときは、どうやって広漢を出たかすら覚えていない。
二度と行くものか、とおもっていた道であったが、孔明のこと、偉度のこと、趙雲のこと、そして命を救ってくれた少女・芝蘭のことをおもえば、恐怖など微塵もなかった。

文偉は、たしかに呑気なお坊ちゃまかもしれない。
だが、こうと決めたら、頑として譲らぬ芯の強さと、肝の太さを持っていた。
偉度や趙雲に、孔明のことを教えなくてはいけないという友情の心と、芝蘭に会って事実を伝えねばという、義務感と思慕の入り混じった心が複雑に溶け合って、文偉の恐怖を、内側から駆逐している。
孔明は森の中に逃げ、芝蘭に助けられたという。
そのことが、文偉に勇気を与えてもいた。
つまり呉は、敵ではない。

李巌たちの話していた、偉度の前身についての話、あれはほんとうだろうか。
でも、ほんとうだとして、だからなんだという? 
屋敷にまで押しかけてきた、魏の細作を追い返してくれたのは偉度であるし、もしかして、先刻、義兄弟になろう、という話をあっさり蹴ってきたのも、義兄弟だからという理由で、村についてきて欲しくなかったからではないのか。 
ほんとうは情に厚いくせして、ひねくれ者の偉度ならば、十分にかんがえうる。
趙雲と偉度は、全体をほぼ把握していたのだ。
だから、劉備の子のことも、劉備の子がいまの帝の後を継ぐ、という美味すぎる話も知っていた。
劉備の子の母親を、孔明が処刑させていたことも知っていた。
だから、あれほど、二人して我武者羅に、ほとんど休むこともなしに馬を走らせてきたのだ。
孔明は生きている。
そのことを伝えなければ、あの怖いもの知らずの二人のことである。
かえって、それが仇となり、村に潜入し、孔明を探し回るだろう。
つまりは、それだけ命の危険が増す、というわけだ。
いま、村は、李巌と劉封らの手の内にあるのだ。
孔明すら消そうとしていた者たちが、趙雲と偉度の両名を消すことに、ためらいを見せるはずがない。

懸命に馬を走らせていた文偉であるが、ふと背中に、伝わり落ちる汗とも違う、奇妙な痒さをおぼえた。
それは同時に、胸の奥底からぶるりと怖気をふるわせるような、こらえ難い嫌悪感も、一緒につれてきた。
もぞもぞ、もぞもぞと、背中をなにか動きまわっているものがある。
鳥ではなかろう。
羽音がしない。
同じ理由で、羽虫でもない。

自分は、さっきどこにいた?

なにかが背中をちくりと刺した。おそらく、たくさんある足のひとつが、着物を突き通して、皮膚にかぎ爪を引っ掛けたのだろう。
それを想像しただけで、もう文偉はダメであった。
吐き気さえおぼえるほどの悪寒に、身を震わせる。
手で振り払うことができなかったので、馬の鞭をぶん、と背中の上で振り上げてみる。
すると、うまい具合に、背中にくっついていた、手のひらほどもある大きな蜘蛛は、これ幸いとばかりに馬の鞭に糸を引っ掛けて、ふわりと優雅に宙を舞った。
文偉は、なるべく実物を見ないように気をつけながら、馬の鞭をぶんぶんと振って蜘蛛の糸を風に千切らせた。
馬の鞭から、蜘蛛が離れていくと、文偉は、大きく息をついた。
なにやら、ここで、一つ、大仕事をしてしまったような気分である。

ああ、怖かった。

ひと息つき、仕切りなおしと顔を前方に向けると、ついさっきまで、たしかにいた、馬光年たちの姿が見当たらない。
見失ったかとひやりとしたが、文偉は落ち着いてかんがえ直した。
村への道は、一本道だ。
やつらは、村へ向かったのだ。
暗くなってきたのだし、見えないだけにちがいない。
きっとそうだ。

そして、馬の足を進めると、揶揄するような声が聞こえてきた。

「費家の若旦那は、どうも我らがお好きのようだ」

はっとして顔を上げると、巨大な蜘蛛の巣のようなものが、月に照らされた林の間から降ってきた。
馬がたたらを踏む。
文偉は落ち着かせようと、咄嗟に手綱を引締めるが、かえって身動きができなくなった。
そして降ってきた網によって、馬ごと絡め取られてしまった。
これに驚いた馬が、さらに暴れたために、文偉は、身動きもままならないまま、地面にもんどり打つ。
なんとか首の骨を折るような惨事はまぬがれたものの、左肩をしたたかに打ってしまった。
痛みに呻いていると、地面を通して、振動と共に複数の足音が近づいてくるのがわかった。
文偉は舌打ちをした。
尾行がばれていたのだ。
かんがえてみれば、一本道である。
都合よく出来上がった物語では、主人公は、あきれるほど間抜けな行動を取って、物語を読むもの、あるいは聞くものをはらはらさせたりあきれさせたりするものだが、文偉は、今後、そのなかの誰をも笑わないと誓った。

「一度は逃げられたものを、わざわざ殺されにもどってくるとは」
文偉が、網から逃げようともがきながら見上げれば、そこには、終風村にて村長と名乗っていた、馬光年の姿があった。
いまはその本性をあらわし、抜き身の刃を素肌に突き立てたような冷たい笑みを顔に浮かばせている。

殺されるだろうか。

冷たい汗をかき、文偉は馬光年を見上げる。
馬光年には、死線を何度もかいくぐってきた者特有の、人を人ともおもわぬ冷酷さが見える。
この男は、地位もない、没落寸前の豪族の子弟を殺すのに、なんのためらいも見せないだろう。

なにか、なにかを言わなくては。
この男の気を逸らすことができるようなことを。

「これで勝ったとおもうなよ!」
まるで、餓鬼の喧嘩の捨て台詞ではないか。
我ながら、幼稚な言葉の選択に、がっかりしつつ、文偉が叫ぶと、意外にも、馬光年の眉がぴくりと動いた。
それに力を得て、文偉はつづける。
「わたしは捕らわれたが、軍師がきっと助けてくださる!」
すると、馬光年は、愁眉を開いて、文偉を鼻で笑った。
「あきれたことよ。諸葛亮は、この森に迷い込み、いまごろ狼の餌ぞ」
「わたしを騙すつもりか? 軍師は、呉の細作たちに救われ、いま行動を共にしておられる。軍師は、きっとかならず、おまえたちを倒しにやってくると」
文偉は、ここで、ごくりとつばを飲み込み、声が震えないように気をつけながら、はっきりと言った。
「おまえたちをかならず倒すと、おっしゃっていた!」
「なんだと?」
馬光年の表情が、ふたたび曇る。
かたわらの男たちも同様で、何事かひそひそとやっている者もいる。
一か八かの賭けであったが、どうやら勝利したらしい。
「貴様、諸葛亮と会ったのか?」
「そうだとも。軍師はお怪我をされることもなく、このような目に遭わせた者たちを、決して許さぬと、息を巻いておられたぞ!」
が、馬光年は、文偉の言葉に、あたりの林を震わせるほど、大きな声で笑った。
「許さぬ、とな? では、どのように許さぬというのか、やってみるがいい! 脆弱な文官ごときに、なにができるという!」
「呉の細作たちも一緒だぞ!」
「一緒だから、なんだというのだ? どうやら知らぬようだから教えてやろう。おまえがまるで切り札のように言う、呉の細作とやらは、孫権に仕える主力の細作集団ではない。いわば、主力から雇われた、末端組織なのだ。
どこの馬の骨とも知れぬ得体の知れない輩だぞ。孫権より報酬を得られねば、干上がってしまう卑しき身の者たちが、孔明と組んで、なんの益があると? 助けたとはいえ、それも一時のこと。やがて身を翻し、その首を持って、孫権のもとにもどっていくだけに決まっておるわ」
文偉は、さすがに顔色を変えたが、すぐさま、馬光年の言葉に流されそうになる自分を叱った。

芝蘭は、下っ端の刀筆吏たる、自分でさえ助けてくれた。
たとえ、それぞれにおも惑があったとしても、あの娘がいるかぎり、軍師もきっと無事だ。
屋敷を襲ってきた連中でさえも撃退してくれたのだし、なにより、偉度と含むところがあるようだった。
偉度は軍師に絶対的な忠誠を捧げている。
芝蘭たちが偉度を裏切るだろうか。
反覆常なき世とはいえ、かれ女たちには、細作とはいえ、なにか違う空気を感じる。

それに文偉は、馬光年が芝蘭を貶めたのが許せなかった。
大胆に、馬光年を鼻で笑ってみせる。
「その卑しき身に、おまえたちは、わたしの屋敷にて、ことごとく打ち倒されたではないか!」
言うと、とたんに馬光年は顔をこわばらせ、文偉の腹めがけて、蹴りを打ち込んできた。
一瞬、息が詰まる。
まるで芋虫のように地面に転がされ、文偉は咳き込み、呻いた。
「口の減らぬ若造よ。さっさと口を塞いでくれよう。その達者な舌は、鬼卒相手に使うがいい!」
しゃり、と鞘から剣を抜く音が聞こえて、文偉は痛みに呻きながらも、なんとか息を整えた。
こうなれば、もはや体裁など構っておられない。
「軍師ばかりではない! わたしには、趙将軍がついておられる! 軍師と趙将軍は、今頃おまえの村に行き、おまえたちの薄汚い計画を潰しにかかっているところだ!」
「趙将軍…趙子龍か?」
さすがにその名が出ると、馬光年の顔が曇り、文偉に突き立てられるはずの刃も、方向を迷い始める。
「諸葛亮と趙子龍が合流したと…しかし、行軍の報告など受けておらぬ!」
馬光年はするどくほかの男たちをにらみつけるが、男たちは、そんな話は知らない、というふうに首を振ってみせる。
馬光年は、忌々しそうに舌を打ち、文偉に刃を向けた。
「若造、俺を愚弄する気か」
「おまえなぞ、馬鹿馬鹿しくて愚弄する気にもなれぬ! 曹操百万の軍のなかを、単騎で駆けた当代随一の武勇の士が、たかが貴様ら相手に、軍を率いてくるわけがなかろう!」
「趙雲は一人か。なれば、死ね」

しまった、一言多かった。

後悔しつつ、振り下ろされる刃を怖じて、ぎゅっと目をつぶると、馬光年を制するように、控えていた男たちのうちの一人が、口を挟んできた。
「お待ちくださいませ。趙子龍が相手というのであれば、油断はなりませぬ」
ぴたりと、馬光年の刃が、文偉の鼻先ぎりぎりで止まる。
「趙雲という男、将としての才も持っておりますが、ほかの武人と違い、隠密行動に長けております。この小僧の言うとおり、百万のなかを単騎で駆けることができたのも、ひとえに、知恵がまわる大胆不敵な男であればこそ。軍を率いては、かえって目立ち、動きが取れなくなると踏んでの、単騎行かもしれませぬ」
「すると、この若造が、命惜しさにでたらめを喚いているわけではないと」
「趙雲は諸葛亮の信も厚く、その主騎として、これまで表には出ぬ働きを何度もしているとか。ゆえに、位は低いものの、劉備も諸葛亮も、趙雲は特別に扱っており、周囲もそれを認めておるのです。
もうすでに日が暮れ、あたりは闇。もし趙雲が、夜陰に乗じて村に潜入しておれば、たしかに面倒なことになりますぞ」
「うむ…」
馬光年も、配下のことばにうなずくことがあったらしく、剣をとりあえず引くと、網にからまった鮎のようになっている文偉を見下ろした。
「口だけの若造なんぞ、いつでも殺せるか。それよりも、有事の際の趙雲への人質にしたほうが、よほど役に立つ」
そう言って、馬光年は、剣を鞘に収める。
文偉としては、喜ぶべきか、それとも哀しむべきかわからない。
とりあえず、命だけは助かった。
馬光年の部下たちが近づいてきて、網に絡まっている文偉は、網ごと乱暴に引きずられる。
馬光年たちは、地面にこすれて痛みを訴える文偉を笑いながら、馬に乗せると、落ちないように鐙に括りつけ、ふたたび村へ走り出した。
馬から落ちる恐怖に耐えながら、文偉は、とりあえず思惑通りに、村に向かうことに成功した。

つづく……

(旧サイト「はさみの世界」(現・はさみのなかまのホームページ) 初出 2005/09/18)


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