※
昼休みである。
簡単な昼食をすませ、みなが午睡しているあいだに、孔明はひとり、こころのもやもやを晴らすべく、目的地に向かって歩いていた。
かれの部下たちに聞いて、居場所は特定している。
調練場のそばの井戸より、ざあざあと石畳に水が打ち付けられる音が聞こえた。
洗濯でもしているのか。
昼食の時間にまで、まめに働いているとなると、あの男にちがいない。
孔明は見当をつけて、さらに歩を進めた。
井戸は低木の茂みの奥に、隠れるようにしてあった。
垣根のように、百日紅の木が植えてある。
百日紅の赤く可憐な花が、木々をにぎやかしく飾っていた。
孔明が近づいても、まだ水音はつづく。
見れば、やはりまちがいない。
趙雲であった。
ただ、想像がちがっていたことに、趙雲は洗濯をしていたのではなかった。
井戸のほとりで、身を屈ませて、頭から水をかぶっていたのである。
ここに来る途中でも、調練でへたばった兵卒たちが、干物のようにあちこちに転がっていた。
趙雲もまた、自分の汗を流そうとしているのだろう。
目線で気づいたか、あるいは気配で気づいたか。
水びたしの趙雲は、ぎょっとしたふうに振り返る。
悪いことをしたかなと孔明は思った。
厠にいるとき、風呂のとき、それから寝ているとき、人は無防備になりがちである。
隙をついてしまったような形になった。
「やあ」
なるべく気まずさを払うように声をかけると、趙雲はすぐさま立ち上がった。
今度は孔明がぎょっとする番だった。
さいわいなことに趙雲は裸ではなかった。
だが、それに限りなく近い状態だったのだ。
水に濡れたせいで、白い衣が肌に密着し、身体の線がはっきりと見てとれる。
孔明は、あわてて物陰に身を隠し、顔をそむけた。
肌を人にさらすことは、なにより恥とされる。
人に肌をさらして恥じないのは野蛮人だ。
その常識からいえば、水浴び姿を見られた趙雲のほうも、困る状況であろう。
「すまない。またあとで来る」
顔をそむけたまま言うと、
「べつに気にせずともよいぞ。急ぎの用ではないのか」
と、趙雲はのんきなことを言った。
「軍師、木にかけておいた手ぬぐいと、着替えの衣を取ってくれ。すぐに身支度をすませる」
趙雲が水浴びをしていた井戸は、人のための井戸ではなく、馬に水を与えるために作られた井戸である。
ぬれねずみを放置しておくわけにはいかない。
さて、手ぬぐいと着替えはどこだ、と手探りで手を動かしつつ、孔明は趙雲を見ないように努力する。
しかし趙雲は頓着していないようで、平然と井戸のほとりに立っている。
恥ずかしいという感覚が、どうもわたしとずれているなと、孔明は変なところで感心した。
この城のほかの人間も、そういえば、おかしい。
張飛なんぞは、酔うと裸になって踊りだすことがある。
豪快かつ野蛮きわまるその踊りを初めて見たとき、孔明は眩暈をおぼえたものだ。
だが、兵卒のみならず、劉備や家臣たちには大うけであった。
新野城では、あの程度は当たり前のことなのだろうか。
趙雲の言う『木』とは、孔明の真となりにあった百日紅の木のことらしく、たしかにそこには、見覚えのある趙雲の衣がかかっていた。
洗濯もしてあるし、裁縫もきちんとされている。
ただし、布の質はあまりよろしくなく、色も冴えない。
「子龍、もうすこし着るものに気を遣ったならどうだ」
「いいから、早く着替えをくれ。濡れていて気持ち悪い」
孔明は思う。
本来は有能なこの男が、いまひとつ大きな役目も与えられず地味に過ごしてきたのは、この地味すぎる服にも原因があるのではなかろうか、と。
趙雲が手を伸ばしてきた。
孔明は、半裸でぬれねずみの趙雲をなるべく見ないように顔をそむけ、自分もかれに向けて手を伸ばした。
だが、趙雲も趙雲で、他の動作を進めながら手を伸ばしてきたようだった。
互いに顔を背けた状態で手を伸ばしあっていても、受け渡しがうまくいくはずがない。
趙雲のほうが、なかなか衣が手に届かないことに焦れたらしく、振り返ったのが気配で分かった。
「まだ顔をそらしていたのか」
あきれた声がする。
趙雲は姿勢を正して衣を受け取った、ようである。
顔をそむけつづけている孔明は、気配で孔明はそれを想像する。
趙雲が身支度を進めながら、言った。
「おまえは、本当にあれだな」
「あれとはなんだ。『神経質』『生真面目』『お堅い』好きなものを選べ」
「『育ちがいい』」
「それはどうも。ところでこの城の者は、いつもここを風呂代わりに使っているのか?」
「調練が終わったあとには、ときどきな。とはいえ、真っ裸になっているヤツはいないぞ。俺だって、遠慮して、衣の上から水をかぶっている。侍女たちにたまに見られるが、いままでぎゃあぎゃあ言われたことは一度もない」
「妙に堂々としているからではないのか」
「そうかもな」
でなければ、相手がみとれたのだろうと、孔明は心の中で付け足した。
女たちからすれば、趙雲の水浴び姿は眼福ものだったにちがいない。
「で? 用件はなんだ」
首の筋も痛くなってきたし、顔を背けたままで話をするのも変だ。
孔明はそろりと目玉だけを動かし、趙雲の状態を確認する。
ほっとしたことに、もう着替えは終わったようだ。
孔明は、趙雲にあらためて向き直ると、こほん、と咳をひとつした。
「麋子仲どののことだ」
「あの方がどうした」
趙雲は、裾を調整しているところであった。頭から水をかぶったせいで、髪型がだいぶ崩れている。
崩れた髪束から、ぽたぽたと雫が垂れて、着替えたばかりの衣にも落ちているが、あまり気にしていない様子だ。
この暑さでは、すぐに乾くと思っているからだろうか。
風邪は心配ではないのだろうか。
いや、心配することもないか、頑丈そうだしな、と孔明は思いなおし、麋竺から、奇妙な話をされたことを打ち明けた。
麋竺からは口止めされていなかったので、相談してもよかろうと思ったのだ。
「子仲どのは本当に『常人には見えないものが見える』のだろうか」
「ああ、そういえば、女神を馬車に乗せた話をよくしているな。おまえも聞いたことがあるだろう」
「一人で道を歩いていた婦人を親切に馬車に乗せたら、じつはそれが天帝のつかわした女神で、麋家を燃やそうとしていた。ところが、当主の子仲どのが善人だと知った女神は、行くのを遅らせるから、そのあいだに家財道具を家から運び出しなさいと忠告してくれた。
数刻後、あらかた家財道具を持ち出したあとに、家から火が出た。女神の話はほんとうだった、というあれか」
「それだ。子仲どのは、よく不思議な夢も見るそうだし、たしかに常人とはちがうものが見えていてもおかしくないかもな。女神を馬車に乗せられたのも、ふつうは見ることのできな女神が見られたからかもしれない」
「ふむ、そう言われるとそうかもしれない。納得した。ありがとう子龍」
「なぜ礼を」
「いや、あなたと話をすると、頭が整理されてすっきりするからさ」
率直に礼を言うと、趙雲は気恥ずかしそうな顔をした。
つづく
(2006/03/14 初稿)
(2021/12/01 推敲1)
(2021/12/23 推敲2)
(2021/12/26 推敲3)
昼休みである。
簡単な昼食をすませ、みなが午睡しているあいだに、孔明はひとり、こころのもやもやを晴らすべく、目的地に向かって歩いていた。
かれの部下たちに聞いて、居場所は特定している。
調練場のそばの井戸より、ざあざあと石畳に水が打ち付けられる音が聞こえた。
洗濯でもしているのか。
昼食の時間にまで、まめに働いているとなると、あの男にちがいない。
孔明は見当をつけて、さらに歩を進めた。
井戸は低木の茂みの奥に、隠れるようにしてあった。
垣根のように、百日紅の木が植えてある。
百日紅の赤く可憐な花が、木々をにぎやかしく飾っていた。
孔明が近づいても、まだ水音はつづく。
見れば、やはりまちがいない。
趙雲であった。
ただ、想像がちがっていたことに、趙雲は洗濯をしていたのではなかった。
井戸のほとりで、身を屈ませて、頭から水をかぶっていたのである。
ここに来る途中でも、調練でへたばった兵卒たちが、干物のようにあちこちに転がっていた。
趙雲もまた、自分の汗を流そうとしているのだろう。
目線で気づいたか、あるいは気配で気づいたか。
水びたしの趙雲は、ぎょっとしたふうに振り返る。
悪いことをしたかなと孔明は思った。
厠にいるとき、風呂のとき、それから寝ているとき、人は無防備になりがちである。
隙をついてしまったような形になった。
「やあ」
なるべく気まずさを払うように声をかけると、趙雲はすぐさま立ち上がった。
今度は孔明がぎょっとする番だった。
さいわいなことに趙雲は裸ではなかった。
だが、それに限りなく近い状態だったのだ。
水に濡れたせいで、白い衣が肌に密着し、身体の線がはっきりと見てとれる。
孔明は、あわてて物陰に身を隠し、顔をそむけた。
肌を人にさらすことは、なにより恥とされる。
人に肌をさらして恥じないのは野蛮人だ。
その常識からいえば、水浴び姿を見られた趙雲のほうも、困る状況であろう。
「すまない。またあとで来る」
顔をそむけたまま言うと、
「べつに気にせずともよいぞ。急ぎの用ではないのか」
と、趙雲はのんきなことを言った。
「軍師、木にかけておいた手ぬぐいと、着替えの衣を取ってくれ。すぐに身支度をすませる」
趙雲が水浴びをしていた井戸は、人のための井戸ではなく、馬に水を与えるために作られた井戸である。
ぬれねずみを放置しておくわけにはいかない。
さて、手ぬぐいと着替えはどこだ、と手探りで手を動かしつつ、孔明は趙雲を見ないように努力する。
しかし趙雲は頓着していないようで、平然と井戸のほとりに立っている。
恥ずかしいという感覚が、どうもわたしとずれているなと、孔明は変なところで感心した。
この城のほかの人間も、そういえば、おかしい。
張飛なんぞは、酔うと裸になって踊りだすことがある。
豪快かつ野蛮きわまるその踊りを初めて見たとき、孔明は眩暈をおぼえたものだ。
だが、兵卒のみならず、劉備や家臣たちには大うけであった。
新野城では、あの程度は当たり前のことなのだろうか。
趙雲の言う『木』とは、孔明の真となりにあった百日紅の木のことらしく、たしかにそこには、見覚えのある趙雲の衣がかかっていた。
洗濯もしてあるし、裁縫もきちんとされている。
ただし、布の質はあまりよろしくなく、色も冴えない。
「子龍、もうすこし着るものに気を遣ったならどうだ」
「いいから、早く着替えをくれ。濡れていて気持ち悪い」
孔明は思う。
本来は有能なこの男が、いまひとつ大きな役目も与えられず地味に過ごしてきたのは、この地味すぎる服にも原因があるのではなかろうか、と。
趙雲が手を伸ばしてきた。
孔明は、半裸でぬれねずみの趙雲をなるべく見ないように顔をそむけ、自分もかれに向けて手を伸ばした。
だが、趙雲も趙雲で、他の動作を進めながら手を伸ばしてきたようだった。
互いに顔を背けた状態で手を伸ばしあっていても、受け渡しがうまくいくはずがない。
趙雲のほうが、なかなか衣が手に届かないことに焦れたらしく、振り返ったのが気配で分かった。
「まだ顔をそらしていたのか」
あきれた声がする。
趙雲は姿勢を正して衣を受け取った、ようである。
顔をそむけつづけている孔明は、気配で孔明はそれを想像する。
趙雲が身支度を進めながら、言った。
「おまえは、本当にあれだな」
「あれとはなんだ。『神経質』『生真面目』『お堅い』好きなものを選べ」
「『育ちがいい』」
「それはどうも。ところでこの城の者は、いつもここを風呂代わりに使っているのか?」
「調練が終わったあとには、ときどきな。とはいえ、真っ裸になっているヤツはいないぞ。俺だって、遠慮して、衣の上から水をかぶっている。侍女たちにたまに見られるが、いままでぎゃあぎゃあ言われたことは一度もない」
「妙に堂々としているからではないのか」
「そうかもな」
でなければ、相手がみとれたのだろうと、孔明は心の中で付け足した。
女たちからすれば、趙雲の水浴び姿は眼福ものだったにちがいない。
「で? 用件はなんだ」
首の筋も痛くなってきたし、顔を背けたままで話をするのも変だ。
孔明はそろりと目玉だけを動かし、趙雲の状態を確認する。
ほっとしたことに、もう着替えは終わったようだ。
孔明は、趙雲にあらためて向き直ると、こほん、と咳をひとつした。
「麋子仲どののことだ」
「あの方がどうした」
趙雲は、裾を調整しているところであった。頭から水をかぶったせいで、髪型がだいぶ崩れている。
崩れた髪束から、ぽたぽたと雫が垂れて、着替えたばかりの衣にも落ちているが、あまり気にしていない様子だ。
この暑さでは、すぐに乾くと思っているからだろうか。
風邪は心配ではないのだろうか。
いや、心配することもないか、頑丈そうだしな、と孔明は思いなおし、麋竺から、奇妙な話をされたことを打ち明けた。
麋竺からは口止めされていなかったので、相談してもよかろうと思ったのだ。
「子仲どのは本当に『常人には見えないものが見える』のだろうか」
「ああ、そういえば、女神を馬車に乗せた話をよくしているな。おまえも聞いたことがあるだろう」
「一人で道を歩いていた婦人を親切に馬車に乗せたら、じつはそれが天帝のつかわした女神で、麋家を燃やそうとしていた。ところが、当主の子仲どのが善人だと知った女神は、行くのを遅らせるから、そのあいだに家財道具を家から運び出しなさいと忠告してくれた。
数刻後、あらかた家財道具を持ち出したあとに、家から火が出た。女神の話はほんとうだった、というあれか」
「それだ。子仲どのは、よく不思議な夢も見るそうだし、たしかに常人とはちがうものが見えていてもおかしくないかもな。女神を馬車に乗せられたのも、ふつうは見ることのできな女神が見られたからかもしれない」
「ふむ、そう言われるとそうかもしれない。納得した。ありがとう子龍」
「なぜ礼を」
「いや、あなたと話をすると、頭が整理されてすっきりするからさ」
率直に礼を言うと、趙雲は気恥ずかしそうな顔をした。
つづく
(2006/03/14 初稿)
(2021/12/01 推敲1)
(2021/12/23 推敲2)
(2021/12/26 推敲3)