※
李巌は、劉封が来るのをあらかじめ知っていたようである。
文偉は、宴の支度に忙しい兵卒たちや賄い役にまぎれるようにして、あるときは堂々と、あるときはこっそりと陣の奥深くに入り込んだ。
李巌が宴を用意したのは、高床式になっている長細い物置のような木の館であったが、それでも劉封一行と李巌、費観双方の部将たちを、すべて招きいれるに、十分な広さがあった。
文偉は、次第にあたりが暗くなってきたのをよいことに、どやどやと館に入っていく将兵の足音を聞きながら、そっと軒下に入り込んだ。
ところどころの床板と床板のあいだから、光が差し込んでいる。
まるで大地に厚い雲から、陽が差し込んでいるのにも似ていた。
暗くなってきて幸いであったと、あちこち土で汚れながら、文偉は身をかがめておもった。
たまにくもの巣にひっかかり、顔がくすぐったくなる。
文偉は蜘蛛が苦手であった。
もしこれで陽光が高く昇っている頃であったら、嫌いであるがゆえに、いちいち蜘蛛の姿をみつけては、悲鳴をおさえるのに苦労していたことだろう。
緊張している文偉でさえ食欲がそそられる、よい香りがながれてくる。
特に隙間の大きな床板の境目からそっと覗くと、ちょうど、李巌に案内される形で、劉封がはいってきたところであった。
陣には山中にしては、なかなか豪勢な宴の用意ができており、腫れた頬をかばっている劉封には、それが皮肉に映ったらしく、あからさまに顔をゆがめてみせる。
劉封という青年の人となりを、文偉はよく知らない。
文偉は宮城に仕える書士の身であったが、孔明に目をかけてもらっている、というのもあり、よく左将軍府に顔を出す。
宮城はもとより、左将軍府でも、劉封のことを話題にするのは、なんとなく控えているような空気があった。
であるから、劉封が左将軍府に顔出すことはなかったし、孔明や趙雲たちをはじめとする、左将軍府を中心としたひとびとが、劉封と付き合うこともなかった。
はじめて間近でみる劉封は、文偉よりいくらか年上であった。
孔明や董和、そして趙雲の颯爽とした姿に見慣れてしまっている目には、見るからに器の小さい、偏屈な青年に見える。
李巌は、劉封のふくれた顔(頬だけではなく)に、苦笑いを浮かべつつも、あまたの女たちを熱狂させる、さわやかな笑みを見せる。
李厳は、容姿の点からしても、柔和な孔明とは対照的であった。
「こうしている場合ではないぞ。いまごろ、趙子龍と、あの細作くずれめ、村にたどり着いておるやもしれぬ。我らはここにいてよいのか」
と、劉封はちらりと西に熔けていく日輪を見て、声をひそませる。
「そろそろ、軍師の処刑が行われている頃合であろう」
床板の下にひそむ文偉には、劉封の語ることばのひとつひとつが、大きな石のように、自分にぶつかってくるように感じられた。
細作くずれ? 偉度のことか?
そして、軍師の処刑とは?
混乱する文偉をよそに、なにも口にすることが出来ないでいる劉封のとなりで、美酒をかたむけつつ、李巌は誇らしく笑った。
劉封は、不機嫌に顔をしかめる。
「なにを笑っている」
「軍師の処刑は、取りやめとなったのだ」
「なんだと?」
それを聞いたとたん、劉封は立ち上がりかけたが、李巌はとなりで、ぐっとその腕を掴み、無理に座らせる。
「おもいもかけないことになったのは、こちらも同様でな、軍師には、ご立派な最期を遂げていただく予定だったのだよ、この、美しい日輪の見える場所で」
妙に詩人きどりで、李巌は目をほそめて、館から見える、黒い影ばかりとなった木立のあいだに消えていく太陽と、うつくしい暮れの空を愛でた。
「風もここで旅を終えるほど山間の村、だから終風村という。村の名を最初に唱えた男も、なかなか雅やかな心を持っていたとはおもわぬか」
「ええい、それがなんだと?」
「まあまあ、とはいえ、事態はまだ、われらのおもうように動いておるのだ。軍師の処刑がならなかったのは、逃げてしまわれたからなのだよ、かの御仁は」
「逃げた? 李将軍、先刻より、俺を愚弄しているのか?」
「愚弄など、とんでもない。やはり、天下のために自害しろなどと言われて、すんなりわかりました、などという男ではなかったよ、諸葛亮は。それに、運も尽きておらぬ。
よいかね、公子、運が尽きていない人間には、なにを仕掛けようと、かならずこちらが負ける。そのように、ふしぎと世の中は成り立っておるのだ。軍師の運が費えぬかぎり、それを無理にどうこうしようと、意味のないことだ。
そういうわけで、軍師には生き残っていただく。おそらく、今頃は、この森をひとりで彷徨っているのではないかな…どうだ馬光年」
その名に、文偉はびくりと身をすくませた。
終風村の村長と名乗っていた…魏の細作であったという男ではないか。
魏と、李巌と、劉封と、この三者が、繋がっている?
文偉は、次第に早くなる鼓動をおぼえつつ、従兄の姿を探した。
駄目だ、こんなところにいては、叛逆者の仲間とみなされる。
従兄殿を軍師はけっして許すまい。
偉度が細作くずれだと言った、劉封の言葉も気になったが…しかし、そうだとすると、芝蘭と偉度が文偉の館で交わした会話の意味、そして芝蘭が偉度を『兄上』と呼んだことの意味が、なんとなくわかってくる…いまは、ともかく馬光年が、なぜここにいるのか、ということだ。
「おっしゃるとおりで。途中に狼に食われてしまわねばよいのですが」
馬光年は畏まりつつ、劉封の前にあらわれる。
劉封は、顎でしゃくるような仕草で、馬光年に尋ねた。
「で、首尾はどうなのだ」
「上々…とまでは行きませぬが、それなりかと」
「ふん、しばし軍師のことは置くとして、魏王の息子はどうだ」
「首尾よく捕らえましてございます。陳長文も問題なく」
「殺したのではないのか」
あからさまな問いに、馬光年は首を振りつつ、苦笑いを浮かべて答えた。
「いいえ、生かしてございます。魏王の嫡子と、陳長文の処遇は、われらの決めることではありませぬゆえ、村に捕らえてございます。あとで、どうぞご見聞くださいませ」
見聞、と聞いて、そうなったときの想像をしたのか、劉封は、愉快そうに身体を揺らした。
「諸葛孔明に逃げられたのは、曹操の嫡子が、欲をかいたからでございます。かれらは、諸葛孔明に『魏王が劉括さまを次期帝位につけてよいとおっしゃっている、そのためには、劉括の母の仇である、おまえの存在がじゃまになる。夕刻までに自害するか、あるいは処刑されるのを待つか、どちらかにせよ』と迫っておきながら、孔明を精神的に追いつめ、ぎりぎりで助けてやり、恩を着せ、軍門に降らせるつもりであったのです。
そも、曹操が、嫡子が蜀に少数で乗り込むことに賛成したのは、かならず諸葛孔明を降す、ということであったそうですから」
「魏王が軍師を? それもよいかもしれぬな。あの驕慢な男が、魏王の気に入るはずがない。おそらくその手に渡したほうが、早くに死に近づけさせられたかもしれぬな」
劉封が、つまらなさそうに言うのを、馬光年はついで言う。
「曹操の嫡子が、御自ら身分を隠し、軍師の説得にかかったのですが、孔明はしぶとく、逃げる算段ばかりしていた。そこで嫡子は、ともに逃げ、捕らえられて処刑されそうになる段になって、救ってやる、というふうに策を変えたのでございます。
そこでわれらとしても計算が狂ってしまいまして、仕方なく、嫡子は捕らえたのでございますが、軍師には逃げられてしまいました。なにせ、このあたりの森は深い…」
もしも、文偉が覗き見、という形ではなく、ちゃんと真正面から馬光年を見据えていたなら、その目がどこか落ち着きがないのに、すぐに気づいたであろう。
嘘をついている、と。
「軍師のことは捨て置かれよ。どちらにしろ、これでかえってよかったのかもしれぬぞ。忌々しきことであるが、軍師が、変わらず主公の寵愛を得ていることは事実。
もしも軍師がすでに死んでいた、などとなれば、いくら実子の劉括を見たとしても、主公がお怒りを解かれたかどうか、やはりあやしい。魏の嫡子と陳長文を人質に、魏に降伏を迫るわれらの計画は、主公の賛成がなくては、やはり成り立たぬからな」
文偉は、全身の血が冷えていくのをおぼえていた。
とんでもない話を聞いてしまった。
あまりに途方もない。
叛逆、陰謀、そんな言葉があたまをぐるぐる駆け巡る。
この近所に来ると、ろくなことにならない。
以前は生き埋めにされそうになった挙句に、成都まで追い回され、今度は李巌と劉封のとんでもない企てを耳にしてしまった。
だいたい、劉括とは、何者だ?
そんな名前、聞いたこともない。
噂にだって、なっていないはずだ…流行と噂に耳ざとい文偉は、自信をもって、しらない、と言い切ることが出来た。
趙雲と偉度のことがふと、頭に浮かぶ。
あの二人は、どこまで把握しているのだろう。
軍師が、『魏』に捕らわれた、と信じているにちがいない。
そうではない。
軍師はとっくに自力で逃げて、村には、劉封と李巌らの息のかかった者たちがいるばかりだ。
軍師さえ殺そうとした連中のなかに、二人がのこのこ顔を出したら、どうなる?
文偉が、村へ向かうべく、軒下を這いながら外に出ようとするのと、馬光年が、劉封と李巌の前から、村へもどります、といって辞去するのは、ほぼ同時であった。
馬光年は、階段を下りると、外に待機していた男たち…そのなかには、文偉が最初に村で見た、『村人』の顔もあった…に、館のほうを気にしながら、言った。
「なんとか誤魔化しきったぞ。嫡子がわれらの手の内にあるのは事実であるが、軍師はみつかったか」
「それが、森中を探しておりますが、陽が落ちてきましたゆえ、うまくいきませぬ。あの銀の山犬どもから見て、芝蘭の手勢が、孔明を助けたのでございましょう」
芝蘭。
その名を聞いて、文偉の心拍数は、はげしく上がった。
馬光年は嘘をついており、軍師は山中に迷ってはおらず、なんと芝蘭が、軍師を助けた、という。
ますます、文偉は芝蘭にほれ込んだ。
なんという女丈夫だろう。
力強く、賢明で、なおかつ、しなやかで美しい。
完璧に理想ではないか。
つくづく、呉の細作であるのが惜しい。
うん? なぜ呉の人間が軍師を助けるのだろう……馬光年、つまりは李巌らの野望を挫かんがため?
いや、芝蘭は、わたしの屋敷で魏の賊を討ち果たして、すぐに呉に帰ると言っていた。
あれは嘘ではなかったとおもう。
とすれば、魏の嫡子(まぬけなやつだ、と文偉は素直におもった)のように、そして令名高い陳長文(噂に反して、ずいぶんなウッカリ者だ、と文偉は感慨深くおもった)のように、馬光年に騙されているのではないか?
魏が主体となって、この陰謀が動いているとおもい、さきほどの話を総合すれば、劉括とかいう劉備の子(?)が帝位についたら、東呉は降伏を迫られる。
魏と蜀が連合するようなものだからだ。
そのため、もどってきて、軍師を助け、魏の野望を挫こうとしているのだ。
芝蘭にこのことを…いやいや、軍師にこのことを知らさねば。
しかし、かれらはどこへ?
馬光年は、宴が始まった館のほうを、忌々しそうに振り返る。
「盛り上がってきたようだな。よいか、我らはこれより村にもどる。李将軍と劉公子は、おそらくあとから村にやってくるであろう。その前に、なんとか呉の人間を始末するのだ。森を徹底的に洗え」
しかし馬光年の手下たちは、あまり気乗りしない様子で、返事がかんばしくない。
それはそうだろう。人間と、山犬とでは、夜闇のなかにおいては、その有利さが段違いである。
待てよ、連中についていけば、うまく芝蘭に会うことができるかもしれない。
文偉は騎乗するかれらの姿を見て、すぐさま軒下から這い出すと、厩にどうどうと入り込み、
「費観の従弟、費文偉が馬を借りるぞ!」
と、堂々と言い放って、ぽかんとする厩番を尻目に、かわらず、堂々と陣を出て、馬光年のあとを追った。
恋する男の迫力勝ち、というわけでもなかろうが、文偉があまりに堂々と立派であったから、陣を守っていた兵卒たちは、だれひとり、文偉を疑わず、追おうとかんがえる者すらいなかった。
つづく……
(旧サイト「はさみの世界」(現サイト・はさみのなかまのホームページ) 初出2005/07/22)
李巌は、劉封が来るのをあらかじめ知っていたようである。
文偉は、宴の支度に忙しい兵卒たちや賄い役にまぎれるようにして、あるときは堂々と、あるときはこっそりと陣の奥深くに入り込んだ。
李巌が宴を用意したのは、高床式になっている長細い物置のような木の館であったが、それでも劉封一行と李巌、費観双方の部将たちを、すべて招きいれるに、十分な広さがあった。
文偉は、次第にあたりが暗くなってきたのをよいことに、どやどやと館に入っていく将兵の足音を聞きながら、そっと軒下に入り込んだ。
ところどころの床板と床板のあいだから、光が差し込んでいる。
まるで大地に厚い雲から、陽が差し込んでいるのにも似ていた。
暗くなってきて幸いであったと、あちこち土で汚れながら、文偉は身をかがめておもった。
たまにくもの巣にひっかかり、顔がくすぐったくなる。
文偉は蜘蛛が苦手であった。
もしこれで陽光が高く昇っている頃であったら、嫌いであるがゆえに、いちいち蜘蛛の姿をみつけては、悲鳴をおさえるのに苦労していたことだろう。
緊張している文偉でさえ食欲がそそられる、よい香りがながれてくる。
特に隙間の大きな床板の境目からそっと覗くと、ちょうど、李巌に案内される形で、劉封がはいってきたところであった。
陣には山中にしては、なかなか豪勢な宴の用意ができており、腫れた頬をかばっている劉封には、それが皮肉に映ったらしく、あからさまに顔をゆがめてみせる。
劉封という青年の人となりを、文偉はよく知らない。
文偉は宮城に仕える書士の身であったが、孔明に目をかけてもらっている、というのもあり、よく左将軍府に顔を出す。
宮城はもとより、左将軍府でも、劉封のことを話題にするのは、なんとなく控えているような空気があった。
であるから、劉封が左将軍府に顔出すことはなかったし、孔明や趙雲たちをはじめとする、左将軍府を中心としたひとびとが、劉封と付き合うこともなかった。
はじめて間近でみる劉封は、文偉よりいくらか年上であった。
孔明や董和、そして趙雲の颯爽とした姿に見慣れてしまっている目には、見るからに器の小さい、偏屈な青年に見える。
李巌は、劉封のふくれた顔(頬だけではなく)に、苦笑いを浮かべつつも、あまたの女たちを熱狂させる、さわやかな笑みを見せる。
李厳は、容姿の点からしても、柔和な孔明とは対照的であった。
「こうしている場合ではないぞ。いまごろ、趙子龍と、あの細作くずれめ、村にたどり着いておるやもしれぬ。我らはここにいてよいのか」
と、劉封はちらりと西に熔けていく日輪を見て、声をひそませる。
「そろそろ、軍師の処刑が行われている頃合であろう」
床板の下にひそむ文偉には、劉封の語ることばのひとつひとつが、大きな石のように、自分にぶつかってくるように感じられた。
細作くずれ? 偉度のことか?
そして、軍師の処刑とは?
混乱する文偉をよそに、なにも口にすることが出来ないでいる劉封のとなりで、美酒をかたむけつつ、李巌は誇らしく笑った。
劉封は、不機嫌に顔をしかめる。
「なにを笑っている」
「軍師の処刑は、取りやめとなったのだ」
「なんだと?」
それを聞いたとたん、劉封は立ち上がりかけたが、李巌はとなりで、ぐっとその腕を掴み、無理に座らせる。
「おもいもかけないことになったのは、こちらも同様でな、軍師には、ご立派な最期を遂げていただく予定だったのだよ、この、美しい日輪の見える場所で」
妙に詩人きどりで、李巌は目をほそめて、館から見える、黒い影ばかりとなった木立のあいだに消えていく太陽と、うつくしい暮れの空を愛でた。
「風もここで旅を終えるほど山間の村、だから終風村という。村の名を最初に唱えた男も、なかなか雅やかな心を持っていたとはおもわぬか」
「ええい、それがなんだと?」
「まあまあ、とはいえ、事態はまだ、われらのおもうように動いておるのだ。軍師の処刑がならなかったのは、逃げてしまわれたからなのだよ、かの御仁は」
「逃げた? 李将軍、先刻より、俺を愚弄しているのか?」
「愚弄など、とんでもない。やはり、天下のために自害しろなどと言われて、すんなりわかりました、などという男ではなかったよ、諸葛亮は。それに、運も尽きておらぬ。
よいかね、公子、運が尽きていない人間には、なにを仕掛けようと、かならずこちらが負ける。そのように、ふしぎと世の中は成り立っておるのだ。軍師の運が費えぬかぎり、それを無理にどうこうしようと、意味のないことだ。
そういうわけで、軍師には生き残っていただく。おそらく、今頃は、この森をひとりで彷徨っているのではないかな…どうだ馬光年」
その名に、文偉はびくりと身をすくませた。
終風村の村長と名乗っていた…魏の細作であったという男ではないか。
魏と、李巌と、劉封と、この三者が、繋がっている?
文偉は、次第に早くなる鼓動をおぼえつつ、従兄の姿を探した。
駄目だ、こんなところにいては、叛逆者の仲間とみなされる。
従兄殿を軍師はけっして許すまい。
偉度が細作くずれだと言った、劉封の言葉も気になったが…しかし、そうだとすると、芝蘭と偉度が文偉の館で交わした会話の意味、そして芝蘭が偉度を『兄上』と呼んだことの意味が、なんとなくわかってくる…いまは、ともかく馬光年が、なぜここにいるのか、ということだ。
「おっしゃるとおりで。途中に狼に食われてしまわねばよいのですが」
馬光年は畏まりつつ、劉封の前にあらわれる。
劉封は、顎でしゃくるような仕草で、馬光年に尋ねた。
「で、首尾はどうなのだ」
「上々…とまでは行きませぬが、それなりかと」
「ふん、しばし軍師のことは置くとして、魏王の息子はどうだ」
「首尾よく捕らえましてございます。陳長文も問題なく」
「殺したのではないのか」
あからさまな問いに、馬光年は首を振りつつ、苦笑いを浮かべて答えた。
「いいえ、生かしてございます。魏王の嫡子と、陳長文の処遇は、われらの決めることではありませぬゆえ、村に捕らえてございます。あとで、どうぞご見聞くださいませ」
見聞、と聞いて、そうなったときの想像をしたのか、劉封は、愉快そうに身体を揺らした。
「諸葛孔明に逃げられたのは、曹操の嫡子が、欲をかいたからでございます。かれらは、諸葛孔明に『魏王が劉括さまを次期帝位につけてよいとおっしゃっている、そのためには、劉括の母の仇である、おまえの存在がじゃまになる。夕刻までに自害するか、あるいは処刑されるのを待つか、どちらかにせよ』と迫っておきながら、孔明を精神的に追いつめ、ぎりぎりで助けてやり、恩を着せ、軍門に降らせるつもりであったのです。
そも、曹操が、嫡子が蜀に少数で乗り込むことに賛成したのは、かならず諸葛孔明を降す、ということであったそうですから」
「魏王が軍師を? それもよいかもしれぬな。あの驕慢な男が、魏王の気に入るはずがない。おそらくその手に渡したほうが、早くに死に近づけさせられたかもしれぬな」
劉封が、つまらなさそうに言うのを、馬光年はついで言う。
「曹操の嫡子が、御自ら身分を隠し、軍師の説得にかかったのですが、孔明はしぶとく、逃げる算段ばかりしていた。そこで嫡子は、ともに逃げ、捕らえられて処刑されそうになる段になって、救ってやる、というふうに策を変えたのでございます。
そこでわれらとしても計算が狂ってしまいまして、仕方なく、嫡子は捕らえたのでございますが、軍師には逃げられてしまいました。なにせ、このあたりの森は深い…」
もしも、文偉が覗き見、という形ではなく、ちゃんと真正面から馬光年を見据えていたなら、その目がどこか落ち着きがないのに、すぐに気づいたであろう。
嘘をついている、と。
「軍師のことは捨て置かれよ。どちらにしろ、これでかえってよかったのかもしれぬぞ。忌々しきことであるが、軍師が、変わらず主公の寵愛を得ていることは事実。
もしも軍師がすでに死んでいた、などとなれば、いくら実子の劉括を見たとしても、主公がお怒りを解かれたかどうか、やはりあやしい。魏の嫡子と陳長文を人質に、魏に降伏を迫るわれらの計画は、主公の賛成がなくては、やはり成り立たぬからな」
文偉は、全身の血が冷えていくのをおぼえていた。
とんでもない話を聞いてしまった。
あまりに途方もない。
叛逆、陰謀、そんな言葉があたまをぐるぐる駆け巡る。
この近所に来ると、ろくなことにならない。
以前は生き埋めにされそうになった挙句に、成都まで追い回され、今度は李巌と劉封のとんでもない企てを耳にしてしまった。
だいたい、劉括とは、何者だ?
そんな名前、聞いたこともない。
噂にだって、なっていないはずだ…流行と噂に耳ざとい文偉は、自信をもって、しらない、と言い切ることが出来た。
趙雲と偉度のことがふと、頭に浮かぶ。
あの二人は、どこまで把握しているのだろう。
軍師が、『魏』に捕らわれた、と信じているにちがいない。
そうではない。
軍師はとっくに自力で逃げて、村には、劉封と李巌らの息のかかった者たちがいるばかりだ。
軍師さえ殺そうとした連中のなかに、二人がのこのこ顔を出したら、どうなる?
文偉が、村へ向かうべく、軒下を這いながら外に出ようとするのと、馬光年が、劉封と李巌の前から、村へもどります、といって辞去するのは、ほぼ同時であった。
馬光年は、階段を下りると、外に待機していた男たち…そのなかには、文偉が最初に村で見た、『村人』の顔もあった…に、館のほうを気にしながら、言った。
「なんとか誤魔化しきったぞ。嫡子がわれらの手の内にあるのは事実であるが、軍師はみつかったか」
「それが、森中を探しておりますが、陽が落ちてきましたゆえ、うまくいきませぬ。あの銀の山犬どもから見て、芝蘭の手勢が、孔明を助けたのでございましょう」
芝蘭。
その名を聞いて、文偉の心拍数は、はげしく上がった。
馬光年は嘘をついており、軍師は山中に迷ってはおらず、なんと芝蘭が、軍師を助けた、という。
ますます、文偉は芝蘭にほれ込んだ。
なんという女丈夫だろう。
力強く、賢明で、なおかつ、しなやかで美しい。
完璧に理想ではないか。
つくづく、呉の細作であるのが惜しい。
うん? なぜ呉の人間が軍師を助けるのだろう……馬光年、つまりは李巌らの野望を挫かんがため?
いや、芝蘭は、わたしの屋敷で魏の賊を討ち果たして、すぐに呉に帰ると言っていた。
あれは嘘ではなかったとおもう。
とすれば、魏の嫡子(まぬけなやつだ、と文偉は素直におもった)のように、そして令名高い陳長文(噂に反して、ずいぶんなウッカリ者だ、と文偉は感慨深くおもった)のように、馬光年に騙されているのではないか?
魏が主体となって、この陰謀が動いているとおもい、さきほどの話を総合すれば、劉括とかいう劉備の子(?)が帝位についたら、東呉は降伏を迫られる。
魏と蜀が連合するようなものだからだ。
そのため、もどってきて、軍師を助け、魏の野望を挫こうとしているのだ。
芝蘭にこのことを…いやいや、軍師にこのことを知らさねば。
しかし、かれらはどこへ?
馬光年は、宴が始まった館のほうを、忌々しそうに振り返る。
「盛り上がってきたようだな。よいか、我らはこれより村にもどる。李将軍と劉公子は、おそらくあとから村にやってくるであろう。その前に、なんとか呉の人間を始末するのだ。森を徹底的に洗え」
しかし馬光年の手下たちは、あまり気乗りしない様子で、返事がかんばしくない。
それはそうだろう。人間と、山犬とでは、夜闇のなかにおいては、その有利さが段違いである。
待てよ、連中についていけば、うまく芝蘭に会うことができるかもしれない。
文偉は騎乗するかれらの姿を見て、すぐさま軒下から這い出すと、厩にどうどうと入り込み、
「費観の従弟、費文偉が馬を借りるぞ!」
と、堂々と言い放って、ぽかんとする厩番を尻目に、かわらず、堂々と陣を出て、馬光年のあとを追った。
恋する男の迫力勝ち、というわけでもなかろうが、文偉があまりに堂々と立派であったから、陣を守っていた兵卒たちは、だれひとり、文偉を疑わず、追おうとかんがえる者すらいなかった。
つづく……
(旧サイト「はさみの世界」(現サイト・はさみのなかまのホームページ) 初出2005/07/22)