※
客館のあるじに別れの挨拶をして、ふたりして急いで港へ向かう。
壮行会はふたりが到着するのとほぼ同時に始まった。
孫権をはじめ、程普《ていふ》や黄蓋《こうがい》ら重鎮のほか、多くの柴桑《さいそう》の民が見物に押しかけている。
江東の民の勇壮なことと言ったらない。
周瑜が天の神、地の神に酒を注ぎ、祈りをささげているあいだこそ静かだったが、船を出すという段になると、いっせいに、
「いいぞ、曹賊をやっつけてくれ!」
「ぜったいに勝ってきて下せえ!」
と口々に応援のことばをかけていた。
周瑜もまた、たいへんにこやかに人々にこたえていて、集まった民のうち、女たちは、その一挙手一投足にきゃあきゃあ言って大騒ぎである。
周瑜のほうも心得ていて、民がなにかことばをかけてくるたび、それに応じて、
「きっと勝ってくるぞ」
と言ってみたり、女たちに愛想よく手を振ってみたり。
一方で見送る側の孫権の影はいささか薄かったが、どうやらいつものことらしく、孫権自身もいっしょになって喜んでいる。
金糸銀糸で飾られた派手な鎧姿の周瑜は、中身も外身も完璧である。
それを見るにつけ、やはり周瑜は、江東における精神的支柱なのだと、孔明は感心せざるを得なかった。
『わたしにはこれほど求心力を発揮することはできまい』
そう思うと、むくむくと闘争心が沸く。
『いや、いずれはかれのようになる。あるいは、かれを超えて見せよう』
孔明がそんな決意を固めているのも知らず、周瑜は白い歯をこぼして、出立するまでのあいだ、ずっと上機嫌に笑っていた。
とてもこれから曹操の大軍と対決に行くのだという雰囲気ではない。
自信があるのか、怖い者知らずなのか……おそらく前者だろう。
大船団がいっせいに動き出し、孔明たちもまた、魯粛の手配してくれた船のひとつに乗り込んだ。
船が岸を離れるとぐんぐんと長江を遡上《そじょう》し、柴桑の街は遠く彼方になっていった。
なつかしい豫章《よしょう》の地。
ふたたび足を踏み入れることがあるだろうか。
いや、それより、あの街に胡済《こさい》はまだ残っているのか、そうではないのか。
複雑な思いで、孔明は柴桑が完全に見えなくなるまで、じっと南の方向を見つめていた。
※
行きより帰りのほうが早いのは旅の常である。
大船団は順調に長江をさかのぼり、樊口《はんこう》へと向かいつつあった。
その街が見えてきたので、となりにいる趙雲があきらかにほっとしているのがわかった。
その横顔を盗み見ると、みごとに青い。
その青さは透かした紙にも匹敵するほどで、孔明は思わず口にしていた。
「ほんとうに、あなたにも苦手なものがあるのだな」
とはいえ、こんな言葉は、何の慰めにもならないだろう。
「出立するまえにあげた頓服は効かなかったかな」
妻の月英が教えてくれた処方の頓服なので、効くだろうと信じていたが、趙雲の船酔いは頑固らしい。
趙雲は青い顔のまま、力なく笑った。
「来た時よりは、まだ気分がいい」
「そうか? ならばいいが」
「おれはとことん、北の人間だなと思ったよ。やはり、地に足がついていないと落ち着かない」
そして「船は苦手だ」とこぼした。
孔明らの乗る船と並走して、周瑜や魯粛の乗り込んでいる大きな楼船《ろうせん》のほか、精鋭を乗せた闘船《とうせん》、そして屋根付きの覆いのあるのが特徴の蒙衝《もうしょう》などが河を走る。
あの船のなかに、胡済が紛れていないないだろうかと、孔明はつい考えてしまう。
そろそろ樊口に到着するので、劉備と周瑜の対面がうまくいくかのほうにこころを配らねばならないのだが……
「偉度(胡済)がどこかに潜り込んでいるといいな」
と、趙雲は青い顔のまま言う。
「これは勘だが、あいつはもう柴桑にはいない気がする」
「気配を感じるとか?」
「そうではない。おれなりに考えたのだが、あいつを動かせる人間が、劉公子とお前のほかにいるだろうか。
いるとしたら、それは壺中《こちゅう》とかかわりのある人間ではないのかな」
孔明は趙雲の明察に、眉をあげておどろいた。
「なるほど、そうか、そうかもしれない。
偉度を呼び出した手口が慣れていたのも、そのためか」
「だが、何のために呼び出され、そしてあいつが付いていったのかはわからん。
昔の仲間のために動いたという可能性もあるわけだが……だとすると、それは蔡瑁《さいぼう》の手の者かもな」
ぎょっとして、孔明はまじまじと趙雲の横顔を見た。
趙雲はこれ以上酔わないようにするためか、地平の彼方をじっと睨むようにしている。
「蔡瑁の手の者ということは、つまり曹操の?」
「そういう可能性もある、ということだ。
だが、もうひとつの可能性も考えておけ」
「もうひとつ?」
たずねると、趙雲は、ちらりと目線を寄越し、言いづらそうにした。
それだけで、聡《さと》い孔明にはわかってしまった。
「あの子が消された可能性か」
「客館の庭の地面をたしかめたが、格闘した形跡はなかった。
引きずられた跡もなかったから、偉度は自分の足で客館を出たのだろう。
そのあとのことは想像するしかない。
蔡瑁の手の者に呼び出されたのだとすると」
「覚悟する必要があるというわけか」
胡済がどこでどうしているのか、生きているのか死んでいるのか。
その先を考えるのは、さすがの孔明も恐ろしくてすることができなかった。
やがて川べりをすみかにする水鳥の姿が多くみられるようになってきた。
目的地である樊口に到着したのだった。
つづく
客館のあるじに別れの挨拶をして、ふたりして急いで港へ向かう。
壮行会はふたりが到着するのとほぼ同時に始まった。
孫権をはじめ、程普《ていふ》や黄蓋《こうがい》ら重鎮のほか、多くの柴桑《さいそう》の民が見物に押しかけている。
江東の民の勇壮なことと言ったらない。
周瑜が天の神、地の神に酒を注ぎ、祈りをささげているあいだこそ静かだったが、船を出すという段になると、いっせいに、
「いいぞ、曹賊をやっつけてくれ!」
「ぜったいに勝ってきて下せえ!」
と口々に応援のことばをかけていた。
周瑜もまた、たいへんにこやかに人々にこたえていて、集まった民のうち、女たちは、その一挙手一投足にきゃあきゃあ言って大騒ぎである。
周瑜のほうも心得ていて、民がなにかことばをかけてくるたび、それに応じて、
「きっと勝ってくるぞ」
と言ってみたり、女たちに愛想よく手を振ってみたり。
一方で見送る側の孫権の影はいささか薄かったが、どうやらいつものことらしく、孫権自身もいっしょになって喜んでいる。
金糸銀糸で飾られた派手な鎧姿の周瑜は、中身も外身も完璧である。
それを見るにつけ、やはり周瑜は、江東における精神的支柱なのだと、孔明は感心せざるを得なかった。
『わたしにはこれほど求心力を発揮することはできまい』
そう思うと、むくむくと闘争心が沸く。
『いや、いずれはかれのようになる。あるいは、かれを超えて見せよう』
孔明がそんな決意を固めているのも知らず、周瑜は白い歯をこぼして、出立するまでのあいだ、ずっと上機嫌に笑っていた。
とてもこれから曹操の大軍と対決に行くのだという雰囲気ではない。
自信があるのか、怖い者知らずなのか……おそらく前者だろう。
大船団がいっせいに動き出し、孔明たちもまた、魯粛の手配してくれた船のひとつに乗り込んだ。
船が岸を離れるとぐんぐんと長江を遡上《そじょう》し、柴桑の街は遠く彼方になっていった。
なつかしい豫章《よしょう》の地。
ふたたび足を踏み入れることがあるだろうか。
いや、それより、あの街に胡済《こさい》はまだ残っているのか、そうではないのか。
複雑な思いで、孔明は柴桑が完全に見えなくなるまで、じっと南の方向を見つめていた。
※
行きより帰りのほうが早いのは旅の常である。
大船団は順調に長江をさかのぼり、樊口《はんこう》へと向かいつつあった。
その街が見えてきたので、となりにいる趙雲があきらかにほっとしているのがわかった。
その横顔を盗み見ると、みごとに青い。
その青さは透かした紙にも匹敵するほどで、孔明は思わず口にしていた。
「ほんとうに、あなたにも苦手なものがあるのだな」
とはいえ、こんな言葉は、何の慰めにもならないだろう。
「出立するまえにあげた頓服は効かなかったかな」
妻の月英が教えてくれた処方の頓服なので、効くだろうと信じていたが、趙雲の船酔いは頑固らしい。
趙雲は青い顔のまま、力なく笑った。
「来た時よりは、まだ気分がいい」
「そうか? ならばいいが」
「おれはとことん、北の人間だなと思ったよ。やはり、地に足がついていないと落ち着かない」
そして「船は苦手だ」とこぼした。
孔明らの乗る船と並走して、周瑜や魯粛の乗り込んでいる大きな楼船《ろうせん》のほか、精鋭を乗せた闘船《とうせん》、そして屋根付きの覆いのあるのが特徴の蒙衝《もうしょう》などが河を走る。
あの船のなかに、胡済が紛れていないないだろうかと、孔明はつい考えてしまう。
そろそろ樊口に到着するので、劉備と周瑜の対面がうまくいくかのほうにこころを配らねばならないのだが……
「偉度(胡済)がどこかに潜り込んでいるといいな」
と、趙雲は青い顔のまま言う。
「これは勘だが、あいつはもう柴桑にはいない気がする」
「気配を感じるとか?」
「そうではない。おれなりに考えたのだが、あいつを動かせる人間が、劉公子とお前のほかにいるだろうか。
いるとしたら、それは壺中《こちゅう》とかかわりのある人間ではないのかな」
孔明は趙雲の明察に、眉をあげておどろいた。
「なるほど、そうか、そうかもしれない。
偉度を呼び出した手口が慣れていたのも、そのためか」
「だが、何のために呼び出され、そしてあいつが付いていったのかはわからん。
昔の仲間のために動いたという可能性もあるわけだが……だとすると、それは蔡瑁《さいぼう》の手の者かもな」
ぎょっとして、孔明はまじまじと趙雲の横顔を見た。
趙雲はこれ以上酔わないようにするためか、地平の彼方をじっと睨むようにしている。
「蔡瑁の手の者ということは、つまり曹操の?」
「そういう可能性もある、ということだ。
だが、もうひとつの可能性も考えておけ」
「もうひとつ?」
たずねると、趙雲は、ちらりと目線を寄越し、言いづらそうにした。
それだけで、聡《さと》い孔明にはわかってしまった。
「あの子が消された可能性か」
「客館の庭の地面をたしかめたが、格闘した形跡はなかった。
引きずられた跡もなかったから、偉度は自分の足で客館を出たのだろう。
そのあとのことは想像するしかない。
蔡瑁の手の者に呼び出されたのだとすると」
「覚悟する必要があるというわけか」
胡済がどこでどうしているのか、生きているのか死んでいるのか。
その先を考えるのは、さすがの孔明も恐ろしくてすることができなかった。
やがて川べりをすみかにする水鳥の姿が多くみられるようになってきた。
目的地である樊口に到着したのだった。
つづく
※ いつも閲覧してくださっているみなさま、どうもありがとうございます(^^♪
ブログ村及びブログランキングに投票してくださっている方も、ありがたいです、とっても励みになっております!!
これからもがんばります!(^^)!
昨日に更新した近況報告通りの状況でして……
日曜日に更新日を追加しようかと検討し始めています。
おかげさまで、「なろう」と違って、このブログは通常どおりです。
それもこれも、通ってきてくれているみなさまのおかげ!
あまり右往左往せず、しかし注意を払いながらやっていきますv
更新日を追加することにしたら、また近況報告でお知らせしますね。
ではでは、次回をおたのしみにー(*^▽^*)