はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

風の終わる場所 38 静かなる湖のほとり・Ⅱ 2

2021年06月30日 10時01分21秒 | 風の終わる場所


趙雲が成都を出る準備をして、実際に、南西の僻地へ向かう数日のあいだ、孔明は、李巌たちを向こうにまわし、すこしでも陰謀を追及しようと懸命になっていた。
しかし、趙雲が、位返上を申し出て、成都を去ったことを知るや、これを守るために、孔明は、陰謀を追及することをあきらめて、その代わり、李巌らも、趙雲の罪をあえて問わないとする取引をしたことは、趙雲は知らなかった。





それと知っていて、この地を選んだわけでもないのに、湖には、龍が住むという伝説がある、と聞いたとき、趙雲は、おのれの名・雲(古来、中国では、雲は龍の化身であるとされていた)が呼ぶのか、龍という物に、縁がありつづけるな、とおもった。
前にも何度か足を運んだことがあり、湖の清澄な美しさと、周囲の静けさが気に入って、もしも天下が安定して、隠居できるようになったらば、ここに住むのがよいとおもっていた。
まさか、こんなに早く、その時期が来るとはおもっていなかったが。

あきれるほどに、自分に、欲がなかったことに気づく。
主公は、おまえは生真面目すぎる、といったが、当たっているだろう。
地位や俸禄はどうでもいい。
おのれの身を名誉と恩賞の数々で飾るより、たったひとつのことに集中できれば、それでよかった。
無位無官になったということは、つまりは主公と別れた、ということ。
つまりは、またも、おまえを選んだことになるのかなと、趙雲は、すでに遠く離れた者に問いかけた。
ずっと胸に隠してきたものが、知られてしまったのであれば、どうして成都に留まれよう。
もちろん、いちばん奥に秘めているものは、だれもまだ気づいていないだろう。
なにせ、本人すら、こうなって、ようやく気づいたくらいなのだから。
せめてもの救いは、当の相手が、それに気づかなかったことだ。
もし知られてしまったなら、それこそ生きて行くのは難しい。
主公の言葉は、限りなく正しい。
このままでは、俺は、おまえを滅ぼす。
だれより味方でなければならなかったのに、最悪の害毒になってしまっていたのだ。
どうしてこうなってしまったのか、いつからそうなっていたのか。

趙雲は、過去に遡ってかんがえるのであるが、女に関しても男に関しても、すべてひっくるめて、現在の兆候を示すようなおもい出が見当たらない。
唐突に、孔明に始まり、そして孔明に終わっているのである。

あれが例外だったのか。
それとも、自分が生真面目すぎて、ほかにはもう、気持ちが向かなくなっているだけなのか。
どちらにしろ、離れてさえしまえば、害もおよぶまい。
あれの側には偉度もいることだし、おそらくは大丈夫だ。

無理に自分を納得させながら、それでも、これから先の死ぬまでのあいだ、おそらくこんな僻地にいても、風の噂を懸命においかけて、その名を求めるようになるのだろうなと、趙雲は、暗然としておもった。
たった一人になり、もう趙雲は、おのれの心を裏切ることはしなかった。
なにもかも、忘れるために狩猟に熱中し、数日を過ごした。
なんとかなるだろうかと、おぼろげにおもい始めていたころに、孔明がやってきた。





神秘的な湖のほとりにおいて、風に、結っていない黒髪をなびかせ、となりに立っている孔明は、ますます性の境の曖昧な存在に見えた。
美女のよう、と形容するには、線が固かったし、美男、というには、しなやかな印象が強すぎる。
どちらにも取れ、どちらにも取れない、それでいて、ふしぎと人を惹き付けるその姿をひさしぶりに間近で見て、自分が、そもそもなぜ、こうも強烈に心をかたむけつづけていたのか、その理由をおもい出した。
欲とは程遠いところに生きているために、孔明の外貌に性が現れないのである。
外貌の美しさだけに惹かれたのではない。
もしそうであれば、世の、どんなそしりをも免れまい。
そうではなく、惹かれたのは、その肉体の中に眠る、ひたすら光輝に満ちた精神に、であった。
美しい玉石の輝きに魅せられたように、あるいは、天空にまたたく星を飽きずに見入るように、その心から汲みだされる言葉、行動、仕草、そのほか、さまざまなすべてに惹かれたのだ。
どんなに最悪の状況にあろうと、絶望しようと、この光さえあれば、恐ろしいものなどなにもなかった。
闇のなかにわずかにともる、その光のうつくしさは、それまで、目を開いていても見えず、耳が聞こえていても聞かない、という状態であった自分に、この世のほんとうのすばらしさを教えてくれたのだった。
つまりは、孔明が趙雲に、おのれという人間の形を教えてくれたのであり、おのれを取り巻く世界の形を教えてくれたのだ。
おのれを導くものを愛するのは、これは当然のことではないか。
たしかに、道義からすれば、間違った心の在り様かもしれない。
それでも、内に恥と恐れを抱えつつ、これから先を生きるのだ。

「すべて知っていた」
と、孔明はいったが、あえて趙雲は、心のなかで、大きく否定してみせる。
すべては知らないし、知らせるつもりもない。
完全に心を受け止められないにしても、命をくれるという、それだけで十分であった。
救われないだろうかと孔明は嘆くが、救われなかろうと、これでよいとおもう。
たった一人、無明の闇の中を歩いていた人生にもどるよりは、どんなに苦労しようと、蔑みの中にいようと、共に生きていけることのほうが、どれだけ幸福なことか。
「おまえは贅沢だ」
と、趙雲が言うと、孔明は首をかしげて、そうだろうか、と言った。

だれより、ただ生きていてくれるだけで嬉しいとおもう気持ちもほんとうだが、もちろん、焼け付くような感情だって、ないわけではない。
だが、これは、たとえ死んでも、悟らせない。
ただ願うことといえば、相手が、自分と同じような幸福を味わうよりは、むしろ悲しみを共有してくれればいい、ということである。


静かなる湖のほとり 了
次回、最終回!「やかましい左将軍府のあたり」、おたのしみに。

(サイト・旧はさみの世界(現・牧知花のホームページ) 初掲載 2005/10/15)


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。