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帯とけの枕草子〔十二〕みねは
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
枕草子〔十二〕みねは
みねは、ゆづるはのみね。あみだのみね。いやたかのみね。
文の清げな姿
峰は、譲る葉の峰。阿弥陀の峰。いやたかの峰。
文の心におかしきところ
山ばの頂は、弓弦破の絶頂。限りなき頂上。いやあ高い峯。
み音は、弓弦破のお声。限りなきお声。ますます高いお声。
身根は、弓弦張の身根、無量寿の身根、いやあ貴い身根。
言の戯れを知り、紀貫之のいう「言の心」を心得ましょう
「みね…峰…山ばの頂…絶頂…感の極み…御音…その時のお声…身根…おとこ」「ゆづるは…譲る葉…弓弦破…弓の弦の破断…弓弦張…張りつめたものの極み」「あみだ…阿弥陀…無量光…はかり知れない光明…無量寿…限りないおいのち」「いや…いよいよますます…感嘆詞」「たか…高い…大きい…立派…貴い」。
同じ一つの言葉でも、受け手により意味が異なるもの、それが、われわれの言葉。
一つの文でも、聞き耳によりいろいろな意味に聞こえる。そのように作られてある。
「みね」という言葉を一義に「峰」と決め付けてしまっては、この文は「清げな姿」だけとなって、味気ないでしょう。当時のおとなの女たちには、たちまちわかった「心におかしきところ」は、今では永遠に埋れ木となっている。
詩歌の達人藤原公任は、和歌について「心深く、姿清げに、心にをかしきところあるを、優れたりといふべし」(新撰髄脳)と述べた。枕草子は和歌と同じ文脈にある。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人しらず (2015・8月、改訂しました)