帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔十二〕みねは

2011-03-03 06:06:42 | 古典

 

                     帯とけの枕草子
〔十二〕みねは
 


 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。


 枕草子〔十二〕みねは 

 みねは、ゆづるはのみね。あみだのみね。いやたかのみね。

 文の清げな姿
 峰は、譲る葉の峰。阿弥陀の峰。いやたかの峰。

 文の心におかしきところ
 山ばの頂は、弓弦破の絶頂。限りなき頂上。いやあ高い峯。
 み音は、弓弦破のお声。限りなきお声。ますます高いお声。
 身根は、弓弦張の身根、無量寿の身根、いやあ貴い身根。

 言の戯れを知り、紀貫之のいう「言の心」を心得ましょう
 「みね…峰…山ばの頂…絶頂…感の極み…御音…その時のお声…身根…おとこ」「ゆづるは…譲る葉…弓弦破…弓の弦の破断…弓弦張…張りつめたものの極み」「あみだ…阿弥陀…無量光…はかり知れない光明…無量寿…限りないおいのち」「いや…いよいよますます…感嘆詞」「たか…高い…大きい…立派…貴い」。


 同じ一つの言葉でも、受け手により意味が異なるもの、それが、われわれの言葉。

 一つの文でも、聞き耳によりいろいろな意味に聞こえる。そのように作られてある。

 「みね」という言葉を一義に「峰」と決め付けてしまっては、この文は「清げな姿」だけとなって、味気ないでしょう。当時のおとなの女たちには、たちまちわかった「心におかしきところ」は、今では永遠に埋れ木となっている。

 詩歌の達人藤原公任は、和歌について「心深く、姿清げに、心にをかしきところあるを、優れたりといふべし」(新撰髄脳)と述べた。枕草子は和歌と同じ文脈にある。


  伝授 清原のおうな
 
 
聞書  かき人しらず  (2015・8月、改訂しました)