帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔三十二〕小白河 その一

2011-03-28 00:21:40 | 古典

 



                                     帯とけの枕草子〔三十二〕小白河 その一



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言 枕草子〔三十二〕小白河 その一


 小白河という所は、小一条の大将殿(藤原済時)の御家である。そこにて、上達部(大臣、大・中納言・参議ら)結縁の八講をされた。世間の人は「たいそうすばらしいことで、遅く来る車などは駐車しょうにもできない」というので、朝露と共に起きて行っても、ほんとうに隙間もなかった。ながえ(轅)の上にまた重ねるようにして停め、前から三台ばかりまでは少し講師の声も聞こえるようだ。

 
 六月(旧暦)半ばのことで、暑いこと近来ないほどである。池の蓮を見ているかぎりは、とっても涼しい心地がする。左右の大臣たちは別にして、いらっしゃらない上達部はいない。二藍の指貫、直衣にあさぎ色の帷子などを透かしていらっしゃる。すこし年配の方は、青鈍の指貫、白い袴もとっても涼しそうである。佐理の宰相(参義・公任と従兄弟
)らも、みな若やいだいでたちで、すべて貴いことかぎりなく、すばらしい見ものである。


  廂の間の簾を高く上げて、長押の上に、上達部は奥に向き長々と座っていらっしゃる。その次には殿上人、若君達。狩装束、直衣などもすばらしくて、座にじっとして居れず、あちこちと立ち動いている様子も、とっても風情がある。実方(済時の甥で養子)の兵衛の佐、長明(済時の子)の侍従などは家の子で、いま少し立居は慣れている。まだ童子の君など、とってもかわいくていらっしゃる。

 
 
すこし日が高くなったころに、三位の中将とは今の関白殿(道隆)と申される方、薄物の二藍の御直衣、二藍の織物の指貫、濃い蘇枋の下の袴に、張りをした白い単のたいそう鮮やかなのをお召しになって歩み入られる。あれほど軽装で涼しそうな中にあって、暑そうなはずなのに、とってもすばらしとお見えになる。朴や塗骨など、骨は変わっても、ただ赤い紙をみなが張って、扇をお使いになっておられるのは、撫子がいっぱい咲いたのによく似ている。まだ講師が高座に上らない間、お膳をだして、何であろう食べ物をさしあげているようである。

 
 
義懐の中納言の御様子は、いつもよりもまして、このうえない。みな色合いがはなばなしく、とっても艶やかで美しいので、何れがともいえない帷子(内着)を、この方はすべて内に入れ(いだし衣せず・透かさず)ただ直衣ひとつを着ているようで、常に車の方に注目して話しかけていらっしゃる。すばらしいと見ない人はなかったでしょう。


 後で来た、車(しゃ…者)が隙間もなかったので、いけ(池…逝け)に引き寄せてとまっているのを、ご覧になって、実方の君に、「消息をつきづきしういひつべからんものひとり(情況を適当に言えるような者をひとり・つれてこい)」と言われると、如何なる人であろう選んでつれてこられた。あの女車に・何と言ってやればよいであろうかと、近くにいらっしゃる方々だけで話し合われて、言い贈る言葉は聞こえない。たいそうに用意して、使者が車のもとに歩み寄るのを、かつ笑ひ給(すぐ続いて笑っていらっしゃる)。  

 使者は・車の後ろの方に寄って言っているようである。久しく立っているので、「返事に・歌でも詠んでいるのだろう。兵衛の佐(実方)、返しを考えておけよ」、などわらひて(などと言って笑って)、いつ返事が聞けるかと、居合わす大人、上達部まで、皆そちらの方を見ておられる。実に、けせうの人(顕証の人…情況の明らかな部分を観ている人)までじっと見遣っていたのもおかしかったことよ。

 
 返事を聞いたのか、使者がすこし歩いて来る間に、車の女は・あふぎ(扇…逢う気)を差し出して呼び返すので、歌などの文字を間違えたので、あのように呼び返すのだろう。久しく時が経つ間、自ずからそうなったことは直すべきでもないものをと思える。

 
 使者が・近くに帰り着くのもじれったく、「いかにいかに(どうだ、どうだった)」と、だれもが問うておられるが言わず、権中納言が言い出されたことなので、そこに参り、けしきばみ(感情を顔色に出して)申している。三位の中将(若き道隆)「とくいへあまり有心すぎてしそこなふな(早く言え、余り情が有り過ぎて、しそこなうなよ)」とおっしゃると、使者「これも(返事も…使者の務めも)、たゞおなじことになん侍(まったくおっしゃる通りです…情が有り過ぎしそこないました)」と言うのは聞こえる。藤大納言(藤原為光、老上達部)が人よりよけいにさしのぞいて、「いかがいひたるぞ(女は・何と言ったのだ)」とおっしゃったようで、三位の中将「『いとなほき木をなん、おしをりためる』(たいそう直な木をですね、おし折ったようよ……とっても直立したものをですね、圧し折ったようね)」だったとお聞かせになられると、うちわらひ給へばみな何となくさとわらふ声(笑いだされるので、みな何となくそうかと笑う声、女に)聞こえるだろうか。中納言「それで、呼び返さなかった前は何と言ったのだ。これは直した言葉か」と問われると、使者「久しく立っていましたが、返事も何もございませんので、『それでは帰ります』と帰りましたところ、呼び止めて(それだったのです)」などと申している。

 「誰の車だろう、見知っておられるか? 」などと不審がられて、「さあ、歌を詠んで、今度は遣ろう」などとおっしっている間に、講師が高座に上ったのでみな静まって、そちらの方を見ているうちに、車はかき消すようにいなくなっていた。車の下簾などは、ほんの今日初めて付けたように見えて、(女の装束は)濃いひとえがさねに、二藍の織物、蘇枋の薄物の表着など、車の後ろに摺染めの裳をずうっと広げたまま打ち掛けたりして、なに人だろう。どうしてべつに悪いことがあろうか、半端な歌など返すよりは、なるほどと聞こえて、中々いとよし(なかなか良い)と思える。



 言の戯れを知り、紀貫之のいう「言の心」を心得ましょう。そうすれば笑いがわかる。

「車…者…もの…おとこ」「池…逝け…ものの果て」「八講…名は戯れる。八交、八覯、八媾」「八…多」「扇…逢う気…合う木…おとこ」「木…こ…ぼく…おとこ」「おしをる…圧し折る…男肢折る」。



 八講の席で座興に男たちが笑っている。池のそばに停まった女車に何か言い掛けるために、使者が近寄って行くだけで笑い、若者に歌の返しを用意しておけよと言っては笑い、女の返事を聞いて藤大納言が笑い、周囲の人々も笑った。この笑いがわかれば、枕草子の良き読者といえるでしょう。


 使者の言い掛けの言葉は「お暑うございますね、八こう(媾)で車(もの)を池(逝け)に止められた心地は如何でしょうか」と推測できるでしょう。車の女は、使者を「おとこ」に仕立てて久しく立たせておいて、離れると呼び返し、果てには「おし折ったようね」と解放して、それを返事とした。使者はしてやられ「しそこなった」ので「気色ばんでいた」。女の「返し」は歌ではなかったが「有心」さは期待も予測も超えているでしょう。


 説教など頻繁に聴きまわっていた頃のこと。この車の女は、のちの清少納言。このように、自分を他人ごとのようにして語るのは、和歌、伊勢物語、土佐日記などの常套手段で珍しいわざではない。


 この事は、道隆の注目するところとなったようで、宮仕えするきっかけとなった。道隆が「彼女は古い馴染みよ」というのはこのときのこと。


 寛和二年(西暦九八六)六月中旬の法会。花山天皇の御時、中納言義懐は摂政藤原伊尹(兼家の兄)の子で、政を行っていたが、兼家・道隆親子にその政権を奪われる前夜ともいえる頃。このとき義懐は政権の座から去る覚悟はできていたと思われる。はたして、叔父らに政権を奪われた義懐は、六月二十日すぎに花山院の後を追って出家した。兼家は右大臣から摂政・氏長者に、道隆はこの七月中に三位の中将から権中納言を経て、たちまちにして権大納言正二位となった。



 伝授 清原のおうな

聞書  かき人しらず    (2015・8月、改定しました)



  枕草子の原文は、新 日本古典文学大系 岩波書店 枕草子による