帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔二十二〕すさましき物

2011-03-16 06:04:55 | 古典

 



                   帯とけの枕草子〔二十二〕すさましき物



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。
「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。

 


 枕草子〔二十二〕すさましき物

 

 すさまじき物(不快だがどうしょうも無いもの)、昼吠える犬。春の網代(氷魚の仕掛け網)。三四月の紅梅の衣(初夏に早春の色の衣)。牛の死んだ牛飼人。乳児亡くなった産屋。火を起こさない火鉢、いろり。博士が続いて女児生ませている。方違えに行ったのに接待しない所、まして節分など何もしない所は、いとすさまじ(まったくいやな感じでもどうしょうもない)。


 地方の国より寄越した手紙に土産物が付いてない。京からの文もそう思うだろうだけど、それは知りたい事などを書き集めてある世の出来事などを聞ければ良いでしょう。


 人のもとにわざわざ清げに書いてやった文の返事を、今に持って来るだろう、いやに遅いと待つほどに、あのようであった文を、立て文にせよ結び文でも、ひどくきたなげに取り扱って、ぼさぼさにして上に引いた封印の墨のあとなど消えて、「いらっしゃいませなんだ」もしくは「御もの忌みなのでお受け取りになりません」と言って持ち帰った。いと侘しくすさまじ(とってもわびしくいやな感じでもどうしょうもない)。
 また、必ず来るべき人のもとに牛車を迎えにやって待っていると、来る音がするので、そうだろうと人々が出て見ると、車宿(車庫)にまたも引き入れて、ながえを「おう」とうち下ろすので「なんなのよ」と問えば、「今日は他へいらっしやいますといって、こちらへは来られません」と言って、牛飼が牛だけ引き出して去る。
 また、身内の婿君が来なくなってしまった。いとすさまじ(ほんとにいやな感じでもどうすることもできない)。


 そうするべき人を宮仕えするもとに紹介してやって、恥ずかしがっているのは、まったく気にいらない。


 乳児の乳母が、ただちっとだけと言って出かけた間、ともかく乳児をなぐさめて、「とくこ(すぐ来るよ…はよ来いよ)」と言ってやっていると、「今宵は参れないでしょう」という返事をよこしたのは、いやな感じだけではなく、ひどく憎らしく困ってしまう。女を迎える男(乳母を迎える夫)は、ましてどうなんだろう(憎くはない返したくないよね)。


 待っている人があるときに、夜が少し更けて忍びやかに門をたたくので胸どきどきして、人を出迎えさせて問わせると、用もない者の名など名のって来たのを、繰り返しがっかりでいやな感じと言うのは愚かである(勝手に期待しただけだから)。

 
 験者が物の怪を調ずるということで、たいそう得意顔に、とこ(仏具)や数珠を憑き人に持たせて、蝉のような声しぼりだして唱えているが、いささかもものの怪去る気配もなく、護法善神も憑かないので、集まって念じているが、見ている男も女も変だと思っているとき、時の変わるまで唱え疲れて果てて、「まったく(神が)つかない。立ちなさい」といって、数珠を取り返して、「ああ、まったく霊験なしや」と言い放って、額より上の方へ手をなで上げ、あくびを自らして伏してしまった。ひどく眠たいのだと思っていると、まったくそうとは思わない人が、押し揺さぶって、近くでもの言うのは、いみじうすさまじけれ(ひどく感じがわるくてどうしょうもないことよ)。


 除目(官職任免の日)に司を得なかった人の家。今年は必ずと聞いて、前に仕えていた者たち、他の家々に居たり田舎じみた所に住む者たちなど皆集まって、出入りする車のながえ(轅)も隙間なく見え、願立て、もの詣でするお供に我も我もと仕えて行き、もの食い、酒飲み騒ぎあっているが、夜も果てる暁まで門たたく音もせず、変だなあと耳立てて聞けば、遠くでさきばらいの声々がして上達部(任命役)などはみな退出された。様子を聞きに行った宵より寒くて震えていた下男が、たいそうもの憂く歩いて来るので、見る者たちは問うこともできない。他より来た者などが「おたくの殿は何になられましたか」などと問うので、応えには「なにのぜんじにこそは(なに、あの前の司にですね、なられました)」などと必ず応える。ほんとうに期待していた者は、たいそう嘆かわしいと思える。明くる朝になって、隙間なく居た者ども、一人二人とすべるように出て去る。古い者たちの、そうは去り行けないのは、来年交替ある国々を指折り数えたりして、身を揺るがしてうろうろしているのも、とってもおかしくいやな感じである。


 わりとよく詠めたと思える歌を、人のもとへやったのに返しをしない。恋人ならどうなるの、それさえ、おりをかしうなどある返事せぬは心おとりす(折節の風情のある返事しないとがっかりする……折節に艶のある返事をしないと男は幻滅する)。
 また、さわがしく今盛り上がっているところに、ちと古めかしい人が、おのれはすることもなく暇の多い常々なので、昔ちやほやされても、いまは何でもない歌を詠んでよこしている。

 
 何か行事のおりの扇を、すばらしいものをと思って、その心得あると知っている人に描いてと、渡したのに、その日になって意外な絵など描いてあるのを受け取っている。

 
 うぶやしなひ(出産祝い)、むまのはなむけ(餞別)などの使いの者に褒美をあげない。何ということもない薬玉・卯槌を持ってまわる者などにも、やはり必ず褒美はあげるべきである。思いがけないことで得たのを、たいそうやりがいがあったと思うだろう。これは必ず大切であるはずのお使いだと思い、心がときめいて行ったときには褒美なしでは、とくにがっかりしていやなものなのだ。

 
 婿取って四、五年までも産屋の騒がない所も、いとすさまじ(まったく寒々としていてどうしょうもない)。


 大人となった子ども数多くいて、もしかすると孫たちも這いまわるであろう人の親どうし昼寝(共寝)している。傍らに居る子どもの心地にも、親が昼寝している間は寄っている所がなくて、いとすさまじ(まったくどうしょうもなく感じが悪い)。


 大晦日の夜、共寝の親、寝起きに浴びる湯の音も腹立たしいとさえ思える。
 
 しはすのつもごりのながあめ(年の暮れの長雨…年齢の暮れの止まないおとこの淫雨)、一日ばかりのさうじんけさい(一日ばかりの精進潔斎…あと一日ばかりの不浄な行い慎む日)とかいうだろうに。


  「ながあめ…ながめ…長雨…淫雨」「雨…おとこ雨」。


 伝授 清原のおうな

聞書  かき人しらず   (2015・8月、改訂しました)

 枕草子の原文は、新 日本古典文学大系 岩波書店