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帯とけの枕草子〔二十一〕おいさき
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
枕草子〔二十一〕おいさき
おいさきなく、まめやかに、ゑせざいはいなど見てゐたらむ人は、いぶせくあなづらはしく思ひやられて、なを、さりぬべからむ人のむすめなどは、さしまじらはせ、世のありさまもみせならはさまほしう、内侍のすけなどにて、しばしもあらせばやとこそおぼゆれ。
(成長する先なく、真面目に偽の幸せなどゆめ見ている人は、感じが悪く侮りたく思えて、やはり、そうではない人の娘などは、交じりあわせて世のありさまも、見習いさせてやりたく、内侍司の典侍などにて、しばしの間でも居させてやりたいなと思える……感極まる先なく、偽の幸いを見る女は、うっとうしくあな擦られているように思えて、なお、そうなったであろう人のむすめなどは、さし交わらせ、女と男の仲も見習わしてやりたく、内侍司の女官などにて、少しの間でも居させてやりたいなあと思える)。
宮仕えする人を軽薄で悪いことのように言い、そう思っている男は、ほんとに憎らしいことよ。たしかに、それもまたそういうことはある。宮仕えして、かけまくもかしこき御前をはじめ奉りて、上達部、殿上人、五位・四位はいうまでもなく、宮人たちに、見ぬ人(お目にかからない人…情けを交わさない女)は少ないでしょう。女房の従者、その里より来る者。おさめ、御厠人の従者、たびしかわら者というまで、いつまでそれを恥じ、世に隠れているのだ。男たちは、まったくそのようではないでしょうか。それも、あるかぎり(みなが皆…生きているかぎり)は、そうなのでしょう。
「上」などといって、娘を大切に育て据え置いていたところで、心にくからず(何でも心に通じているだろう…羨ましくも何んとも無い)と思えるでしょう、道理だけれど、そのうえに内裏の内侍のすけなどといって、折々に内裏へ参って「祭の使」などに出ていれば、身の光栄と思わないでしょうか。そうして後に里に籠もっていたらまして愛でたい。受領が五節の舞姫を出すおりなど、ひどく田舎じみた知らないことなどを他人に問い聞きなどしないものだ。心にくきことなり(これこそ・奥ゆかしいことである)。
言の戯れを知り言の心を心得て読みましょう。
「おいさき…生い先…老い先…年齢の極まり先…追い先…感極まり先」「まめやか…まじめなようす…感嘆することの無いようす」「ゑせざいはい…偽の幸い…女と背の君の幸い」「ゑ…江…女」「せ…背…男」「見る…思う…想像する…まぐあう」「いぶせく…うっとうしく…不愉快で」「あなづらわしはしく…軽蔑したくなる…穴づらはし…穴辛らはし」「さりぬ…そうではない…そうなった」「ぬ…ず…打消し…ぬ…完了を表す」「世…男女の仲…夜」「見ぬ…お目にかからない…情を交わさない…めをあわさない」「心にくからず…奥ゆかしくはない…妬ましいほど憎くは無い」「心にくし…憎らしいほど立派…心得深く奥ゆかしい」。
お姫様のままで成長することなく一生を終わるのは偽の幸せ。
宣躍殿の女御のように、文字を習い琴が上手に弾けて、古今集の和歌をすべて暗記するほどに歌に付いて心得たならば、一千の他人の心情に接することができる。これらを心に入れて、宮仕えして、世の中と男女の仲を見習えば、ほかにいうことなく愛でたいでしょう。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人しらず (2015・8月、改訂しました)
枕草子の原文は、 新 日本古典文学大系 岩波書店 枕草子による