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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
古典和歌は中世に秘事・秘伝となって埋もれ、今の人々は、その奥義を見失ったままである。国文学的解釈方法は平安時代の歌論と言語観を全く無視したものである。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の、歌論と言語観に従って紐解き直している。公任の言う歌の「心におかしきところ」は、エロス(生の本能・性愛)であり、これこそが和歌の奥義である。
古今和歌集 巻第三 夏歌 (141)
(題しらず) (よみ人しらず)
けさ来鳴きいまだ旅なる郭公 花たちばなに宿はからなむ
(詠み人知らず・男の歌として聞く)
(今朝、来て鳴いて、未だ旅の途である、ほととぎすよ、わが家の・花橘に宿は借りて欲しい……今朝、山ば・来て泣いて、未だ度々成る、ほと伽す女・且つ乞うおんな、我が・はな立ち端のために、や門は、離れて欲しい・涸れるよ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「今朝…夏の夜明けは早い・共寝の山ばが朝訪れたらしい・好きことである」「鳴き…泣き」「いまだ…未だ…井間だ」「たびなる…旅なる…度成る…度々成る」「郭公…ほととぎす…鳥の言の心は女…名は戯れる」「花たちばな…木の花…男花…男端…おとこ」「に…場所を表す…のために」「宿…泊まる処…やと…家門…屋門…おんな」「からなむ…借りて欲しい…離れて欲しい…涸れるよ」「から…かる…借る…離る…涸る」「なむ…自己の願望を表す…穏やかに断定する意を表す」。
ほととぎすよ、旅の途中でしょうが、庭の橘の木に宿って声を聞かせて欲しい、優雅な人の心。――歌の清げな姿。
今朝も、山ば来ては泣き、いまも度重ねる且つ乞うおんな、我が身の立ち端の為に、や門は、離れて欲しい・涸れるよ。――心におかしきところ。
女性とは性の格が違う、おとこのさがは、はかなく尽き易い、朝までよくぞ頑張ったが、涸れ尽きるよ・離れて欲しいは、おとこの悲鳴である。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)