帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (143) ほととぎす初声きけばあぢきなく

2017-02-06 19:18:19 | 古典

             

 

                         帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌は中世に秘事・秘伝となって埋もれ、今の人々は、その奥義を見失ったままである。国文学的解釈方法は平安時代の歌論と言語観を全て無視して新たに構築された砂上の楼閣である。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の、歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち、俊成がいう「煩悩」が顕れる。いわばエロス(生の本能・性愛)であり、これこそが、和歌の奥義である。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 143
 
      
郭公の初めて鳴きけるを聞きて        素性
  
ほととぎすはつ声きけばあぢきなく 主さだまらぬ恋せらるはた
       
ほととぎすが初めて鳴いたのを聞いて……ほと伽す女の発した泣き声を聞いて、 素性
 
ほととぎすの、初声・ピーピピョという声、聞けば、どうしょうもない思いがする、餌を乞うのか、母鳥恋うのか・定められない、やはりまた・鳴いている……ほと伽す女、発つ声・カツコー且つ乞う声、聞けば、にがにがしい思いがする、人定まらぬ、恋いしている、やはりまた) 

 
 
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
 「ほ
ととぎす…鳥の名…鳥の言の心は女…昔は、カッコウもホトトギスも「ほととぎす」と呼んでいたようである。ピーピピョと鳴き姿形は同じで一回り小さい(図鑑によれば尻尾の模様だけが違う)のがホトトギスで、カッコウの幼鳥、成長してカッコーと鳴くと思われていたようである。同じころ飛来する渡り鳥なので同じ鳥と見為されても不思議ではない」「はつ声…初声…ピーピピョ…発つ声…カッコーカッコー…且つ恋う…君が恋しいなおもまた恋しい…且つ乞う…貴身が欲しいすぐさま欲しい」「あぢきなく…どうしょうもない感じ…うんざりする…苦々しい」「ぬしさだまらぬ…主定まらぬ…何を乞うのか母鳥か餌か(ピーピピョと鳴くだけで)何が欲しいか定まらない…恋人か誰が恋しいのか何を乞うのか言わないので定まらない」「はた…それでもやはり…その上また」。


 
小鳥が鳴いても幼児が泣いても、法師であろうが男にはどうしょうもない思いを表出した。――歌の清げな姿。
 
夏の昼間、遊び女が森の中で且つ乞うと泣く声を聞いたのだろう、法師の苦々しい思い。――心におかしきところ。

 
五月ごろ、「郭公の声尋ねに行かばや」と言って、清少納言らが、わざわざ賀茂の奥まで聞きに行き、喜々として聞いたのも「カツコー・且つ恋う・且つ乞う」の声にちがいない。

 
国文学的解釈では、「郭公」と表記してなぜ「ほととぎす」なのかは全く触れない。まして、「ほととぎす」がカッコーと鳴いて、その声が「且つ恋う・且つ媾・且つ乞う」などと戯れているとは、夢にも思わず。郭公の歌を解釈してきたのである。
 
清少納言の言語観、男の言葉も女の言葉も、われわれの言葉は「聞き耳異なるもの」受け手により意味が異なる。この高度な言語観を曲解して、性別や職域によってイントネーションが異なるなどと読み取る。また、俊成が明確に「歌の言葉は浮言綺語の戯れに似ている」と書いても無視して来たのである。

 
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)