帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (153)五月雨に物思をれば郭公

2017-02-17 19:13:06 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌は中世に秘事・秘伝となって埋もれ、江戸時代以来、我々は奥義を見失ったままである。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の、歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)であり、これこそが、和歌の奥義である。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 153

 

寛平御時后宮歌合の歌        紀友則

五月雨に物思をれば郭公 よふかくなきていづちゆくらむ


 (さみだれにもの思い居れば、ほととぎす、夜深く鳴きて、どこへ行くのだろうか……さ乱れの、おとこ雨に、もの思い折れば、且つ乞う妻よ、夜深く泣きて、どこへ逝くのだろうか)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「五月雨…さみだれ…雨の言の心は男…夏の雨・梅雨…歌言葉は戯れる。さ乱れ、さ淫れ、おとこ雨」「に…時に…のために…『に』は多様な意味を孕んでいる」「をれば…居れば…折れば…挫折すれば…夭折すれば」「郭公…鳥…言の心は女、その原因理由を探るのは、言葉の本性を知らぬ愚か者である。鳥を女と心得て「古事記」など一読すれば、神世から鳥は女であると心得ることができる。それでいいのである」「なき…鳴き…泣き」「いづち…何方へ…何処へ」「ゆく…往く…行く…逝く(本来逝くべきところは有頂天・この世の快楽の極みである。未だ夜深き時に池・逝けに堕ちるから泣くのである)」「らむ…推量する意を表す」。

 

雨中独り居て、物思いに耽る人に聞こえるのは、夜深く鳴き去る郭公の声。――歌の清げな姿。

さ乱れて降るお雨のために、夭折したおとこ、且つ乞う妻の夜深く泣く声を、聞く男のありさま。――心におかしところ。

 

この歌合で、上の歌に合わされた左方の歌は、

草茂み下葉枯れゆく夏の日も わけとしわけば袖やひちなむ

(草が茂っているために、下の葉は枯れゆく夏の日でさえも、分け入ろうとして、草を分ければ、衣の袖濡れるでしょう……女の情は繁り、そのために、おとこの下端涸れ逝く夏の暑い日も、分け入ろうとして分ければ、わが身の端濡れているでしょうよ)


 「草…菜・草花などの言の心は女」「葉…端」「かれゆく…枯れ行く…涸れ逝く」「袖…そで…端」「ひづ…漬づ…泌つ」。

 

今の人々は、歌の「清げな姿」のみ見て、正に夏の風物を詠んだ歌として享受し、何の疑問も感じない文脈に至ってしまったようである。上のように、歌の「心におかしきところ」で、歌合せの「おかしさ」は成り立っている。うわのそら聞きに聞いていては、「をかしくも」「あはれ」とも感じることは出来ない。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)