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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
古典和歌は中世に秘事・秘伝となって埋もれ、今の人々は、その奥義を見失ったままである。国文学的解釈方法は平安時代の歌論と言語観を全て無視して新たに構築された砂上の楼閣のようなものである。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の、歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう「煩悩」が顕れる。いわばエロス(生の本能・性愛)であり、これこそが、和歌の奥義である。
古今和歌集 巻第三 夏歌 (148)
(題しらず) (よみ人しらず)
思ひいづるときはの山の郭公 からくれないのふりいでてぞなく
(思い出す、常磐の山のほととぎす、声涸れて・唐紅のもの振り出して鳴くことよ……思い火いづる、いつまでも変わらぬ山ばの且つ乞う女、唐紅の声・空暮れないの小枝、振り出して泣くのだ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「思ひいづる…思い出す…思い火出づる」「ときはのやま…常磐の山…常に変わらない山ば」「山…ものの山ば」「郭公…ほととぎす…鳥の言の心は女…ほと伽す女…且つ乞う女」「唐紅…真っ赤…鮮血の色…声は涸れ口から血を吐く郭公…真っ赤に燃える且つ乞う女の声…空のたそがれ小枝…空洞の影の薄いおとこ」「なく…鳴く…泣く」。
思い出す、常磐山の郭公、声振り絞ってカツコー・カッコーと、血を吐くほどいつまでも鳴いているぞ。――歌の清げな姿。
思い火のでる、いつまでも変わらぬ山ばの且つ乞う女、真っ赤な声振り絞って・空暮れないの小枝振り出して泣くのだ。――心におかしきところ。
紫式部ならば若い頃より(147)の伊勢物語の歌や、この(148)の古今集の歌を、「心におかしきところ」まで、間違いなく読み取っていたのである。異性体験の少ない唯の国守の娘に源氏物語が描けるのはそのためである。
この歌は、夏の雨の夜、若き男数人集って、女との体験を語り合う場面にありそうな情況である。どこの女なのだ、それからどうしたと、話は弾むだろう。帚木の巻のみならず、源氏物語は、伊勢物語と古今和歌集の歌とほぼ同じ文脈にある。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)