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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
古典和歌は中世に秘事・秘伝となって埋もれ、今の人々は、その奥義を見失ったままである。国文学的解釈方法は平安時代の歌論と言語観を全て無視して新たに構築された砂上の楼閣のようなものである。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の、歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう「煩悩」が顕れる。いわばエロス(生の本能・性愛)であり、これこそが、和歌の奥義である。
古今和歌集 巻第三 夏歌 (144)
奈良の磯神寺にて郭公の鳴くをよめる (素性)
いその神ふるき宮この郭公 こゑばかりこそ昔なりけれ
奈良の磯神寺にて郭公の鳴くのを詠んだと思われる・歌……寧楽の石上寺にて、ほと伽す女の泣くのを詠んだらしい・歌。 (素性)
(石上布留の古き都のほととぎす、その声だけは、昔のままだことよ……磯の神・石の上、古き宮この・若きころ感極まった処の、ほと伽す妻女、且つ乞うと泣く・声だけは、武樫なりけれ・強硬だったなあ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「いそのかみ…石上…遠い昔宮こがあった所」「石・磯・うえ・かみ…これらの言の心は女」「宮こ…都…極まった処…感極まった処」「郭公…ほととぎす…カッコーカッコーと鳴く鳥のこと…鳥の言の心は神世から女…(鳴き声も戯れて)且つ恋う・且つ乞う・且つ媾」「且つ…同時に…すぐさま…なおもなた」「声ばかり…声だけ…声に限定する意を表す…声の強さや内容の程…声の程度を表す」「昔…遠い過去…経験した過去…以前…武樫…強くかたい…強硬」「なり…断定」「けれ…けり…過去回想・気付き・詠嘆」。
いそのかみ古き都、ほととぎすの鳴く声だけは、昔のままだなあ。――歌の清げな姿。
石上古き都の郭公、且つ恋う・且つ乞う、泣き声の程は、相変わらず・強硬だことよ。――心におかしきところ。
万葉集の歌でも、「霍公鳥」と表記される「ほととぎす」は、カツコー・カツコーと鳴いていたようである。万葉集には、ほととぎすの歌は多いが、わかりやすい二首を撰んで聞いてみる。
巻第八 夏雑歌、大伴坂上郎女歌一首
霍公鳥いたくな鳴きそ独り居て いの寝られぬに聞けば苦しも
(ほととぎす、ひどく鳴かないで、独りで居て・あの人恋しく、寝ても眠れないのに、「且つ恋う・且つ乞う・且つ媾う」と鳴くのを、聞けば、苦しいのよ)
巻第八 夏相聞、大伴坂上郎女歌一首
いとま無み来まさぬ君に霍公鳥 われ斯く恋ふと往きて告げこそ
(忙しく暇がないのでと、来られない君に、ほととぎす、わたしはこのように恋しがっていると、「且つ恋う・且つ乞う・且つ媾う」と、行って告げてきてよ)
坂上郎女の心情は、説明不要、時空を超えて、今の人々の心にも、おかし味と共に、伝わるはずである。
和歌は、心におかしきところがあって、人を楽しませながら、心に思うことが、聞き手の心に伝えることができる。そのような表現様式のある文芸であった。
一つの言葉には多様な意味がある。その「字義」を知り、貫之の言う「言の心」を心得て、俊成の言う「浮言綺語のような戯れ」の意味を知れば、和歌には、公任のいう「心深く、姿清げに、心におかしきところ」の多重の意味が顕れる。清少納言のいう「聞き耳異なるもの(受け手によつて聞こえる意味は異なる)」という、厄介な言語の本性をも克服し、逆手にとって多重の意味を表現する高度な文芸を、われわれは、万葉集の時代から持っていたのである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)