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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
古典和歌は中世に秘事・秘伝となって埋もれ、江戸時代以来、我々は奥義を見失ったままである。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の、歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)であり、これこそが、和歌の奥義である。
古今和歌集 巻第三 夏歌 (151)
(題しらず) (よみ人しらず)
いまさらに山へかへるなほとゝぎす こゑのかぎりはわがやどになけ
(読み人知らず・男の歌として聞く)
(今さら、山へ帰るな、ほととぎす、声の続く限りは、我が家の・木の花の、宿で鳴け……井間、更に、山ばへ返るな、且つ乞う女よ、小枝の・その声の、続く限りは、わが花の木に、泣け)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「いま…今…井間…おんな」「さらに…その上に…かさねて…あらたに」「山…山ば」「かへるな…帰るな…返るな…繰り返すな」「な…打消しの意を表す…禁止の意を表す」「ほととぎす…鳥…言の心は女…鳥の名…名は戯れる、ほと伽す、且つ恋う、且つ乞う」「こゑ…声…鳥の声・女の声…小枝…おとこ(自嘲的表現)」「宿…郭公の宿は花の木…花橘、卯の花など…木の花の言の心は男」「なけ…鳴け…泣け…投げ…なげすて」。
飛ぶ鳥よ、今更、南の山に帰らず、我が庭の花の木でいつまでも鳴いてくれ。――歌の清げな姿
いまさらに、山ばへ返らないで、我が小枝の・貴女の且つ乞う声の、限りに、いま、身も心も投げ・棄ててくれ。――心におかしところ。
女性の本性にたいする男の悲鳴に似た本音である。数首前まで遡って、男の本音と女の本性を返り見ると、
○148 思いの火、吹き出るときは、常磐の山ばの、且つ乞う人よ、空のくれない色のもの、振り出してぞ、無げと嘆く。
○149 声は嗄れ、涙も涸れて、且つ乞うと嘆く人よ、尽き果てたわがおとこの情念の白い涙を、潤いのたしにしておくれ。
○150 悪しき山ばの、且つ乞う人よ、貴女が折り、這い臥し、のびたものを、垂れが、だれが増さるのよと、根おの身を、嘆く。
それぞれの歌は、カッコウ鳥の声が聞こえる夏の風情の「清げな姿」をしていた。それぞれの歌に、人の深い心が感じられるかもしれない。これが、この時代の「歌の様」(歌の表現様式)である。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)