帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (155)やどりせし花橘もかれなくに

2017-02-20 19:12:57 | 古典

            

 

                      帯とけの古今和歌集

              ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、歌には「清げな姿」の他に、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)である。

普通の言葉では言い出し難いことを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な歌の様(表現様式)をもっていたのである。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 155

 

(寛平御時后宮歌合の歌)        大江千里

やどりせし花橘もかれなくに などほとゝぎすこゑたえぬ覧

 

(宿りしていた花橘も枯れないのに どうして、ほととぎす、声絶えてしまったのだろう……やとに・宿っていた端立端も涸れていないのに、どうして、且つ乞う声が絶えてしまったのだろう・御覧)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「やどりせし…(郭公鳥が)宿りしていた…(や門に)宿りしていた(端立端)」「はなたちばな…花橘…木の花…言の心は男…端立端…おとこ」「かれなくに…枯れないのに…(愛情・情欲などが)涸れないのに…尽きないのに」「など…どうして…なぜ」「ほとゝぎす…カッコーと鳴く鳥…鳥の言の心は女…鳴き声などは戯れる。且つ恋う、且つ乞う」「たえぬ覧…絶えぬらむ…絶えてしまったのだろう」「らむ…推量の意を表す…覧…御覧あれ…見ろよ(おとこ誇り・おとこ自慢)」。

 

どうしてカッコーの声、絶えてしまったのだろう、夏も終わりか・片や、あき風でも吹いたのだろうか。――歌の清げな姿。

珍しく待つべき女が先に、情欲や、絶えてしまったよ、そら御覧。――心におかしところ。

 

この歌、「古今和歌集」の並びからは「寛平御時后宮歌合の歌」と思われるが、今に伝わる歌合には無い、別の機会に行われた時の歌かな。女たちの失笑をかうこの手の歌に、合わせる歌は無いので披露されなかったかな。

 

大江千里は、在原業平の異母兄弟の参議大江音人を祖とする由緒ある家柄の人で、千里は博学多識、「句題和歌集」を奏上するなど、古今集成立の頃、有名歌人であった。歌の様を見ると、業平に優るとも劣らない博愛多色、歌才にも長けた人だったらしい。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)