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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)である。
普通の言葉では言い出し難いことを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な歌の様(表現様式)をもっていたのである。
古今和歌集 巻第三 夏歌 (162)
山に郭公の鳴きけるを聞きてよめる 貫之
郭公人松山になくなれば 我うちつけに恋ひまさりけり
山で郭公が鳴いたのを聞いて詠んだと思われる・歌……山ばで且つ乞う女が泣いたのを聞いて詠んだらしい・歌 つらゆき
(ほととぎす、人を待つ山で、且つ恋うと・鳴くものだから、我、突然に、待つ人が・恋しくなったことよ……ほと伽す、人待つ山ばで・女成るを待つ山ばで、泣く成れば、我、射ちつけに、恋火増さったことよ)。
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「郭公…ほととぎす…カッコーと鳴く鳥…鳥の言の心は女…名や鳴き声は戯れる。ほと伽す、且つ恋う、且つ乞う・すぐまた求める」「人…女」「松…待つ…言の心は女」「山…山ば…感情の山ば」「なくなれば…鳴いているので…泣く成れば…泣いて山ばの頂上に達すれば」「うちつけに…打ち付けに…突然に…撃ちつけに…放出とともに」「恋ひ…恋火…恋の炎」。
郭公が、人待つ山で、且つ恋うと・鳴いているので、我、唐突に、待つ女人、恋しさ増さったことよ。――歌の清げな姿。
且つ乞う女、待望の山ばに泣く泣く達すれば、我、放つとともに、恋の炎、燃え増さったことよ。――心におかしところ。
且つ乞う女を有頂天に送り届けた後に、うちつけに、恋しさが増さったとは、男にとっての理想形で、現実には稀有な性愛の形、前の躬恒の歌と同様、おとこ誇り(おとこ自慢)の一種だろう。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)