帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(27)白露を珠にもぬける春の柳か

2016-09-24 20:23:06 | 古典

               


                             帯とけの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。


 「古今和歌集」巻第一 春歌上
27


         西の大寺のほとりの柳をよめる 僧正遍昭

浅緑いとよりかけて白露を 珠にもぬける春の柳か

(浅緑の糸に撚りをかけて、白露を数珠でもあるかのように貫き通した、春の柳だなあ……浅見とり、とっても強く撚りかけて、吾が・白つゆを、珠ででもあるかのように、貫き・抜いた、春の垂れ枝よ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「浅緑…新緑の色…浅みどり…浅見とり…浅い交情」「み…見…覯…媾…まぐあい」「いと…糸…柳の細枝…非常に…たいそう」「よりかけて…撚りかけて…強くして」「白露…夜露・朝露…白つゆ…おとこ白つゆ」「たま…玉…珠…真珠…数珠」「にも…「ぬける…貫いた…(珠を糸で)貫き束ねた…抜ける…離れ出た」「春…季節の春…青春…春情…張る」「柳…しだれ木…木の言の心は男…枝垂れ木…肢垂れ男」「か…感嘆・詠嘆…かな」

 

新緑の細枝に撚りをかけて、白露を真珠のように貫き束ねた柳かな。――歌の清げな姿。

浅い夢中の春情のおとこ白つゆを、真珠のように、ぬいている、我がはるの垂れ枝よ。――心におかしきところ。

 

僧正遍昭(遍照とも)、俗名は良岑宗貞。左近少将、蔵人、三十数歳の頃、嘉祥三年(850)仁明天皇の崩御により出家した。

断ち難き煩悩は否応なく張るの身の枝に白つゆとなって露出する。それを「清げな姿」にして、言の戯れを利して「心におかしく」表出した。そこに、にわかに出家した作者の「深い心」があるだろう。

 

国文学的解釈の共通するところは、真珠を貫き連ねたように、白露を付けて立つ春の柳を見て、自然観照して、愛でている作者に、どのように感情移入するかに、解釈の重点があるかのようである。平安時代とは、解釈の次元が異なるのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)

 


帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(28)もゝち鳥さへづる春は

2016-09-24 20:05:50 | 古典

               


                             帯とけの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。


 「古今和歌集」巻第一 春歌上
28

 

題しらず             よみ人しらず

もゝ千鳥さへづる春は物ごとに あらたまれども我ぞふりゆく

(百千鳥、さえずる春は、もの毎に、あらたまれども、我は、古びて・老いて、ゆく……百千の女ども、意味のわからぬ言葉を発する春の情、もの毎にあらたまり・常磐である、けれども、我ぞ、振り・降りつつ、逝く)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「ももちどり…百千鳥…百千の小鳥たち…多くの鳥たち…大方の女たち…神話の時代から鳥の言の心は女、そのつもりになって古事記など読めばふにおちる」「さへづる…鳥が囀る…わけのわからない言葉でしゃべる…わけのわからない言葉を頻りに発する」「春…立春…春情」「物ごと…物事…もの毎…その度毎」「ふり…古り…振り…振動し…降り…お雨降り」「ゆく…行く…逝く」。

 

鳥たちの囀る春は、もの事が、新たになるけれども我は古びゆく。――歌の清げな姿。

大方の女たち、意味のわからない声を発する春情、ものくりかえし変わらないけれども、我がものは、降り、逝く。――心におかしきところ。

 

詠み人しらずながら、男の歌として聞いた。顕れ出たのは、はかないおとこの性(さが)。

 

さて、古今和歌集の歌言葉の「言の心や戯れの意味」が、藤原定家より数代後には、歌の家の秘伝となったようである。そして、門外不出となり一子相伝となって、秘伝は埋もれてしまったようである。「百千鳥」も、その一つらしい。

秘伝となる以前の、貫之の言う「言の心」や定家の父、俊成のいう「戯れの意味」を心得れば、大きく外れることなく、この「古今伝授三鳥」の一つなど、その意味は難なく解ける。「ももちどりさへづる春」が、女たちのどのような妖艶な情況を意味するか、今の人でも、おとななら、おわかりだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)


帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(26)みだれて花のほころびにける

2016-09-23 19:33:36 | 古典

                


                              帯とけの「古今和歌集」

                           ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。


 「古今和歌集」巻第一 春歌上
26


            (歌奉れと仰せられし時によみて奉れる       貫 之)

あをやぎの糸よりかくる春しもぞ みだれて花のほころびにける

(青柳の細枝に撚りをかける、春の季節よ、みだれて、花が・つぼみが、ほころんだことよ……吾おや木の細肢、撚りかける春の情よ、みだれて、お花が、綻んでしてしまったなあ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「あをやぎ…青柳…青年男子…木の言の心は男…吾おや木…吾がおとこや」「糸…細いもの…よわよわしい物…細枝…身の小枝…若きおとこ」「よりかくる…(細糸を数本)撚りをかける…強くする…(太く)成長させる」「春…季節の春…春情」「しもぞ…強調の意を表す…下ぞ…肢もぞ」「みだれて…乱れて…淫らになって…身垂れて」「花…木の花…男花…おとこ花」「ほころび…綻び…つぼみの開き始め…破綻…緊張や我慢ができなくなるさま…もらし」「に…ぬ…完了した意を表す」「ける…けり…気付き・詠嘆」。

 

 

青柳の細枝が成長する春の季節、みだれて木の花の蕾みがひらいたことよ。――歌の清げな姿。

吾おや木の細枝、緊張膨張させる春情よ、乱れ、身垂れて、おとこ花のつぼみ、綻んでしまったことよ。――歌の心におかしきところ。

 

おそれながら、醍醐天皇は「賢し、貫之を、勅撰集の撰者兼編者に選ぼう」とお思いになられただろう。お供の男どもは「あるある」と思って苦笑しながらこの歌に共感しただろう。

 

さて、近代から現代にかけての、この歌の解釈は「歌の清げな姿」から一歩も出ない。

或る明治の国文学者は「糸を撚って綻びを繕うべきなのに、青柳が糸を撚りかける春の季節は、花が思いがけず、甚く咲き乱れて綻びたことよ」とほぼこのように解釈する。また或る国文学者は「青柳が風になびいて、まるで糸を撚り合わせるように見えるこの春こそは、青柳の糸が風に乱れ、その柳の花が乱れ咲いているようだ」とし、或る古語辞典には「青く芽ぶいた柳の細い枝が(風になびき合って)、糸をより(縫物の準備をしている)、その春に桜の花は(花の衣が乱れ破れ)ほころび、盛んに咲き誇っているよ」とある。

 

この近代から現代の人々は、貫之のいう「歌のさまを知り、ことの心を心得たらむ人」ではない。公任の捉えた歌の様(歌の表現様式)に「心におかしきところ」があることを無視し、「ことの心」を「事の心」や「物事の真意義」などとして、「言の心」を心得ず。俊成のいう「歌言葉は浮言綺語の戯れに似た戯れである」という言語観をも無視したのである。人間味溢れて、心におかしい歌であるのに、「心におかしきところ」が全て消えている。

明治の正岡子規は「貫之は下手な歌詠みにて、古今集はくだらぬ集に有之候」と言ったのは、正岡子規も歌を国文学的に解釈していたからである。この解釈では「貫之とても同じこと、(古今集には)歌らしき歌は一首も相見え不申候」という事になるのは当然で、解釈がくだらないからである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)


帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(25)わがせこが衣はる春雨ふるごとに

2016-09-22 18:47:17 | 古典

               


                             帯とけの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


  
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。


 「古今和歌集」巻第一 春歌上
25


         歌奉れと仰せられし時によみて奉れる    貫 之

わがせこが衣はる雨ふるごとに 野辺のみどりぞ色まさりける

(わが背の君の衣、洗い張る、春雨降る毎に野辺の緑の方は、色艶まさることよ……わが夫の、身と心、張る・春情、お雨降る毎に・色褪せ、野辺の女の見とりの方は、色情ますことよ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「せこ…背子…背の君…夫」「衣…緑色の衣(六位の服)だろう…ころも…心身の換喩…身と心」「はる…張る…洗い張りする(その度に色褪せる)…ものが張る…春情」「春雨…春立の後に降る雨…春情により降るおとこ雨」「野辺…ひら野…未だ山ばでは無い所…常磐なるおんなの性(さが)…野原」「みどり…緑…ここは草葉…草の言の心は女…身取り・見とり…まぐあい」「ぞ…強調の意を表す…草葉はようやくなのだ…女はやっとのことさ」「色…色彩…色艶…色情」「ける…けり…気付き・詠嘆」。

 

夫の衣を洗い張りする妻、春雨に洗われた後に陽の光に照り映える草原の緑。――歌の清げな姿。

色褪せる性急なおとこの心身、お雨ふる毎に、山ばの無いひら野の女、ようやく、色ますことよ。――心におかしきところ。

 

古今集仮名序に「いにしえの代々の帝、春の花の朝、秋の月の夜ごとに、さぶらふ人々を召して、事につけつつ歌を奉らしめたまふ。あるは花をそふとて、たよりなき所にまどひ、あるは月を思ふとてしるべなき闇にたどれる心を見たまひて、賢し愚かなりと、しろしめしけむ」とある。狩場で雨宿り中かな「貫之よ、春雨、これを題にて、歌を詠め」と仰せられたので詠んだのだろう。

さてこの歌、花を添えようとして、色好みだけの、なよなととした所に惑うこともなく、程良く詠まれてあり、供の男どもも、「あるある」と共感し、笑える歌のように思えるが、帝は賢し愚かなりのどちらと思われただろうか。

 

今の国文学的常識は、「わが背こが衣はる」を「春」の序詞とし、春雨毎に野辺の草葉の緑のます風情とする。それだけではなさそうなので、解釈者の憶測の意見をそれぞれ加える。それをこの歌の解釈とする。このような、平安時代の歌論と言語観を全く無視した解釈が常識化して数百年経った。厚く覆われた学問的常識を払拭しなければならないが、今、ただ独りで出来る事は、和歌の真髄を差し示し、学問的常識の誤りに警鐘を鳴らし続けることである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)


帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(24)春くれば今ひとしほの色まさりけり

2016-09-20 19:06:43 | 古典

               


                             帯とけの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。


 「古今和歌集」巻第一 春歌上
24


         寛平の御時后宮歌合によめる     
源宗于朝臣

常磐なる松のみどりも春くれば 今ひとしほの色まさりけり

(常磐と言われる松の緑も、春がくれば、いまひと染めしたように、色彩増したことよ……時には成る、我れ・待つ女の、見とりも、春情繰れば、井間、一肢おの、色情増したことよ)


 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「ときは…常磐…常に変わらない様…時は…時々は…時には」「松…待つ…言の心は女」「みどり…緑…色彩の名…身取り・見取り…まぐあい」「み…見…覯…媾」「春…季節の春…春の情」「くれば…来れば…繰れば…繰り返せば」「いま…今…現在…井間…おんな」「ひとしほ…染料にもう一度入れること…一肢お」「ほ…を…お…おとこ」「色…色彩…色艶…色情…色欲」「けり…気付き・感嘆」。

 

新緑の中、ひときわ映える松の深い緑。――歌の清げな姿。

これだけの意味でしかないならば、もとより和歌ではない。清げな姿だけを聞き取って、歌の出来栄えなどを云々するのは、作者を冒涜するだけである。男の心根・心音が、歌言葉の言の心と戯れの意味に顕れるように詠まれてある。

変化なしも、時には成る、姫まつの色情も、張る繰れば、いまひとしほ増さることよ。おとこの気付き・感嘆、あるいは詠嘆。――歌の心におかしきところ。

 

この歌は歌合の春歌二十番の最後の左方の歌である。合わされた右方の歌は、詠み人しらず、聞いてみよう。

来む春にあはむことこそかたからめ 過ぎゆくにだに遅れずもがな

(……来る春情に和合は難しいでしょう、過ぎゆく・君の春の張るによ・遅れずにゆきたいわ)


 「だに…強調する意を表す」
「もがな…願望を表す」。

 

あえて従順な情のある女歌と合わされたようである。貴皇子宗于の青春の春情の歌に合わせるのに相応しく、両歌のおかしさが増す。歌合わせの面白さの一端に触れることが出来たのかかもしれない。歌の真髄は「心におかしきところ」にある。

源宗于朝臣は、宇多上皇の甥、醍醐天皇の従兄弟にあたる貴皇子である。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)