この日の東博本館、第13室(一階ショップの手前の部屋。近代の日本の美術の部屋。)の備忘録。
入ってすぐ平櫛田中「森の仙人」。「森の書」に没頭する姿は、以前の日記に書いた。
その斜め前で妖気を放っていたのが、速水御舟(1894~1935)京の舞妓」1920
この絵を画像で初めて観たときは、舞妓はんの顔が不気味だと思ったものだった。
でも実物の絵を見ると、着物の細密さに、ただただ圧倒。
青い絹の織り目まではっきり。絹の光沢とすかし模様。絞りは一つ一つの手絞り感と厚みまで。
布の合わせ目の厚み。畳のすれ。
(この執拗な細密ぶりは、高島野十郎[1890~1975)なみ。気づけば、この二人は同世代。野十郎が怪しい精を放つような「けし」や「椿」を描いていたころだ。布の質感や、例えば「炎舞」で炎のすぐ外側の部分をとらえようとしたところ、そのまなざしはどこか相通ずるのでは。
御舟の絵は、以前に世田谷美術館の「速水御舟とその周辺」で見たひまわりやザクロといい、この着物と言い、時にぞくっとするほどの写実性。
なのに、舞妓の顔だけは、写実に見えない。
超絶な写実画なら、ホキ美術館にあるいくつかの作品のように、洋服も素肌も髪も周りの空気までもが同じ感度を持って響き、一枚の世界となっていると思うのだけれど。
でもこれは、まるで着物が座っているような錯覚にも。
祇園の茶屋「吉はな」で君栄という舞妓を写生し、二年かけて描いたそう。人気芸者さんなのに、美しくもかわいらしくも描かれてない。雰囲気がある女って感じもない。放つ感情がない。
舞妓を取り巻く黒い影はなんだろう。
御舟はこの舞妓の顔に何を語らせたかったんだろう?
仕事の合間のひといき、空な時間なのかもしれないけれど、まだあどけない舞妓の顔にこんなに影をつけて。
この絵は都電に轢かれて、足を切断した直後に完成されたもの。26歳の時。絵への妄執。この後は、31歳で「炎舞」、35歳で「翠苔緑芝」、36歳で「名樹散椿」という、こぼれ落ちるほど美しい世界を描きあげた。
そこへの途上の作だったのか、「炎舞」は赤く黒く燃え上る炎だけれど、「京の舞妓」には、青く黒く立ち上る見えない炎を立ち上らせようとしたのかな。
そしてこの日の13室には、舞妓のように読み取れない「顔」ばかりが並んでいた。
おりしも、いま平成館のギリシャ展では、アルカイックスマイルな像が立っている。人間の思索が複雑化し、なにを見るかが変遷し、あいまいで一見しただけではつかみとれない内面を彫像に写し取るようになる過程が興味深かったけれど、この部屋の展示もそれに合わせたのかな?。
今村紫紅(1890~1916)「説法」1910は、達磨を描いたもの。
紫紅らしい朱もうすやかな色彩だけど、これまで見た達磨と雰囲気が違う。紫紅の解釈した生身の達磨。どんぐり眼じゃなく、静かな深い眼差しだった。友人の古賀玄洲にモデルを頼み、写真を撮り、4,5日で制作した、と。口元に歯がのぞいて、上げた手のパワーとともに、臨場感があった。
横山大観(1868~1958)「釈迦十六羅漢図」1911、
十六羅漢の目元が、アイシャドウばっちりみたいで、なまめかしいのはどうしたこと?。唇もうるツヤなのはなぜ?。
下村観山(1978~1930)「老子」大正時代。晩年の作。
一見風格ある穏やかな老子。目をこらさないとわからないくらいけれど、長い髪とひげが微かに。
顔を見つめると、左右の印象が全然違う。左側だけを見ると、厳しいながらに静かな表情。右側だけ見ると、きっとしたように強くつきつめるような目線、口元。相反する二つの感情がひとつに。
人間の顔は、左(絵では向かって右)はプライベートな顔、右半分(絵では向かって左)はパブリックな顔だと聞いたことがある。内に秘めた感情が表れやすいのが左。理性的でよそいきの顔なのが右。そうすると、老子のこの左右の違いも、こうした表現か。
晩年、思想と人間性に迫ろうとしていた観山のチャレンジをかいまみたのかもしれない。そして観山の解釈はどこか穏やかで情のようなものがある。観山が好きな私のひいきめかもしれない。
観山でもう一点、初期27歳の時の「修羅道絵巻」1900が展示されていたのはうれしかった。(ストーリーを調べたらそのうち別日記にて)
「嫉妬や猜疑心、執着心によって醜い争いを続ける人間の姿を揶揄したもの」と。絵巻は、その醜い姿を、諦感と憐みの表情で観るような僧から始まっていました。
小林古径「出湯」
原山渓の芦ノ湖の温泉。湯気の質感?を描こうとしたのかなとも思う。
女性の背中や、お湯に顔がつきそうな女性の顔は、天女のよう。でも生え際の髪は、湯気か汗でしっとり濡れていて。
緑いろのお湯と垂直をなすような、窓の外の緑が爽やか。
横山大観「五柳先生」1912 明治45年
陶淵明の文に登場する、五柳先生。酒好きで悠々自適の生活を送っていたと。陶淵明の無弦琴を童子が持っているので、陶淵明と同一人物説もあるとか。
大観の相変わらずざっくりした絵だけれど、この絵はやる気感じる・・。
先生のひょうひょうとした風貌。
童子は、子供らしくかわいい表情。
この大きな屏風に、描かれているのは、先生と童子、薄く描かれた柳だけ。でも柳の葉をすりぬけて、金の空間を吹き抜け、先生の着物を巻き上げていく風が、心地よい。
柳の幹がきれいだった。
熊とウサギの顔も、何かを語っていました。
津田信夫(1875~1946)「シロクマ置物」1944
津田信夫「白磁兎置物」1934
白兎の風格に、た、たじろぐ。
シロクマとウサギは背中も語っていました。特に兎の背中は、アングルを思い出したほどにセクシー。
高村光太郎(1883~1956)「老人の首」1923
前、後ろ、横顔、それぞれ印象が違う。人生を重ね老人になったら、その違いも大きくなるんでしょうか。
梅原龍三郎(1888~1986)「裸婦」1931
龍三郎の絵によく登場するこの女性。赤いほっぺで大きな黒目の顔に絞ってみれば、内面的なうんぬんよりも、そこにただいるストレートな存在感。はにわのようにはるかな感じもする。梅原龍三郎の絵は、「富士」でも感じたけれど、どこか太古な感じが好き。
(御舟の「京の舞妓」の絵に、大観は激怒し(五柳先生の絵を見るとわかる気もする)、龍三郎は絶賛したと。梅原龍三郎の絵のこの顔になんらかの感情の解釈をしようとすることに意味はないと思えるのだけれど、では御舟の舞妓の顔をなんとか解釈しようとしてしまうのはなぜだろう?)
石井柏亭(1882~1852)「農園の一隅」1920
労働の合間の休息のひととき。無の表面。
原撫松(1866~1912)モンタギュ婦人像1907
何にも難しいこと考えてないようで、苦労も知らないようで。じっとしているのにもあきちゃって、このあとのサロンのドレスのことでも考えているような。裕福な男爵家の子息の妻とか。
川村清雄(1852~1934)形見の直垂(虫干し図)1899~1911
川村清雄の油彩。この絵はどこか得体がしれない感じ。
灰色の胸像は勝海舟(1823~1899)。川村は勝海舟に長く仕えており、留学のきっかけも勝によるもの。帰国後も仕事の世話になるなどずいぶん恩義がある。少女がまとう白い直垂は、勝の葬儀の時に自分が着たもの。
調度品は勝家ゆかりのもの。ついたての日本古来の筆や絵の具や金で描かれた装飾を、洋画で描きなおす。さらに和の調度品の中に、洋装の胸像がおかれる不思議さ。
幕末から、時代の先を見越した勝海舟らしい洋装の胸像。勝を懐かしむと解説にある。
清雄は、単に懐かしんでいるのだろうか?。石棺の上に無造作に置かれた胸像。まぶしいほどの白い直垂や周りに対して、勝の胸像だけが、色がなく。少し開いた棺からこの世によみがえったようでもあるけれど、もはやただのモノにも見える。喪失感と言えばそうなのかも。
直垂の少女に対して、後ろの調度品は抑え古びた色彩で描かれ、花や人物の意匠は、古典の世界への入り口のようで。これらは亡き人、勝の所蔵品らしい。
あしらわれた黄色い花は月見草?。あの世とこの世が、もはや混じることなく交錯するよう。
少女と、それ以外。異なる二つの次元が一枚に収まっている。不思議な感覚。
勝も相当な人物だったとは思うけれど、川村もかなりマイペース感あるひとかどの人物。勝への懐かしみ方が、きっと川村流。幼い頃から恩義があり、大きな存在だったけれど、対等で現実的で、でもなつかしく。「先生にはいろいろ無理難題いわれたよなあ、なあ先生」「もう言い返せないだろ(寂)」。妄想すぎましたかな。清雄はこの絵は生涯手もとにおいたとか。
興味深い時間でした。
顔を見ても簡単にはわからない人の感情、本心。なんにも考えてないのかもしれないし。
一番わかりやすかったのは、この顔かも。ベクトル一直線。鈴木長吉(1848~1919)鷲置物1892