1の続き
1章では、メインだけでなく、個人的サイドストーリー的に、青空と雲の表現が見どころだったヴェべチア絵画。そのあとの変遷へと続いていきます。
◆第三章「三人の巨匠たちーティントレット、ヴェロネーゼ、バッサーノ」
老ティッツイアーノのあとを継ぐライバル、ティントレットとベロネーゼ。内陸バッサーノで人気の高いバッサーノは、前章の二枚の絵が劇的だったボニファーチョ・ヴェロネーゼの弟子。
・ティントレット絵画はここまでやりますかってくらいに、大胆にそして緻密にダイナミックさを追求していた。
ティントレット「聖母子昇天」は、絵からつむじ風が渦巻き、天に上がっていっていた。
マリアの眼の方向、取り巻く使徒たちの眼の方向で、 上り立つような三角形を成している。服の光沢でさらに劇的性を増しているのだけれど、人物の爪まで光沢が描かれてるのが芸が細かいわ。筆致は荒いのに、細部に手を抜かない。
人物もほほの赤みから瞳の輝きから、とても生き生きしていた。顔がしっかり描かれた三人は、依頼主の意向による特定の人物なのだそう。町の人が見れば、誰だかわかるのだそうなので、宗教画って当時は身近な存在なんだなと、今更に認識。
同じくティントレットの「動物の創造」
絵がびゅううんと動いてる。
神は、世界創造の5日目に水と空の生き物、6日目に陸の動物を作った。神も、魚も鳥も動物も、右から左に走馬燈?のように飛んでいく。陸・空・海に三分割され、真ん中に神、とはっきりした構図も面白いけれど、生き物のひとつひとつも印象的。大型動物だけでなく、小動物は亀やトカゲ、ヤマアラシまで、これも芸が細かい。
魚だって、鯛やサンマじゃない、深海魚か古代魚っぽい。世界創造だからやっぱりこういう魚なのかな。
鳥は不思議に、飛んでいるときの実際の羽の動きらしくなく、どれも判でおしたごとくの形で水平滑空しているよう。この鳥の(動きのない)動きだから、神と同じ速さの流れにのっているのが見える気がするんだろうか。それで走馬燈という言葉が浮かんだのかも。
「アベルを殺害するケイン」は「動物の創造」とともに同信会という教会のための連作5点のうちのひとつ。こんな大きく劇的な絵が取り巻く教会、想像するだにおののいてしまう。
人類最初の殺人がまさに起ころうとしている。その寸前だけれど、でも右のほうにはすでに切り落とされた鹿の首が。カインとアベルの絵はいろいろな画家が描いているけれど、ティツイアーノの「アベルを殺すカイン」が画像で見るとやはり似ていた。同じような態勢でアベルの表情は見えない。
ヴェネチア絵画の劇的な表現方法の中でも、ティントレットは「動き」をどれほどに劇的に見せるか、ということに特に魅せられていたように感じた。
・バッサーノとヴェロネーゼ、それぞれの聖ヒエロニムスはずいぶん違う印象だった。
バッサーノ「悔悛する聖ヒエロニムスと天井に現れる聖母子」
天と地の二元的な構造。光に満ちた聖母子、清らかなマリアのまなざしは、性的幻惑に惑わされるヒエロニムスの現実を一層あぶりだし、ヒエロニムスの悔悛はさらに追い詰められていくように。
手前の花や木、そこから動物のいる丘陵から遠い山並みへと広がる遠景、そしてダイナミックな雲と切れ間から除く青空。イタリア絵画の定番とのことですが、こういうはるかな思いが心に感じられるのも、主題とはまた別腹で、いいなあ(^.^)。
右の方には、御主人さまの悩む姿を見て、一緒に苦悩してしまうライオンが。
バッサーノのヒエロニムスは、マリアとの対比の中で自分を客観的に外から見通したときに、さらにさいなまれる感情のように感じた。
その外からの自己への視線に対して、ヴェロネーゼの方は、ひたすら自己の内へと悔悛を突き詰めていくような。
ヴェロネーゼ「悔悛する聖ヒエロニムス」
ギリギリまで自分をさいなんでいます。ギリギリ握りしめた石には血が。うち付けた胸にも血がにじんでいる。バッサーノも描いていたけれど、砂時計は「現世のはかなさ」を表しているのだそう。バッサーノよりも光の当たり方も布の赤さも鮮烈。赤くはらした目、こちらのライオンの目も同じく赤くなっていて。(ライオン的には、僕はこれ以上はムリ的SOS感が・・)
この小屋の暗さと対照的な明るい空。色がきれいだなあ。
悔悛の表情の二枚。どちらの気持ちの瞬間も、うんあるある。これ以上思い出してしまわないように、次に行こう。
バッサーノは、他の絵はどれも動物たちが印象的でした。
◆第4章「ルネサンスの終焉ー巨匠たちの後継者」
ヴェネチアルネサンスの最後づかーを飾る、前章三人の巨匠の後継者たち。
人物の質感がさらにふんわり肉肉してきて、さらに官能性を増した裸体の数々。
印象に残ったのは、パルマ・イル・ジョーヴァネと、ドミニコ・ティントレット
パルマ・イル・ジョーヴァネは、ティントレット、ヴェロネーゼとともに1578年にはドゥカーレ宮殿の再装飾事業にも参加し、二人亡き後のヴェネチア画壇の中心であったと。
パルマ・イル・ジョーヴァネ「聖母子と聖ドミニクス・聖ヒュアキントゥス・聖フランチェスコ」は、素人目にも、確かに二人を継承したような劇的さと色彩の強さ。
真ん中のヒュアキントゥスを両脇の二人がマリアに推挙している場面。分割された構成がぱっと印象的だった。青空と金の輝きで天と地に二分されているけれど、そこへ黒、白、青、グレー、赤と、色の分量のバランスが面白くて。それぞれの色が発色よく、多重に効果を発揮しているような。
これまでの絵もそうだったけれど、ヴェネチア人の色使いに感じ入ります。
ジョーヴァネではほかにこれ以降の時期の作品が二点。「スザンナと長老たち」「放蕩息子の享楽」。どちらも光の当たり方はすこし暗くなっていて、人物に特化した感じ。そして官能的な方向性へ進んでいた。
ヴェネチアルネサンスの官能性も初期は健康的な感じだったけれど、この時代になるとそそらせるような官能性になってきたような。展示されていたレアントロ・バッサーノ(ヤコボ・バッサーノの三男)「ルクレティアの自殺」も、フランチェスコ・モンテメザーノ(ヴェロネーゼの弟子)「ヴィーナスに薔薇の冠をかぶせる二人のアモル」、パドレヴァニーノ「オルフェウスとエウリュディケ」「プロセルビナの略奪」も、しっとりやわらかそうな白肌を、強引なまでに強調していた。
と、そのむちむちボディが第一印象だったのだけれど、気を取り直してよく見ると、モンテメザーノのヴィーナスは、切れ長の目元やかすかな微笑みがどことなく東洋的で神秘的で、それでいてあの裸体。女性としても、とても見とれたのでした。村上華岳を思い出した。
レアントロ・バッサーノのルクレティアの服の金糸の模様も、仏教絵画の截金(最近覚えた)ほどに緻密で、金髪も一本一本の髪を線描している。パパ・バッサーノとは方向性が違う独自の極め方、圧巻。
社長でも二代目社長はちょっと影が薄いイメージですが、このレアントロだけでなく、ティントレットの息子ドミニコも、素晴らしいと思った。ドミニコは、先日の東博の伊藤マンショの肖像で存在を知ったばかり。まだ少年のマンショに向ける優しい眼差しと、頬や瞳、唇など生き生きした人物画には、身近に感じ好印象だった。こちらで他の作品に出会えてうれしかった。
ドミニコ・ティントレット「キリストの復活」
だらしなく眠りこける兵士と対照的に光に包まれる復活の場面。青色が、クールで美しかった。気づけば遠景の山もかすかに青い。
兵士の鎧兜や剣、金属の質感がすごい。
光沢で、その硬さ・冷たさまで描き出しているような。そんななで、キリストの体を包む白い色や浮かび上がる体、特に脚のあたりなんか、まるで夢のなかのような。眠りこけている兵士のみている夢なのかな。
まだ20代ごろの作品ということ、画力あるのだなあと思う。
ドミニコは、次章の肖像画「サンマルコ財務官の肖像」も。
瞳や肌など、生きた人間のように生き生きしている。地位ある人物の公的な肖像画。堂々たるものだけれど、でもマンショと同じようにドミニコの肖像は、どこかまなざしに人柄のあたたかさが感じられるような。
肖像画では、父ヤコボ・ティントレットも二点。
「統領アルヴィーゼ・モチェニーゴの肖像」
ドミニコに受け継がれたものがあるなあと思った。ドミニコの上記肖像は40歳くらいのときのようだけれど、こちらは50代前半ごろのよう。少しさめたような、人を見透かすような瞳なのが、息子と違うかな。
「サンマルコ財務官、ヤコボ・ソランツオの肖像」
こちらのほうが30代の作だけれど、まなざしは見透かすどころか、仙人のごとき達観した感じが。
父も子も、描いたときの年齢関わらず、対象の内面をとてもよく感じ取っているものです。
この辺になるとだんだんつかれてきて、第五章の肖像はさらっと流してしまった。
少し前まで、全部一緒に見えた宗教画(*_*)。最近やっと違いが分かってきた。そうすると画家の個性もずいぶん違うもので、同じ流れのなかでも独特な変わり者がいたりと、面白い。
よく知らなかったヴェネチア絵画も、今回の画家たちは、人間的な迫り方もさまざま。目は口ほどにものをいうというが、目線の方向によって構図を形成しているのも面白かった。そしてとりわけ、色が魅力的だと感じたのは、色の取り合わせ方、分量的な配分によるのだったのかも。それにしても青色がすてきだった。
楽しい時間でした。