はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●篠田桃紅「昔日の彼方に」

2017-06-07 | Art

菊池寛実記念 智美術館  篠田桃紅「昔日の彼方に」

2017.3.29~5.28

篠田桃紅さん(1913~)の作品をずっと見たいと思っていた。

「103歳になってわかること」という本を見つけて、それはどんな事なんだろう?と。

ずっと、そんなに長生きしたくもないけれどと思っていたけど、もしかして100歳まで生きたらわかることがあって、何の悩みもすでに越えさっているのなら、そんな境地に一度浸ってから死ぬのもよさそうだ、と開眼?したのだ。人間の悩みの大部分って、社会や人間関係、家族など自分以外の人間について派生するものが大きいと思うけれど、100歳にもなったら、みんな先立ってしまって、さらに長い時間もたって、「辛い」とか「孤独」はもうその種すらなくなっているのだろうか?と。孤独はもはや孤独でなくなるんだろうか?と。篠田桃紅さん自身、幼いころから身内の死に何度も直面したり、死ぬような目に合ったりしている。

展覧会を待ちわびていました。

とはいえ、線だけの作品だから全くわからないかもと思いつつ行ってみると、よくわからないなりに、とても充たされた思いのする展覧会だった。

 

年代ごとではなく、共通する何かを感じ取れるように作品が並べられていたのかもしれない。タイトルと作品とを両方見ることで、心に広がってくるものがある。

「甃(いし)のうえ」1990、「花のたね」1958は、三好達治の詩から。読めないんだけれども、解説に詩があって、紙の色、字の流れやリズムで、その情景を感じることができた。


「Daybreak 夜明け」1967は、すった墨の、ぬるく豊潤な質感を感じた。


Vermillion Harvest みなぎる朱」2010は、銀に朱。実った小麦を感じる。ふととても暖かいものを感じてしまった。97才。ひとりであるからこそ、自然のもの、四季のものと近しく身をおくこともでき、自分と重なり、そのまま筆に流れ出る。筆から表されたものは、その風景であり、もう移ろってしまったその前の動きであり、風であり、そのままなんだろう。孤独のなかからこんなにあたたかい思いが出てくる。


「Discovery ひらく」1962は、それから50年も前。

49歳か50歳頃の乗りきったころは、野心、情熱をほとばしらせるような。感情と力。強く、先走るもの。重なる墨も幾重にもしぶきをあげる。

「Izumi 泉」1967も、まっすぐな線が潔かった。ぬるい曲線はない。研ぎ澄まされ、一気に下ろされ、走った、その軌跡を目で追うと、それでも泉には墨の豊潤さが。


「Sonority 響」1999、「Phases 相」2011のあたりは、心の中のなにかの感覚的な動きが。通り過ぎていく、自分の中の一瞬のもの。感情というほどでもなく思いというほどでもなく。

Sonorityは音楽のやり取りかも。Phasesは、楽しい遊びのひと時のよう。「Voyage 旅」2009は、飛行機でおり立って、異世界を目の当りにしたら、こんな感じだろうか。


「Chikara ちから」2011は、果敢な感じだった。なぜか小林麻央さんを思い出した。小さい子供がいて病と闘う麻央さんのブログを時々拝読していて、決して多くはない言葉のひとつひとつは心の深いところに触れ、こちらが力をもらうことがよくある(面識もない有名人の方にこういうのは初めてですが、早くよくなられるように祈らずにはいられないです)。この作を見ると、自分にどれほどの力があり、自分の中にどれほどのものがあるのかわからないけど、ただただひたむきに。この作品も、力をもらうような作だった。


「Quietude 静穏」1990は、急に静かさが立ち上がる。自分の中の静かさに響く。

 

「Fountain of Gold 黄泉」2016 

潤沢にここにいる、という感じ。

 

展示の最後に「Memories of Nara 奈良」2017 

親交のあった会津八一の歌を書いている

「あめつち(天地)に われひとりいて たつごとき このさびしさを きみはほほえむ」

なんだかもう、すごく大きなものに包まれたような。このさびしさをきみはほほえむ でなななんだか泣きそうに。


最初は、線だけの作品ってわからないかもと思ってきたけれど、なにかとてもあたたかいものが広がってくる展示でした。孤独がとてもあたたかいもののように思えるのです。立っているその地面に風景に四季に、ただ生きているだけでも、なにもないわけじゃない。力を感じるもの、実りや自然の豊潤さがある。なにかふわふわと包まれたような感じで、帰りました。

 

(追記:会場でもらった紙から)満ちてくるものを待つ時間、過ぎてゆくものを惜しむ時間、そんな物事にはっきりかかづらっている時間でない時間に、本当の時間が見えてくる気がする。 なんとなく有る時間、ひとがうつろいにうつろうまま任せる時間は、時は失われているようでそうではなく、そういう時、ひとはきっと静かな目を開いている。(篠田桃紅「その日の墨」1983年 新潮文庫)

 


●太田市美術館・図書館2 開館記念展「未来への狼火」 

2017-06-07 | Art

前回の太田市美術館・図書館の続き

開館記念展「未来への狼火」https://www.japandesign.ne.jp/event/amlo-opening-memorial/

(抜粋)本展では、「風土の発見」「創造の遺伝子」「未来への狼火」をキーワードに、こうした歴史的風土の中で生まれた絵画や工芸、写真、映像、詩、歌など、多ジャンルのアーティストの作品を新作も交えて紹介される。

群馬出身のアーティスト、または太田市をモチーフに制作したものを展示しています。1,3階は写真可。

 

1階には、淺井裕介(1981~)さんの泥絵。

太田市各所の土を集めて描かれている。土色だけなのに、豊かな色合いでした

「獣たちの家」2017

獣の体の中に、また人間含め獣がいて、その体内にはさらにまたいる。指さきにもいる。

[user、_image 50/84/027efca5b84359daa58c94aac160c909.jpg]

一個の体に、太古からの生命の発生と、地球と宇宙のいろいろなものにつながりあって内包していることを、一度にみた感じ。なんかすごく大きい形容になってしまったが・・


「家を運ぶ」2017 こんなふうに安心できる家を持ち運べたらいいなあ。

 安堵感がある気がする。


反対側には壁一面に、「言葉の先っぽで風と土が踊っている」2017 

一般の参加者たちと共同で描かれたもの。

なぜか「龍虎図屏風」を思い出したり。

細部には、いろいろなものがいる。体内に、指先に、あるものは仲間と安らいでいたり、追いかけられて困っていたり、眠っていたり。

言葉では言い尽くせないけれど、思いは踊る。描き手たちの心と原動力が、ストレートにこの壁で踊る。

不思議なものたちはファンタジーなのかもしれませんが、ファンタジックな感じはあまりしませんでした。土着的であり、胎内的な感じ。

いいもの見たなあ。

 

藤原泰佑(1988~)さんの「太田市街図」2017 は、岩佐又兵衛も山口晃さんもびっくりな。洛中洛外図超えの細密さ。

地元の金山という山から見た光景。航空写真みたいに正確な再現ではなく、丹念な取材を重ねたうえで、画面の中で街を再構築している、とのこと。

確かに、この方が実際に歩いた実感、目にして受けた印象、感じたことが、画面に載っていました。

ホームセンターやパチンコの大看板がやたら目立つとこが地方都市っぽい。地方都市育ちの私は妙に親しみがある。

歴史の記憶を呼び覚ましたり示唆するようなものがあちこちに浮かんでいます。

埴輪いるし、キツネいるし、鶴が飛んでいるし、へんなのいるし。

横で見ていた親子連れは、地元ネタで大盛り上がりしていました。

空にゼロ戦はなぜに??。

もの知らずで恥ずかしい限りですが、太田市はSUBARUの企業城下町(この美術館すぐのSUBARU群馬製作所(大きい!)の住所は「太田市スバル町」)。その前身は、富士重工から、1917年に設立された中島飛行機にさかのぼる(GHQに解体された)。縄文以降、農村、宿場町であるだけでなく、軍需産業の町でもあったのです。

こうやって大きく見ていると、何千年もまえからのものも一緒に見ているようで、現代も過去とさして変わってないような、時間軸的にはほんの一瞬の差くらいに思えてきました。

 

二階では、石内都さん(1947~)の「Mothers」のシリーズが10点。

お母さまの遺品を撮っています。

資生堂ギャラリーで石内さんがフリーダ・カーロの遺品を撮った写真(日記)を見ましたが、それとは違う感じ。フリーダでは、記憶をそっと包むような石内さんを感じ、遺品は今はもう自由に空を舞うように、かわいらしくさえあった。

でもここでのお母さまの品々への眼は、もっと複雑な感じ。入歯、ウイッグ、髪の毛のからんだままのブラシ、ドレス、ガードル、淡い水色のパンプスなど。高齢になってからの母だけでなく、娘は知らない、若い「女性」としても、浮かび上がってくる写真だった。

石内さんはお母様との確執を悔やんで、さよならの気持ちで撮ったという。石内さんがお母さまの名前である「都」を使っていると初めて知った。お母さまは中島飛行場で働いているときに学徒動員で来ていたお父さまと知り合ったという。

母の中に女を見、ひとりの人間を見、理想化した母ではなく。これは子としてはなかなか見たくはないかも。お母さんはお母さん、であってほしいと私もどこかで勝手に思っている。でも石内さんはそれをあえて目を背けない。

 

そしてその隣に、片山真理さん(1987~)の写真。セルフポートレイトを中心に10点。

「My legs」2017 の二点は、義足の写真。くるぶしから下のものと、太腿からのものハイヒールも掃いているのも。

My Body」2017は、義足を床に置き、ソファで、下着とネックレス、マニキュアだけをつけてこちら(カメラのほうなのでしょう)を見る片山さん。妊婦さんです。濃い口紅、アイラインとメイクをしたその女性は、率直に美しい印象。

片山さんは9歳の時から両足に義足を使っておられる。義足の写真は、石内都さんが撮ったフリーダの義足の写真を思い出したけれども、でも全く違う印象。私などがうまくとらえれませんが、重力があるような。今まさに自分を表現している、自然な意志が内からある感じ。

「We've only just begun」2017は、ソファにもたれ座るセルフポートレート。モノクロでソファの模様と洋服が同化したようなので、顔と手先、スカートからのぞく足、無造作に置かれた義足が浮かび上がっているよう。なんだか、骨というか、やはり固いもの、重力のようなものを感じる。

そして、17歳の作「あしをはかりに」2005年

義足は、生きるための必需品であり、装飾具であり、しかし道具でしかなくもある、と。無数のねじと結びつけられた義足、生々しくも伸び上がる竹林のなかで、足に泥がついた義足、ガラス玉やネックレスや金で装飾された義足。

この写真ではありませんが、展示ではこの三点の下に、赤ちゃんの自分と自分を抱く父母の写真がおかれていました。

義足を形容したときに、片山さんの中には「装飾」という要素がある。片山さんのHPでほかの作品も拝見すると、「身体」っていろんな表現にできうるんだなあと感じ入る。そして片山さんの手仕事による装飾は、細やかな感性が行き届いていて、上等な美しさって感じもする。女子力が高い。私はこんな風にアクセサリーや小物類などで飾りをつけたり、服でも組み合わせたりってことが不得手なほう。せいぜいネックレスひとつつけるのが精いっぱい。でも私もこんなふうにしてみたいんだほんとは。

まだ片山さんの作品を少ししかみていないので、なんともいえないけれど。あちこちで活躍されておられて、作品にお会いする機会も増えそう。ずっと年下の方ですが、ここを(勝手に)ご縁に、10年20年後の作を見ていきたいと思うと、楽しみでもあります。

 

他には太田市出身の詩人、清水房之丞(1903~1964)の詩や、ノート、スケッチブック。

「霜害警報」 桑農家の堂々たる言葉と気象とに、ぐぐっと手に力を握りしめてしまう。

外へも発して余りあるような。「風土」を再認識してしまう展示方法。

 

この図書館が私の家の近くにあればと思うことしきり。「美術館・図書館」という名もそのままな感じが、よくある正体不明の横文字の愛称(なんとかスクエアとか)でないのがいいかも。ストールを忘れてきてしまったことだし、取りに行きたいけれど、いつになるかな。

 


●太田市美術館・図書館1 &大泉町

2017-06-07 | Art

群馬県太田市に新しくできた、太田市美術館・図書館を見学してきました。http://www.artmuseumlibraryota.jp/

 

はるばる群馬まで行くので、ちょっと寄り道して大泉町でランチ。

日系ブラジル人の方が多く暮らす街なので、ブラジル料理のレストランもたくさん。前回来たときはシュラスコでお肉攻めでしたが、今回はささっとすませたいので、スーパーの中にあるレストランへ。

ブラジルの調味料、お野菜やどーんとかたまりのお肉、ポルトガル語の雑誌、調理器具など、多種多様。

パンコーナーがステキ✨。ポンデケージョは、卵入りやベーコン入りとか種類もいろいろ。

アミーゴでセニョーラな会話が飛び交っていますが、どう見ても日本人には日本語で話してくれます。

お土産も購入。全部おいしかった~。特にこのV字のパンは、中にクリームチーズ入りでとってもおいしい~。

 

 

店内の一角のレストラン。というか食堂みたいな「Rodeio grille」

「ソーセージ炒めランチ」は、ちょっとイメージが違ったけど、家庭的でいいかも。フェジョアーダ(豆のスープ)つき。ご飯は、塩バターライスって感じ。これはこれでおいしい。

ミックスランチ

プリンは練乳で作ってあるそうで、濃厚でおいしかった。普段は炭酸は飲まないのにガラナも。この一日で、体重が増えていた(泣)。

 

 **

やっと目的地、太田市美術館・図書館。4月に完成したばかり。

敷地と敷地外に明確な境界はない。少しひなびた感のあるエリアでこの建物だけが新しいのですが、通ってきた道の連続のその延長で、すうっと入り込める。

この施設は、郊外のロードサイドの商業施設へ人が流れ、閑散としてしまった「駅前」を再び魅力あるものにするためのきっかけとして構想された。設計は平田晃久さん。

中に入ると、回遊式というのか。メインスペースというのがない。廊下、階段、踊り場という概念を超えて、すべてはゆるやかに連続している。そして本はいつでもそこにあります。

子供の本のコーナーは、素足に木の感触が気持ちいい。

 

最短距離で早く効率よく移動できる動線ではなく、スロープでアールを描いて、いつのまにか上下の階に至っている感じ。(普通は部屋を出てはしの方にありがちなエレベーターやトイレすら、分断されることなく気づけばそこにあったりする。)

で、移動する間にも発見があって、出会いがあって、気に入った小さなスペースを見つけることができる。

時間と場所により、空調の効きにむらがあるのも、有機的かも(笑)。

カフェに本を持ち込むこともできます。

見たかった鹿島茂さんのグランヴィルの本を発見~(*^^)v。カフェに持ってきました。

外とも分断されていません。山が見える。

部活帰り風な高校生たちはクッションで寝ていました。ココ、寝転んで本読むのにちょうどいい!!

おや、と思ったらクッションには、ワークショップから始まった建築の様子が、日付とともにプリントされていました。

 

本はほぼアート系に特化し、雑誌、そして子供の本のコーナー。私の近所の図書館では年々購入取りやめになっていく雑誌が多い中、ここでは充実していました。

もしかしたらアート系に興味がない人、子供の本にご用のない人にとっては、図書館としてはちょっと残念だったかもしれない。でもちらっと一度足を踏み入れたら、回遊している(せざるを得ない)間にきっと、ふと手に取る一冊がありそう。空間のいざない効果??。

 

ここは、美術館との複合空間でもあります。

展示は1,2,3階に渡っていますが、入口も、階の移動も、図書館と分断されておらず、混じり合っていました。

開館記念展「未来への狼火」https://www.japandesign.ne.jp/event/amlo-opening-memorial/

(抜粋)本展では、「風土の発見」「創造の遺伝子」「未来への狼火」をキーワードに、こうした歴史的風土の中で生まれた絵画や工芸、写真、映像、詩、歌など、多ジャンルのアーティストの作品を新作も交えて紹介される。

群馬出身のアーティスト、または太田市をモチーフに制作したものを展示していました。(次回に)