河鍋暁斎記念美術館 企画展「暁斎 その交流さまざま」
2017.5.1~6.25(5月、6月で展示替え)
暁斎の交流に注目した企画展。後期の6月にいきました。初の蕨市。
暁斎の周辺って、おもしろそうなのですもん。
鈴木其一が嫁の父。コンドルが弟子。ギメが家に来る。先日のBunkamuraでの暁斎展で見た「野菜尽くし・魚介尽くし」では、松本楓湖、野口幽谷、渡辺省亭、川端玉章、佐竹永湖、滝和亭、柴田是真らとの合作。同じ場で、同じ墨と筆をまわして描いたのでしょう。みんな私の興味惹かれる絵師ばかり。(日記1、日記2)
ほかにもいろいろな人がでてくるハズとにらんでおりましたら、期待通り。出てくる出てくる。
以下、備忘録です。
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◆コンドルが弟子というのは有名だけど、こんなにうまいとは!。暁斎が目の前で書いてくれた「鯉魚遊泳図」(↓画像)(1885年)の一部を模写した、コンドル筆「鯉の図」が展示されていた。暁斎の絵にそっくり。ネイティブかと思うような筆の流暢さ。
コンドルは来日して4年後の1881年に暁斎に入門し、3年後には内国絵画共進会なる場で褒状をいただく。暁斎は、狩野派のセオリーに従い弟子にメモを取ることを許さなかったけれど、コンドルにだけはメモを許し、熱心に教えた。
暁斎日記には、「コンデエル君」がよく登場するけれど、寝転がって書いていたり(正座ができないから)、きょとんとかわいい感じ。おひげのおじさんに見えてしまうのだけど、入門したときは28歳、まだおにいさん。コンドルは本気でがんばっていたんだなあ。
そのメモをもとにコンドルが出版した本、「Painting and studies by Kawanabe Kyousai (1911年)」も展示されていた。
絵の同業者との交流も、多彩。
◆小林永濯とは、かなり親しい友達だったらしいのは、永濯好きにとってはとってもうれしい。
暁斎の明治18年の絵日記には、長いあごひげで、宴会?のお重を前に座る永濯が登場していた。日本橋の魚問屋の三浦屋に生まれた永濯。狩野派を学び、彦根の井伊家に仕える話があるも、維新で立ち消え。浮世絵に転向。他にも、外国人向けの英語やドイツ語の本の挿絵や、劇画みたいな店頭ポスターなども、悳さんのコレクションで見て印象的だった。永濯は狩野派仕込みの確かな画力で、西洋画風の風景や風俗画やぶっとんだ絵を描いたり、徽宗皇帝風の化け猫みたいな猫を描いたりする。暁斎も狩野派絵師としても確かな腕前。相通ずるものがあるのかも。
永濯は、維新後困窮して暁斎の家に居候し、暁斎は永濯になにくれと便宜をはかったりして助けた。暁斎は、永濯が成功すると自分のことのように喜び、永濯もそのことをずっと忘れなかったそう。
◆その小林永濯と、渡辺省亭、鈴木鷲湖、佐竹永湖、柴田是真、暁斎が合作した「節婦奇女」は、今回の展示のなかでも一番の見もの。こんなぜいたくなコラボは西欧画にはないでしょう。双福の本格的な掛け軸。「本格的」というのは、上の魚野菜の絵のように’’宴会の時の余興かな?’’みたいなのではなく(それもとっても好ましいのけど)、本気モードの美人画。
節婦の幅には、下から暁斎の「静御前」、小林永濯の「大磯虎図」、渡辺省亭の「常盤御前」が、流麗な縦のラインに合わさって描かれている。
暁斎は、「静御前」をスピーディに描き、着物には薄墨で陰影をつけて、凛とした女性に。永濯の「虎」(この女性についてはこちらに)は、長いキセルを持ち、はっとするようなシトラス系の小粋で美しい女。細密に描かれ、着物の赤い絞りや少し寂し気な千鳥模様など、とても美しかった。省亭の旅姿の「常盤」は、人目を忍ぶ様子。省亭らしくさっさっと描かれつつも、金のラインのもみじや水流など細部に細やかに手を入れている。三人三様の画風で、たいへん美しい掛け軸に見とれてしまった。
左幅の奇女とは、たぐいまれな行いのあった女性のこととか。下から鈴木鷲湖の「茎塚図」、佐竹永湖の「秋色女図」、柴田是真の「千代能」が一枚におさまる。茎塚についてはよくわからなかった。是真の「千代能」は、鎌倉の海蔵寺「底脱の井」にまつわるお話。安達泰盛の娘の千代能は、一族を滅ぼされ出家。水汲みにきたところ、桶の底が抜けた。「千代能がいただく桶の底抜けて、水たまらねば月もやどらず」と、心のわだかまりもとけた心情をうたう。是真は空に一筆でさっと月を描き、尼姿の千代能が見上げている。きゅっと束ねた髪は細密だけど、尼衣は筆でさっと描きだされていた。「秋色女」は、頭に手拭い、腰に前掛け、箱を持って立ち働いている。和菓子屋さんの娘で、江戸時代の俳人。色調も抑え目だった。
この二幅は、席書ではなく、持ち回りで描いたようだけれど、売れっ子どおしで一枚に一発勝負で描くなんて、プレッシャーじゃないのかな。
◆「しん板流行名画尽1」「同2」明治16年は、一枚を16分割し、当時売れっ子の画家、書家を紹介する大錦絵。当時のアート業界ってこんな感じか。
1では、暁斎・福島柳甫・大沼枕山・九世団十郎・奥原晴湖・滝和亭・小野湖山・川端玉章・飯島光蛾・柴田是真など。それぞれが得意の画題で紹介されている。暁斎は、「古木寒鴉図」が100円で売れた後で、鴉の図柄。晴湖は、莚に白装束のお侍。四十七士かな?。以前東博で現代画のような絵に驚いた飯島光蛾も、当時人気だったのだ。
2でも、飯島光蛾は、もみじにオナガドリ。花鳥画で名をはせていたのか際立っている。是真は遊女と童子の絵。花鳥のイメージの是真だけど、このころは美人画のほうで人気だったのかな?
◆「宝山松開花双六」は、明治10~14年ごろ、御髪油所堺屋さんがお客様に配った双六。東京の名所を、人気の画家(三代広重、国周、梅素、大素芳年、小林永濯、山口素岳など)の絵で進む。上りは、店の宣伝の絵。当時はどこが名所だったのかわかる。「三橋夕照」には当時できたばかりの上野の風車。永濯は不忍池に枯れた蓮、舟で荷下ろしする者、水までつかり作業をする者を描いた。暁斎は大仏と鐘堂に鴉が一羽。大素芳年は入谷落雁ということで、朝顔に急須と湯飲み。他には根岸、吉原に猫、雪の不忍池など。下町は今はちょっと懐かしい風情に思えるけれど、当時は流行の最先端エリアだったのでしょうね。
◆山岡鉄舟とは「電信柱図」を。電信は明治2年に開通したばかり。暁斎はしゅうっと一気に電信柱を描き、鉄舟が賛を入れる。
◆浮世絵絵師との仕事も多い。「東海道五十三駅名画」(1864~5)は、79歳、大御所の三代歌川豊国がメイン役者絵を描き、若干39歳の暁斎は上のコマ絵をかいたもの。豊国の門人の豊原周信とは、墨をつけたとかなんとかで、派手な喧嘩をして有名らしい。他にも三代広重や肉亭夏良なる絵師(小林清親説あり)との合作も。
作家とのつきあいも紹介されている。
◆「老なまづ」の大判錦絵、1855年。まだ江戸時代だ。暁斎25歳。安政の大地震の翌日に、戯作者の仮名垣魯文と組んで、風刺のきいた「なまず絵」を出版し、これが大いに当たる。なまずは、悪政の時に地震を起こすと思われていたそう。この2年後に其一の次女と結婚し、絵師として独立する。
仮名垣魯文とはこれ以降もタッグを組み、日本初の漫画雑誌「絵新聞日本地」や戯作本「安愚楽鍋」などを出版。
1860年に豹が来日し、見世物として巡回展示されたときには、「舶来虎豹絵説」を売り出し。魯文は、豹と虎との違いを解説している。(当時は、豹は虎の雌だと思われていた)
1830年ごろにも豹の見世物があり、山本梅逸が描いたのを見たことがあるけれど、巡業の精神的ストレスが相当たまったような気の毒な感じの豹だった。でも暁斎の豹はまだ野生を忘れず、元気そう。
◆歌舞伎の作者の黙阿弥との仕事は、「漂流奇譚西洋劇」の行灯絵製作。黙阿弥は日本初のオペレッタ仕立てにしたが、大失敗だったという。
そのなかの「米国砂漠原野の場」の黙阿弥が描いた下絵が展示されていた(暁斎が描いた本画は、ドイツ人医師のベルツが持ち帰り、ドイツのビーティッヒハイム市立美術館に保管されている)。西部劇と「母を訪ねて三千里」を足したみたいなストーリーはとんでもないけど(爆笑)。明治は、いろいろ妙で面白いものが多い。
絵業界以外にも、何業というのかよくわからない、異業種つながりも面白い。
◆戯画の「鬼」(明治12年)は、勝海舟の注文を受けて暁斎が描いたという。慌てた様子の鬼だった。三条実美もちらっと出てきたけれど、なんだったか忘れてしまった。
◆「榊原鍵吉山中遊行図」は、有名な剣豪「榊原鍵吉」が、妖怪に取り巻かれながらも動じないシーン。榊原鍵吉も絵日記にもよく登場する、暁斎の友達。明治維新後に困窮する旧士族のために力を尽くした、強くて人情味ある人柄のよう。
◆松浦武四郎と交流があるのには、びっくり。武四郎も面白そうな人物。幕末に6度、当時の「蝦夷地」を歩き回る。
東博で先週まで、武四郎の「蝦夷漫画」1859年の複製が展示されていた。アイヌの文化や暮らしを表面的に描くだけでなく、祈りやしきたりの意味なども細やかに理解しようとしているように思えた。きっと蝦夷地を回っている間に、アイヌの人たちに親切にしてもらったり、泊めてもらったりしたんだろうと思う。
武四郎は維新後は北海道の開拓判官に任命されるも、開拓使のありかたに反発して辞職。その後は、全国行脚や骨とう品収集に没頭した。
明治18年の暁斎絵日記には、暁斎が武四郎のために、弟子の八十吉とともに「武四郎涅槃図」(収集した骨董に囲まれる武四郎図)を描いているシーンと、武四郎じいさまが「とよ(暁斎の娘・暁翠)」に画料を渡しているシーンがある。「画料廿円」と読み取れた。
「撥雲余響」松浦武四郎著(明治15年)は、武四郎が、収集した骨董や発掘品を模写させ、来歴などを記して出版した本。暁斎は挿絵を担当。ほかに福島柳甫と、渡辺崋山の息子の渡辺小華(47歳ごろ)‼も挿絵を描いたと解説にあったのを、目ざとく発見。小華は父亡き後、成長して田原藩家老を務めたけれど、維新後はどう生計をたてたのだろう。東京に出てきて、暁斎とも付き合いがあったのかな?。
外国人のお客様も、千客万来の暁斎家。
◆ギメとともに湯島の暁斎邸を訪れた折、フェリックス・レガメが描いた暁斎の絵も展示。ギメが出版したPROMEADES JAPONAISES TokioーNikko (1880 年)が展示されていた。芸能人お宅訪問番組みたいに、室内の様子も描かれているのが個人的にうれしい。柱にお面がかかり、巻物や絵皿がたくさん。棚には、筆や壺など。暁斎は紙を前に、少しにたりとした顔。
そのギメの本を読んで、いろいろな外国人が暁斎邸にやってくる。フランス外交官のステナケルも訪れたことを暁斎は日記に書いている。そのほか日記には、弟子のイギリス人のブリンクリー(一時ブリンクリー邸にコンドルが居候していた)、イギリス人画家メンペス(ホイッスラーの弟子)も登場。
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以上、記念館でいただいた解説をもとに拾ってみましたが、暁斎はとても交友が広い。仕事の幅も広い。
コンドルは、暁斎のことを「内気で思慮深い性質」(カフェで読んだ本より。本の名前を忘れてしまった。)といっているけど、なんのなんの千客万来では。でも振り返ってみると、市井の庶民、ちょっとかわりもんの絵師、要領よく立ち回れない気骨ある人、そういった人との付き合いが多いような気も。時々登場した渡辺省亭も画壇との付き合いを絶っていたし、武四郎も政府の方針に納得できず、職を辞した。
暁斎日記には、下町仲間や弟子のことが多い。いちいち絵日記に一緒に過ごしたことを描いているくらいだから、内気と言いつつ、みんなとの時間が好きで、お友達思い、仲間思い、弟子思いなんだろう。コンドルは、暁斎は有力者からの依頼にもきちんと応えたけれど、市井の人々からの依頼で制作するときが一番幸せだった、というようなことも書いている。
当時の江戸・明治の下町に遊びにいってみたくなりました。
中庭の紫陽花。
バスの本数が少ないので、併設カフェでお茶を飲みながら調整。アイスコーヒーにフルタのチョコつき(喜)。(記念館の入館者は50円引きになります)