空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

Never Let Me Go―わたしを離さないで

2011-07-05 21:16:22 | 映画

 カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」を映画化したNever Let Me Goを観た。

 原作が文学作品の場合、原作の方がいいとか、映画の方がいいとか比較されがちだ。

 たとえば、タルコフスキーの「ソラリス」は、わたしは、断然、映画の方がいいと思っている。

 しかし、今回の場合、小説は小説として読み、映画は映画として観た方がいいと思う。

 カズオ・イシグロ自身がエグゼクティブ・プロデューサーとして映画製作に参加しているし、マーク・ロマネク監督はカズオ・イシグロの愛読者で、作者を敬愛しているので、ほぼ原作に沿った内容になっている。

 ただ、小説の題名にもなっていて、ストーリーの重要な伏線となっているNever let Me Goのカセットテープの扱いが、映画では全然違う。

 このテープを巡る話は、主人公の3人の若者の関係を微妙に変化させていく重要なディテールになっていて、小説の中でもわたしの好きな部分なので、少し肩透かしを食った感じがした。

 けれども、語り手で主人公のキャシーを演じたキャリー・マリガンがあまりにもすばらしく、彼女の静かな存在感がこの映画を成り立たせていると言っても過言ではないだろう。

 キャシーの幼なじみ、ルース役のキーラ・ナイトレイ、トミー役のアンドリュー・ガーフィールドともども、臓器提供のために育てられたクローンというあり得ない状況で生きて行かなければいけない若者を、本当によく演じていた。

 小説では読者の想像に委ねられる風景や登場人物を、映画では実際の風景として映し出し、人間として肉付けし、演じなければいけない。

 原作はリアリズム小説ではない。カズオ・イシグロの作品の特徴である、語り手の記憶が、いくつもの重層的な物語を物語るという、複雑な構造になっている。

 映画化するにあたって、難しい点がたくさんあったと思う。そういう意味で、この映画は、監督も、カメラも、演技者も、よくやったなあと思う。

 ただし、わたしは原作を読んでいるので納得できたが、原作を読んでいない観客は、この映画をどのように観るだろうか。

 映画の最後に、ルースもトミーも、臓器提供を2回、3回と繰り返して終了して(死んで)しまい、自分も提供の通知を受けたキャシーが、「提供者の私たちと提供を受ける人間の間に違いがあるだろうか。どちらも、いつかは終了が来る」と言う場面がある。

 作者も、「臓器提供のクローンという状況は特別なものではない。すべての人間にあてはまる物語なのだ」と語っている。

 そのことを、キャシーのセリフで語らせたと思うのだが、このセリフが原作にあったかどうか忘れてしまったけれども、映画として、ちょっと直接的表現すぎるなあ。キャシーやルースやトミーの生きた軌跡が十分に、作者の意図を伝えていると思うのだが。

 しかし、静寂さに満ちた風景の中に、3人の若者の人生を美しく描いた、いい映画である。


テンペスト

2011-06-20 21:35:49 | 映画

 ジュリー・テイモア監督の「テンペスト」を見た。

 10年ぐらい前に、ジュリー・テイモア監督の「タイタス」を見て、彼女の演出の才能に魅かれた。ミュージカル「ライオンキング」で、文楽やインドネシアの仮面劇にヒントを得て、あの有名な動物の衣装というか装置を考えた演出家である。

 「テンペスト」も「タイタス」もシェイクスピア劇だ。シェイクスピア劇のすばらしさは、能、文楽、歌舞伎など日本の伝統演劇と同様、人間の典型と普遍性を描いている点だ。古めかしく、型にはまったセリフやストーりーの中に、どの時代、どの世界にも通じる人間の有り様が見えてくる。

 昔のシェイクスピア劇を映画化した作品、たとえばイギリスの名優、ローレンス・オリビエの「ハムレット」や「オセロ」、エリザベス・テイラー、リチャード・バートンの「じゃじゃ馬ならし」などは、舞台をそのまま映画化したような内容だったが、「タイタス」は、反吐が出るような残酷劇であるにもかかわらず、重厚で美しい映像表現に感動した覚えがある。

 「テンペスト」は、ジュリー・テイモア監督のシェイクスピア劇であり、主演が、これも私が好きなヘレン・ミレンだから、ずっと前から上映を楽しみにしていた映画だ。

 ヘレン・ミレンという女優を初めて見たのは、NHK-BSで放映されていた「第一容疑者」というイギリスのテレビ・ドラマ。もう若くはない女性刑事を演じていて、男社会で生きていく生身の女の生活感が何とも言えずよかった。とても好きなドラマだった。

 ちなみに、イギリスのテレビドラマは、シリアスドラマでも、コメディーでも、あちこちに皮肉や、屈折したユーモアがちりばめられていて、気に入っている。

 ヘレン・ミレンはその後、テレビでエリザベス1世、映画でエリザベス2世を演じ、いろいろな賞を総なめにしている。

 「テンペスト」は、原作では、主人公がミラノ大公プロスペローという男なのだが、ヘレン・ミレンも、ジュリー・テイモア監督も、女性を主人公にしてやりたいと同時に思っていて、それがこの映画化につながったという。

 ヘレン・ミレンの演じる女性は、「第一容疑者」の女性刑事でも、エリザベス女王でも、「テンペスト」のプロスペラでも、生身の女性の体温が感じられる。だから、見ている者は、ヘレン・ミレン演じる女性の痛みや悲しみ、怒りを共有することができる。

 「テンペスト」の主人公を女に変え、それをヘレン・ミレンが演じたことは、この映画を成功させた大きな要素になっていると思う。

 「テンペスト」も、「タイタス」と同様復讐劇だが、「タイタス」の主人公は、アンソニー・ホプキンス演じるタイタス・アンドロニカス将軍で、徹底的な復讐があらゆる者の命を奪い、何も生み出さない悲劇で終わっている。いわば、不寛容な男性原理のもたらす悲劇である。

 「テンペスト」は、シェイクスピアの最後の作品で、復讐劇ではあるけれども、最後は許しで終わる。主人公を女にしたことによって、それもヘレン・ミレンが演じることによって、復讐劇も、娘を見守る母親としての愛情も、最後に許すことを選ぶプロスペラの寛容も、自然に納得がいく。女性原理は、時には世界を滅ぼしもするが、一方で豊かなものを生み出す大地でもあるからだ。

 ジュリー・テイモアの演出は、今回もすばらしいものだった。

 プロスペラが幼い娘を抱いてたどり着いた島の先住民・怪物キャリバンを、西アフリカ・ペニン出身の黒人俳優ジャイモン・フンスーが演じている。キャリバンが登場したとたんに、観客は、彼が黒人であり、後から島にやってきてキャリバンを征服し酷使するプロスペラが白人であることを認識しないわけにはいかない。

 自由の身にしてやるという約束のために、プロスペラの手足となって変幻自在に飛び回る妖精エアリエルは、映画ならではの描き方がされていて、とても美しかった。もう一人の主人公と言えるかもしれない。

 許すことを選択したプロスペラは、洞窟の宮殿に築き上げた研究装置を壊し、最後に魔法の本と杖を海に投げ入れる。魔法の本が海の底へ沈んでいく映像とともに歌のようなプロスペラのセリフが流れる。

 セリフの言葉をはっきりとは覚えていないけれども、わたしには今の世界、とりわけ、東北大震災と福島原発事故を体験した日本へのメッセージのように思えた。

 「怒り狂った大地と海の神よ、どうか怒りを鎮めたまえ。原子という火を盗んで、傲慢にもコントロールしようとした人間の愚かさを許したまえ。そして、自然と人間、人と人が、支配し、支配されることをやめ、すべてが調和のとれた、平和な世界にもどれますように」という祈りの言葉に聞こえた。


ダンシング・チャップリン

2011-05-17 21:22:57 | 映画

 久しぶりに映画を見て感動した。周防正行監督の「ダンシング・チャップリン」という映画。

 東日本大震災以来、あまり映画を見なかった。

 いつも行く珈琲亭のマスターお勧めの「阪急電車」を見に行ったが、悪くはないけれど、世間の評判ほどには共感しなかった。

 見たいと思っていた映画に間に合わなくて、代わりに見たのが「まほろ駅前多田便利軒」。瑛太と松田龍平という、人気の男優を使った安易な映画に思えて、中身にもこれまた共感できなかった。

 時には好みでない映画も見てみようと行ったのだが、街の本屋の書棚を占領しているライトノベル風の映画で、本格小説の愛好家としては、シニア料金だから許せるけれども、1800円は払えないなあ。

 周防正行は私の好きな監督のひとりだ。ちなみに、一番好きな日本の映画監督は「台風クラブ」「お引っ越し」の相米慎二。53歳という若さで亡くなったのが残念でたまらない。

 「ダンシング・チャップリン」は、どんな映画なのか、何の前知識もなく見た。そして、何度でも見たいと思ったほど感動した。

 全編に愛と尊敬があふれている。映画への、チャップリンへの、バレエへの、振付家ローラン・プティへの、バレエダンサー、ルイージ・ボニーノへの、バレリーナであり妻である草刈民代への……。

 あらためて、映画という芸術の可能性を知らされたし、チャップリンの偉大さを再認識した。

 バレエの舞台を見なくなってから随分になる。バレエを習っている小学校の友達の発表会を見て以来、その美しさ、優雅さ、ダイナミックな動きに魅せられて、ソ連時代のボリショイ・バレエ、レニングラード・バレエ、マーゴット・フォンテーンのロイヤル・バレエなど、高い料金を払って見に行った。

 近ごろは、もっぱらテレビでの鑑賞ばかり。それでも、NHKが毎年放送するローザンヌ・バレエ・コンクールは、欠かさず見る。

 チャップリンを演ずるルイージ・ボニーノのことは知らなかった。ローラン・プティがルイージのために、この作品を振付けていたことも知らなかった。草刈民代が、こんなに魅力的なバレリーナであることも、ローラン・プティの作品を数々踊っていることも、この映画を見るまで知らなかった。

 バレエについても、新しい目を開かれた映画だった。

 バレエを見て、泣いたことも初めてだった。

  


まとめて映画のこと

2011-03-07 22:07:29 | 映画

 シルバー料金で映画を見られるようになって、よく映画に行くようになった。

 平日の昼間は、私と同世代の中高年が多い。料金が安いのと、時間ができたせいでもあるが、テレビ漬けになる前に映画の洗礼を受けて、映画の面白さを知っている世代なので、せっせと映画館に足を運ぶのではないだろうか。

 両親の介護が始まってからは、映画は絶好の気分転換になるので、昨年から今年にかけて、立て続けに見た。ブログに書かなかったもので、印象に残った映画を羅列してみると、「幸福の雨傘」「愛する人」「ハーブ&ドロシー」「ヤコブへの手紙」「ノーウェアボーイ」など。

 先日は、中国映画「再会の食卓」を見ようと出かけたが、間違えて別の映画館に行ってしまった。ちょうど10分後に、コーエン兄弟監督の「シリアスマン」が上映されるとのことだったので、まっ、いいかとそのまま入場。

 おもしろかった。コーエン兄弟が生まれ育ったユダヤ人コミュニティーの描き方や、登場人物のセリフ、スピーディーな展開、どれもコーエン兄弟の才能が感じられた。アカデミー賞を取った「ノーカントリー」の方が好きな作品だが、「シリアスマン」もなかなかいい。

 コーエン兄弟の映画は、ほかのハリウッド映画と違って、監督が作りたい映画を作っているという感じがする。スリラー映画なのにどこかおかしくて、残酷な場面なのにどこか神話的あるいは寓話的。

 週末は自宅のテレビで、偶然放送されていた映画を見た。先週はロミー・シュナイダーの「プリンセス・シシー」3部作、今週はジュリー・デルピーの「恋人たちの2日間」。

 ロミー・シュナイダーは、少女時代、テレビ名画座で「制服の処女」を見て以来、憧れの女優だ。

 アラン・ドロンとの婚約解消以後、彼女の実人生は不幸が続き、最愛の息子の事故死、自らは睡眠薬の大量服用で43歳の若さで亡くなった。遺作となった「サン・スーシの女」は、彼女の悲劇的な死の影があらゆる場面に漂っているような映画だった。

 皇妃エリザベートを描いた「プリンセス・シシー」は、ロミーの若き日の作品で、その輝くような美しさには微塵の陰りもない。それが、却って痛々しく感じられる。

 「恋人たちの2日間」は、題名も出演者も分からないまま見ていた。内容が「恋人までの距離〈ディスタンス〉」に似ているなあと思ったら、「ディスタンス」に出ていたジュリー・デルピーが監督・脚本・主役を務めていた。

 「ディスタンス」は原題が「Before Sunrise」。続編の「Before Sunset」とともに、ジュリー・デルピーとイーサン・ホークが恋人同士を演じていて、日の出まで、あるいは日没までの短い時間に街を歩き回り、二人の会話だけで成り立っているような映画だ。その二人のセリフがすごくいい。

 「恋人たちの2日間」も、登場人物は多いけれども、フランス女とアメリカ男の恋人たちの会話を中心に、いろいろな人物との間にやりとりされる会話が、とてもおもしろかった。

 恋人同士の会話、家族との会話、別れた男との会話、タクシーの運転手との会話などをとおして、現代のフランス社会、男女、家族のあり方、フランスとアメリカ文化の違いなどが描かれている。脚本を書いたジュリー・デルピーはすごいと思う。

 映画って、やっぱりおもしろい!

 

 

 


イサク・ディーネセン

2011-01-21 13:42:51 | 映画

 ここ数週間、自宅に帰る途中、寄り道して、立て続けに映画を見た。

 オゾン監督の「しあわせの雨傘」、ロドリゴ・ガルシア監督の「愛する人」、そして、「バベットの晩餐会」。

 どれもいい映画だったが、とくに「バベットの晩餐会」は、20年以上前に見て、テレビでも何回か放映されるたびに見て、ビデオに撮って何度も見る、という具合に、繰り返し見ては、そのたびに、深く考えさせられた映画である。

 今回は、tohoシネマズの「午前10時の映画祭」で、久しぶりに映画館で見られるというので、前から楽しみにしていた。

 記憶に残っているいちばん好きな場面は、晩餐会が終わって、招待客の将軍が、姉娘のマチーヌに愛を告白するところだったが、今回は、最後にバベットが、自分の料理と芸術について語る場面に強く心を打たれた。

 その場面こそ、この作品のテーマであるにもかかわらず、こんな場面があったことを覚えていなかった。さらに、この原作を書いた人は、きっとすごい作家にちがいないと確信して、調べてみると、なんと、アイザック・ディネーセンだった。初めてこの映画を観たとき、原作が彼女であることを知っていたはずなのに、それも忘れてしまっていたのだ。

 原作は、ちくま文庫で出ているので、すぐに買って読んだ。

 翻訳した桝田啓介さんによると、映画「愛と哀しみの果て」の原作者(原題はOut of Africa、日本では「アフリカの日々」)として広く知られるようになったときに、イサク・ディーネセンとすべきところを、アイザック・ディネーセンという誤った表記が広まってしまったそうだ。

 初めてディーネセンという女性の存在をを知ったのは、フェニミズムに共感して、その関係の本を乱読していたその昔、圧倒的な男性社会で、それぞれの生き方を模索した何人かの女性の生涯を紹介した本を読んだとき。

 本名は、カレン・ブリクセン。女性関係の絶えない夫に性病まで感染させられ、一生苦しめられたこと。アフリカに渡って農場経営をし、失敗してデンマークに帰国、中年になってから男性名で作家活動をしたこと。知的で美しい写真も載っていて、とても興味を持ったことを覚えている。

 今回、原作を読んで、映画と表現の仕方が違うところもあり、デンマーク語で読めたらいいのにと思った。

 内容が、宗教、愛、芸術についての物語であり、ヨーロッパの文化や歴史、地理についての知識や見識があれば、文章の向こう側に、もっと豊かな風景も見えてくるのではないかと思った。ディーネセンの文学は、そんな文学である。

 

 


武士の家計簿

2010-12-10 11:37:41 | 映画

 映画「武士の家計簿」を見た。

 以前、原作となった磯田道史さんの「武士の家計簿」(新潮新書)を読んで、それまでの江戸時代観が変わった覚えがある。

 磯田さんは、神田の古本屋で反故同然の古文書を発見し、それを読み解いて、幕末期の金沢藩の武士の生活を生き生きと描いていた。著者が、古文書を読み解きながら、わくわくしている気持ちが、そのまま伝わってくるような本だった。研究というのは、こういうことなんだと、感動した。

 小説ではなく、歴史の研究書を原作にして、森田芳光監督がどんな映画をつくったのかという興味、主役の堺雅人以下、面白そうな配役陣への興味から、封切前から見に行こうと決めていた。

 期待を裏切らない映画だった。

 自分が精神的にしんどい時は、あまり深刻な映画は見たくない。能天気なものも、かえって気分が滅入る。 この映画は、しんどい人も、しんどくない人も、誰が見ても、それぞれの立場で受け止めて見ることができる映画である。

 平日の昼間だったので、観客は中高年が多く、共感することしきり、笑いも涙もあり、上質の娯楽作品だと思う。

 主人公を演じる堺雅人は、この人以外にこの役は出来ないのではないだろうかと思わせるほどぴったりだったし、その妻役の仲間由起恵も、老夫婦役の松坂慶子、中村雅俊、おばば様の草笛光子、義父の西村雅彦も、みんな役どころを見事に押さえて演じている。

 幕末の下級武士の家庭を描きながら、現代世相への風刺も絶妙にちりばめられており、さすが森田芳光監督! と感心した。

 見終わった後、昔も、今も、人にも自分にも誠実に、つつましく生きることが、美しく、人間も幸せでいられるのではないだろうかという思いを強くした。

 


レオニー

2010-11-29 23:14:09 | 映画

 半年ぶりに映画館で映画を見た。松井久子監督の「レオニー」という映画で、彫刻家、イサム・ノグチの母、レオニー・ギルモアを描いたもの。

 昔、京都近代美術館でイサム・ノグチ展を見て以来、彼の作品はもちろん、その生涯に心ひかれた。ドウス昌代の「イサム・ノグチ~宿命の越境者」は、気になりながら、まだ読んでいない。映画は、それをベースに作られたそうなので、絶対に見たいと思っていた。

 しかし、本をベースにしているものの、シナリオは、監督の解釈と想像力で書いたと、パンフレットにはある。

 本を読んでいないので比較はできないが、映画を見た限りでは、この作品は、イサム・ノグチや、母、レオニー、父、野口米次郎の生涯に起こった事実を描くというより、3人を結び付けている芸術を描いた、魂の物語だと思った。

 イサム・ノグチは、母、レオニーの芸術に対する愛と、父、米次郎の詩への愛から生まれた芸術家だ。

 もちろん、肉体をもつ人間だから、時代や社会の影響を受けざるを得ない。

 しかし、優れた芸術作品が人間を感動させるのは、時代や社会の制約を受けながらも、それを超越した魂の活動から生み出されたものだからだ。

 レオニーがさまざまな障碍を乗り越えられたのは、芸術への愛、詩人である米次郎への愛があり、芸術への確信があったからだし、米次郎がレオニーを愛し、彼女を手放したがらなかったのは、必ずしも、男の身勝手ばかりではない。

 彼もまた、レオニーの芸術を愛する魂を愛し、その魂の純粋さ、確かさを分かっていたと思う。

 半面、肉体を持つ人間として、社会や時代を無視できない、そういう矛盾した男、米次郎役に中村獅童を選んだ松井監督の狙いは見事当たっている。

 世俗的な制約を振り切って、魂の命ずるままに生きるレオニーと、世俗を捨てきれない米次郎は、ある意味、人間のあり方の象徴である。

 レオニーを捨てた米次郎は、現代の倫理観からは非難されるべきだろうが、大部分の人間は、大なり小なり、米次郎のような生き方をしているのではないだろうか。

 イサム・ノグチの母、レオニーの生涯を描いたものだと理解して映画を見た人は、期待を裏切られたかもしれない。

 私は、松井監督の芸術に対する思いを、もっと前面に出して描いてもよかったと思うが、映画は一人ではできない。さまざまな制約があったと思う。

 それを乗り越えて、7年がかりで完成させたのは、すごいエネルギーだ。

 レオニー役のエミリー・モーティマーもよかったし、音楽も映像も見事。

 映画は、やはり、すばらしい総合芸術だ。

 まったく偶然にも、映画が終わった後で、松井監督本人が現れて挨拶された。「一度では分からないので、二度、三度見てほしい」と言われた。

 できるなら、もう一度見に行きたい。