空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

ラテンジャズ・カルテットのライブ

2018-10-17 23:41:00 | 音楽

 久しぶりにラテンジャズ・カルテットのライブに行った。

 元々ジャズが好きだった私を、姪が誘ってくれて聞きに行ったのが最初。

 ラテンジャズというジャンルになじみがないまま聞きに行ったが、はまってしまって、姪が遠くへ引っ越して一緒に行けなくなってからも、ライブがあるたびに妹や友人と行くようになった。

  毎回顔を見る固定ファンがいて、名前は知らないけれど、言葉をかけたり、かけられたりする。

 パーカッションの安藤弘、ピアノの中島徹、フルートの福留敬、ベースの西川サトシの個性的な4人の絡み合いが絶妙で、今回、初めて誘った友人も、4人ともすごいと感嘆していた。

 中でも、安藤さん(アンディーと呼ばれている)のパーカッションと、中島さんのピアノの掛け合いがすごい。

 若いころ少しピアノを弾いていたせいもあって、ジャズの中でも、ジャズピアノが好きで、中島さんのピアノには最初から聞きほれて、たちまちファンになってしまった。

 クラシック音楽もピアノが好きで、中でもディヌ・リパッティ、グレン・グールドは別格。

 高校生時代、お金がなくてクラシックのレコードをなかなか買うことができず(当時LP盤は咲最低3000円はした)、リパッティは深夜ラジオでグリークのピアノコンチェルトを聞いて心を揺さぶられ、グールドは同じく深夜ラジオでバッハのゴールドベルグ変奏曲を初めて聞いて感動し、大好きになったピアニストだ。

 活躍した時代も違う、リパッティは戦後まもなく若くして亡くなって良い録音が残っていないし、グールドは音楽界のみならずマスコミにこぞって取り上げられた世界的寵児という違いもある。

 しかし、ふたりとも、鍵盤に指を下ろし、ハンマーがピアノ線を叩いて出てくる音そのものが、音楽の本質的な響きを持っている。その点で共通点があるように思うのだ。

 中島さんのピアノも、ジャズとかクラシックとかいう、ジャンルを問わず、ピアノ線を叩いて出てくる音そのものの響きが好きだ。彼独自の音楽的世界を感じる。

 ライブは、以前は難波のJAZZ SPOT 845で開いていたが、そこが閉店して、しばらくライブがなかった。

 昨年から、大阪・上本町のハイハイタウンのSTAR LIVE U6で再開した。広さ、音響とも、なかなか良い会場だ。

 ライブがあるたびに聞きに行っていたのが、2回ほど、用事や台風で行けず、今回は何カ月かぶりだ。

 ラテンジャズというジャンルは、私は何の知識もないが、安藤さんと中島さんが漫才ふうの掛け合いで解説してくれるので、とてもありがたい。

 それに、ラテンジャズは大体がダンス音楽で、ボーカルが入ったり、会場でダンスをする客が多いなか、ラテンジャズ・カルテットは、大人向きというか、私のようなオールド・ジャズ・ファンでも、違和感がない。

 時々、なじみ深いジャズのスタンダード・ナンバーを、彼らふうにアレンジして聞かせてくれるので、「ホーッ、あの曲がこんなふうになるのか」という発見もあって楽しいのだ。

 今回は、ラテンの国々というより、ニューヨークのラテン・コミュニティーで活躍したミュージシャンの曲が中心だった。

 というのは、この10月に、ニューヨークのラテンジャズのバンド、ザ・フォート・アパッチ・バンドのトランぺッターでパーカッショナーのジェリー・ゴンザレスが亡くなったので、彼を追悼する形のライブになった。

 ジェリー・ゴンザレスというミュージシャンも、アパッチ・バンドも知らない。

 後でネットで調べると、亡くなったのは10月1日で、何と、シャンソン界の巨匠、シャルル・アズナヴールが亡くなったのと同じ日である。ニューヨークのサルサ・シーンで活躍し、ラテンとジャズを融合させたという解説があった。

 安藤さんにとっては、同じパーカッショナーのゴンザレスの死のニュースはショッキングだったろう。

 ゴンザレスはラテンにジャズを取り入れたとか、ラテンとジャズを融合させたというより、彼が生きたニューヨークのラテン・コミュニティーの生活そのものから生まれた音楽というべきだろう、と安藤さんは言った。

 その言葉がとても心に響いた。

 ゴンザレスへの追悼の言葉でもあり、音楽とはその人が生きている世界、生活から生まれたもので、ジャズだとか、クラシックだとか、ラテンだとか、ジャンル分けするものではない、という、安藤さんの音楽に対する思いがあったように思う。

 


至福の時ふたたび~ギドン・クレーメル&リュカ・ドゥバルグを聴く

2016-06-08 01:36:04 | 音楽

 6月5日兵庫県立芸術文化センターで、ギドン・クレーメルとリュカ・ドゥバルグのリサイタルがあった。

 昨年はギドン・クレーメルとクレメラータ・バルティカの演奏を聴き至福の時を過ごしたが、クレーメルのソロを聴くのは今回が初めてだ。

 プログラムは、①ワインベルグ:無伴奏バイオリンソナタ第3番 ②ショスタコーヴィチ:バイオリンソナタト長調 ③ラヴェル:バイオリンソナタト長調 ④フランク:バイオリンソナタイ長調。

 ワインベルグの無伴奏は初めて聴く。クレーメルは、現代の、それもあまり注目されない作曲者の作品を発掘するのに力を注いでいる。

 ワインベルグはポーランド生まれで、ショスタコーヴィチの盟友だったそうだ。スターリン時代には投獄され、貧窮の生活を送った人だという。芸術を通してスターリンと闘い続けたショスタコーヴィチの作品と同様、内なる叫びが聞こえてきそうな曲だ。同じソビエト支配下のラトビアで生まれ育ったクレーメルにとって、ワインベルグは音楽家として共感するものがあるのだろう。

 初めて聴く曲でも、クレーメルの演奏は、聞く者の心をわしづかみにし、最後まで、緊張をもって聞かせる。

 2階の、ちょうど舞台のクレーメルを斜め後ろから見下ろす席で、表情が見えないのが残念だったが、指使い、弓使いがよく見えたし、後ろ姿でも、クレーメルの曲に対する姿勢がちゃんと伝わってきて、最初の曲からもう感動!

 ショスタコーヴィチから、ピアノのリュカ・ドゥバルグが登場。

 昨年のチャイコフスキー国際コンクールで4位だったが、その才能を認められて、名だたる演奏家から、共演を申し込まれたそうだ。

 本格的にプロのピアニストを目指したのは20歳になってからだという。

 最初の音を聴いただけで、この若いピアニストが並々ならぬ才能の持ち主だということをうかがわせた。

 単なる伴奏者ではない。クレーメルとドゥバルグの真剣勝負のような共演は、とてもスリリングだった。

 クレーメルは、この若い演奏者とのやり取りが楽しくて仕方がないという感じだ。老巨匠が、孫のような若者の才能におおいに刺激され、また愛情深く見守っているようなところもある。

 一方のドゥバルグは、時折クレーメルのほうに視線を向けて、巨匠との呼吸を完璧に合わせようとする姿がほほえましい。そこには尊敬の念が感じられる。しかし、巨匠の前で臆することなく、堂々と自己主張している。若くして才能を認められた演奏者によく見られるような、突っ張ったようなところがなくて、自然に、軽やかに自己主張しているという感じだ。

 ショスタコーヴィチが二人の演奏を聴いていたら、我が意を得たりと、満足の笑みを浮かべたと思う。

 ラヴェルになると、ドゥバルグはまた違った表情を見せて、繊細な、ピアニッシモの音もしっかりと深いところから響いてくる。

 一番圧巻だったのは、やはりフランクのバイオリンソナタだ。老巨匠と新人、二人の天才が生み出す音楽が、あたかも嵐の中で激しく岩に打ち寄せる大波のように、会場を震わせる。

 ドゥバルグの若さに引き込まれるように、クレーメルは持てるエネルギーを最大に使って、この大曲とがっぷり四つに取り組んだという演奏だった。

 演奏が終わったとき、会場は、満席ではなかったにも関わらず、まさに万雷の拍手で揺れ動いた。観客の方も、持てるエネルギーを最大に使って、この曲を全身で受け止めたという感じなのだ。

 69歳のクレーメルは、フランクのソナタで、全エネルギーを使い果たしたかのように見えた。体力的にもそうだが、全身全霊をこの曲に注ぎ込んだと思えるような演奏だった。それに応えるように、ドゥバルグの演奏も完璧だった。

 アンコールを要求するのは酷なように思えたが、それでも、イザイの小曲を一曲演奏してくれた。

 翌日と翌々日は東京でのコンサートだが、クレーメルさん、体力は大丈夫かなあ。

 クレーメルのバイオリンを堪能できたのは言うまでもないが、ドゥバルグという若い才能に出会えた、すばらしいコンサートだった。

 

 

 


ギドン・クレーメル&クレメラータ・バルティカ~4つの四季を聴く~

2016-02-12 16:07:44 | 音楽

 友人と発行しているミニコミ紙『望空游草』第8号からの転載記事です。

~☆~☆~☆~☆~

 先月、兵庫県立文化芸術センターで、「ギドン・クレーメル&クレメラータ・バルティカ」の演奏を聴いた。「4つの四季」と題されたコンサートだ。

 四季と言えば、ヴィバルディのバイオリン協奏曲《四季》を思い浮かべるが、その《四季》へのオマージュとして後世に作曲された、四曲の「四季」で構成されている。

 20年ほど前に見た映画「無伴奏『シャコンヌ』」の中で、主人公が弾くバイオリンを演奏していたのがギドン・クレーメルだった。心を揺さぶられ、すぐにCDを買った。

 バッハの「無伴奏バイオリン・ソナタとパルティータ」だ。パルティータ第2番第5楽章が「シャコンヌ」。卓越した技巧が必要とされることで有名な曲だが、クレーメルの演奏は自由で軽やかだ。映画では、主人公の弾く「シャコンヌ」が貧しい人々を癒していく場面が圧巻だった。

 以来、ギドン・クレーメルは私にとって特別な音楽家となった。 

 ギドン・クレーメルは1947年、旧ソ連領だったバルト三国のラトヴィア生まれ。両親はドイツ系ユダヤ人で、父親はホロコーストから逃れて生き延びた人だという。

 彼が1996年、バルト三国の若く才能のある演奏家を集めて創設した室内オーケストラが「クレメラータ・バルティカ」だ。

 ヴィバルディの《四季》と、ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」を収めた「エイト・シーズンズ」が彼らの最初のアルバムだ。

 まったく異なった二つの四季が楽章ごとに交互に演奏されていて、違和感がない。これも発売されるとすぐに購入し、中毒になるほど繰り返し聴いた。

 今回のプログラムは、一番目は、チャイコフスキーのピアノ曲集《四季》を編曲したもののダイジェスト、いわばロシアの四季。

 二番目は、フリップ・グラスの「バイオリン協奏曲第2番《アメリカの四季》」。

 三番目は、梅林茂の「バイオリンと弦楽オーケストラのための《日本の四季》」。

 最後がピアソラの「ブエノスアイレスの四季」。CDで聴き慣れたヴィバルディの《四季》が入っていないのが残念だと思ったが、初めて聴く《アメリカの四季》と《日本の四季》には感動した。

 《アメリカの四季》から、クレーメルが独奏者として登場した。

 クレーメルとクレメラータ・バルティカの演奏は、フルオーケストラのように迫力があった。

 フィリップ・グラスは、ロバート・マクダフィーというバイオリニストから、ヴィバルディの《四季》とともに演奏できる協奏曲をと依頼されて、2009年にこの曲を発表したそうだ。初めて聴く曲だったが、始まってしばらくするうちに、不思議な感情に襲われた。

 敬愛してやまないクレーメルの登場のせいか、フィリップ・グラスの音楽のせいか、地下水が土の表面に滲み出るように、心の奥底に沈殿していたものが上昇し始めた。

 最初は、「ああ、こんなにすごい空間に身を置くことができる私は、なんと幸せだろう」というような、喜び、感謝の感情だった。

 ふいに、私にこの幸せを感じることができるようにしてくれたのは、母だったと思い至った。

 母が亡くなったのは4年前だ。2年前の父の死の時には、十分な時間と心の余裕があったので、父のことは穏やかに思い出すことができる。

 母の死は、肺炎が急激に悪化して急だったのと、父の介護とが重なって、現実に心が追い付いて行かなかった。今でも、思い出すとつらい。

 そんな感情に蓋をしていたのだろう。クレーメルの演奏で、その蓋が外れてしまったようなのだ。

 涙があふれてきて、どうしようもなかった。音楽に夢中になったころの私を後押ししてくれたのが母だった、ということに思いが至ると、堰を切ったように、音楽にまつわる母との思い出がよみがえってきた。

 クラシック音楽に目覚めたのは小学校六年か中学生のころだ。

 私は扱いにくい子どもで、母は手を焼いていたと思う。思春期になると感情を爆発させることもたびたびだった。

 クラスメートによるいじめもあって、そういう娘とどう向き合えばいいか、母はずいぶん悩んだことだろう。

 私がクラシック音楽に夢中になったのを見て、まず、母がしてくれたのは、オルガンを買ってくれたこと。次に、中学生になったとき、1カ月1000円で指導してくれるピアノの先生を探してきた。

 しかし、彼女は主婦の仕事の片手間に教えるというような先生で、生徒は私と小学生の男の子だけ。いやになってバイエルを終了するまでは続かなかった。

 次に母は、国に帰るドイツ人が中古のピアノを売るという情報をどこからか仕入れてきて、そのピアノを買ってくれた。安く手に入ったとはいえ、ずいぶんの決断だったと思う。

 鍵盤の象牙は黄色く変色して、しょっちゅう音が鳴らなくなったが、マホガニー色のピアノは私も母も気に入っていた。後に父が、調律師にも見放されたピアノを処分してしまったことを、「あのピアノはいいピアノだったのに」と晩年にいたるまで残念がっていた。

 高校の時、小遣いをためて、大好きなベートーベンの交響曲全集のレコードを揃えるのを楽しみにしていた私に、「今度の試験の成績がよかったら、買ってあげる」と母は言った。

 成績は思ったほど上がらなくて、あきらめていたのに、母はお金を出してくれた。信じられなかった。後に母は言ったものだ。「音楽で少しでもあんたの心が優しくなればと思ってね」と。

 貧しくて高等小学校までしか行けなかった母だったが、よく本を読んだ。クラシック音楽の趣味はなかったが、音楽も好きだった。経済的に恵まれて、思い切り勉強ができていたら、母にはもっと自分の才能を生かした別の人生が開けていたかもしれない。

 訳の分からない感情に振り回され、自分をコントロールするすべを知らずに苦しんでいる思春期の娘を見て、自分ができなかったことを、娘にさせてあげたいと思ったのだろう。

 思春期をなんとかやり過ごすことができたのは、本と、音楽のおかげだと思っている。その手助けをしてくれたのが母だったのに、感謝の気持ちをちゃんと伝えることができないうちに、母は旅立ってしまった。

 なぜ、クレーメルの演奏が、閉じていた心の蓋を開けたのか。

 映画の中で、病み疲れた人々を立ち上がらせた、その時と同じ音楽の力が働きかけたとしか言いようがない。

 ギドン・クレーメルは、音楽の持つ力を知っている人だと思う。

 彼は、子どものころから「お前は何者だ」と自分に問いかけてきたそうである。

 もって生まれた才能のほかに、彼がユダヤ人であること、旧ソ連領のラトヴィアで生まれ育ったこと、すなわち、音楽よりほかに拠り所とするものがないという環境が、ギドン・クレーメルという音楽家を生んだのではないだろうか。

 信仰が貧しいものにとってより必要とされるように、音楽もまた、魂が危機にさらされたときにこそ、その力を発揮する。そのことを、クレーメルは、自らの経験によって知っていたのだと思う。

 クレメラータ・バルティカを、バルト三国の若者で構成したことも、音楽の力を知る演奏家に育ってほしいという思いがあるのではないだろうか。

 フィリップ・グラスの曲は《アメリカの四季》と題されてはいるが、《ラトヴィアの四季》《エストニアの四季》《リトアニアの四季》 といってもいいほど、彼らの身体や魂から直接流れ出してくるような演奏だった。

 梅林茂の《日本の四季》を聴いていると、高畑勲監督のアニメ映画「かぐや姫の物語」に描かれた日本の四季の風景が思い浮かんだ。

 高畑勲のあの筆致で描かれた日本の四季に、この音楽を重ねたら、とても美しい映像作品が出来上がるのではないかと想像した。

 梅林茂氏のことを調べたら、数多くの優れた映画音楽を作曲している人だったので、高畑勲の映像を思い浮かべたことも納得できた。

 「New Seasons」という新CDに収められている梅林茂作品は、《日本の四季》ではなくて、《夢二のテーマ》という曲だ。これは、ウォン・カーウァイ監督の映画「花様年華」に使われていて、大人の微妙な恋を描いた映画によく合っていた。

 それが梅林作品だったとは。ギドン・クレーメルはこの曲が気に入って、今回、《日本の四季》を梅林に委嘱したのだそうだ。

 「ブエノスアイレスの四季」について書くスペースがなくなりそうだ。

 CDでは、ヴィバルディの《四季》と交互に演奏されていたので、一気に聴くのは初めてだ。実にのびのびと自由に演奏していて、この曲も彼らのために作曲されたのではないかと思えるほど。

 ジプシー音楽か、ジャムセッションのように音が自由に飛び交い、思わず体が動いてしまう。

 映画の中で「シャコンヌ」が鳴り響いたのは、貧しい人々がたむろする地下空間だった。今回は兵庫県立芸術文化センターの立派なホールだ。けれども、音楽が奇跡を起こす空間という点では同じだ。

 コンサートが終わって席を立つ聴衆の表情は、至福の時を過ごしたという喜びにあふれ、晴れやかだった。

 音楽という魂の贈り物をくれたギドン・クレーメルとクレメラータ・バルティカに、心からの拍手と感謝を送りたい。

 


ブラームス

2015-01-22 23:29:43 | 音楽

 友人に誘われて、久しぶりに大フィルのコンサートに行った。

 会場はフェスティバル・ホール。昔のホールが建て直されてからは、初めて行く。

 私が若いころは、著名な外国の演奏家のコンサートにふさわしいホールは、フェスティバル・ホールしかなかった。

 大阪ではほかに毎日ホールがあったが、こちらは演劇が中心だった。

 レニングラード・バレエの公演では、群舞のときには、踊り手が舞台から落ちるのではないかと思われるほど舞台が狭かった。

 大阪の文化状況の貧しさは、フェスティバル・ホールが昔より広く立派になったとはいえ、当時も今も貧しい。代表的な大阪文化である文楽さえも、市の助成金が削られた。

 年末の御堂筋を電飾で飾り立てて、経済効果があったと悦にいっている市長さんの文化程度にはあきれるばかりだ。

 大フィルも大阪市の助成金が削られて、財政的に苦しそうだ。

 中心的なプログラムは、ブラームスの交響曲第1番。ブラームスの交響曲を聞くのは久しぶり。

 私はレコードしか持ってなくて、蓄音機が壊れてからは、新しい製品を買っていないので、ずいぶん長い間、ブラームスの交響曲を聞いていない。

 レコードは、カール・ベーム指揮、ベルリンフィルの演奏で、繰り返し聞いて、その演奏に馴染んでいるせいか、今回の大フィルの演奏は、少し軽い感じがした。

 指揮者はあまり知らない人だったが、経歴を見ると、とても優秀な人らしいし、実際にその指揮ぶりを見ていると、優れた指揮者のように思われた。

 演奏が軽く感じられたのは、指揮者のせいというより、オーケストラ・メンバーが、とても若い人が多く、弦楽器は、ほとんどが若い女性で、大フィルを支えてきたベテランらしい演奏者は少ないように思われた。

 彼女たちが演奏している様子を見ていると、もう一つ、粘りのある演奏ができていない。

 私の頭の中で流れている、カール・ベーム=ベルリンフィルの演奏は、数ある名演奏の中の名演奏なので、それと比べるのは妥当ではないかもしれない。

 それでも、メンバーが若い女性が多いことと、名指揮者の朝比奈隆さん亡き後、助成金も減らされて、財政的に苦しくなったことと、関連はないのかしらと思ってしまう。

 少し前、NHKのBSで、市の助成金が受けられなくなり、存続の危機に立たされるフランスの交響楽団のドキュメンタリーが放送されていた。

 これが最後の演奏会になるかもしれないという、その演奏会を指揮するのが佐渡裕さんだった。 佐渡さんはその交響楽団と昔から深いかかわりがあって、存続のために助力する。

 結局、いろいろな人々の努力のおかげで、市の助成金が受けられる、しかも額が増やされることになって、楽団員たちは、最後の演奏になるはずだったベートーベンの第9交響曲を、曲名どおり、喜びにあふれて演奏することができた。

 その時の、佐渡さんの指揮ぶりは、練習も含めて、本当に、団員と一緒になって、本番では聴衆も一緒になって音楽を作り上げるというふうなのだ。

 大フィルの演奏が軽く感じられたのは、演奏技術もあるかもしれないが、演奏者と指揮者の一体感が希薄だったせいでなないかと思う。

 それは、指揮者のせいと言うより、楽団員が指揮者や聴衆と一緒になって音楽空間を作り上げるという環境が、財政的理由や、その他なにやかやの理由で壊されたせいではないのかしら。

 久しぶりにブラームスを聞いて、ベーム=ベルリンフィルのブラームスを聞きたくなった。

 


追悼 フィッシャー・ディースカウ

2012-05-24 00:11:17 | 音楽

 昨年9月、母が亡くなってから、ずっとブログを休んでいた。書くことは山ほどあったのだが、書く気持ちにならなかった。

 ほぼ8カ月ぶりのブログ再開。

 ここ何日か、世間、といってもメディアが異常なほど騒いでいた話題は、金環日食とスカイツリーだが、私がいちばん心を動かされたニュースは、バリトン歌手、ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウの死を伝えるものだった。

 5月18日、ディースカウが86歳で亡くなったとテレビに字幕が流れたとき、ジグソーパズルの破片の一つが無くなったような気がした。

 それほど、フィッシャー・ディースカウは、私の青春期、精神面の形成期に、とても大きな存在だった。

 偶然かもしれないが、数日前、ウォークマンに入れていたいくつかのアルバムを削除して、新たに聞きたくなったCDを転送した。

 その中に、ディースカウのベートーベン歌曲集があった。1965年のザルツブルグ音楽祭のライブ録音だ。

 しばらく聞いていなかったが、ウォークマンに入れてから、何度か、歩きながら、電車の中で、ディースカウの歌を聞いた。

 そういうときの訃報だったから、何か虫が知らせたのだろうかと思った。

 昨日も、実家に荷物を取りに行った往復の電車の中で、ベートーベンの歌曲を聞いていた。

 昔からずっと繰り返し聞いていたので、ベートーベンの歌曲は、私の頭の中では、ディースカウの声と不可分なものになっている。

 その中でも、主旋律の美しいメロディーが何度も繰り返される「はるかな恋人に寄す」は大好きな曲だ。

 ほかの人の演奏をあまり聞いたことがないので、ひいきの引き倒し以外の何ものでもないのだが、ディースカウほど、この曲を美しく、魂の奥底から歌い上げた人はいないのではないかと思っている。 

 電車の座席に座って聞いていた時、ふと「ああ、もうこんなふうに美しい歌を歌う人はいないのだ」という思いがこみあげてきて、涙が溢れそうになった。

 ディースカウを聞き始めたのは高校生のころ。ベートーベンが大好きで、交響曲から室内楽、歌曲まで、聞ける機会があれば、何でも聞いていた。

 何がきっかけとなったのかは記憶にない。ラジオで聞いたのか、高校の音楽の時間に先生が聞かせてくれたのか、気が付いたらディースカウの虜になっていた。

 1963年、ベルリン・ドイツオペラの一員として来日したときには、NHKでずっと放送していたので、テレビにかじりついて見た。

 「フィガロの結婚」のアルマヴィーヴァ伯爵、「フィデリオ」の大臣、ドン・フェルナンド。アルマヴィーヴァ伯爵は好色で、このオペラではみんなに懲らしめられる悪役なので、ディースカウにはあまり似合わないと思ったり、「フィデリオ」では、解放された囚人たちが合唱する場面がとてもよかったのを今でも覚えている。

 学生の私には、1枚3000円もするLPレコードを手に入れるのは大変で、少ない小遣いを貯めつづけて、ずっと欲しかった1枚をやっと手に入れるという状況だった。

 そんななか、三枚組のシューベルトの三大歌曲集を手に入れた。ディースカウとずっとコンビを組んでいたジェラルド・ムーアの伴奏で、「美しい水車小屋の娘」「冬の旅」「白鳥の歌」を、何度も聞いた。

 そのレコードは家を出るとき、実家に置きっぱなしだったので、どうなったのか、今はどこを探しても見当たらない。

 同じベルリン・ドイツ・オペラとともに2回目に来日した折だったか、ディースカウの演奏会が大阪のフェスティバル・ホールであり、当時1万円ぐらいもするチケットを、会社の先輩が、急用で行けなくなったと、ゆずってくれた。妹と行き、幸福感に満たされながら、シューベルトの「冬の旅」を聞いた。生の演奏を聴いたのは、これが最初で最後。

 

 十数年前、NHKの教育テレビで、ディースカウが若い人を指導して、シューベルトを歌う番組がシリーズで放送された。ディースカウは70歳を超えていたはずである。

 そのときの曲の解釈の仕方や、こまやかな指導ぶりを見て、ディースカウがいかに音楽を愛し、演奏を通じて、聴衆の心に作曲者の魂をいかに伝えるか、努力してきた様子が手に取るようにわかって、とても感動した。 

 若き頃、ディースカウの歌の虜になった理由があらためてわかった。

 

 ディースカウについて書くことは、まだまだ、たくさんあるが、彼の死がこんなにも私を揺さぶるのには、母の死が大いに影響していると思う。 

 母の死は、悲しい出来事に違いなかったが、意外にも、思ったほど悲しいものではなかった。死が、母を、老いや病苦や生きる苦しみから解放してくれたんだと感じられたから。 

 けれども、時間がたてばたつほど、私の心に大きく広がってくるものがあった。

 それは喪失感である。

 喪失感は、悲しみのようには心を激しく揺さぶらない。何か、ほかの言葉で表現することができない感情だ。 

 亡くなった人との関係によって、その喪失感は違ってくるけれども、あったものが永遠に失われたという感情は、何ものによっても埋められない。 

 時を選ばず、何かの折に、ふと、その喪失感がゆらゆらと湖の底から水面に浮かんできて、静かに心の襞に流れ込み、しみこんでゆく。

 そんな時、人は、ただ、その喪失感の中に、あるがままに静かにたたずむことしかできない。

 耐えるというのではなく、ただ、あるがままに、喪失感を受け入れることしかできない。

 こんなふうに人の死を受け止めるのは、老いという人生の終末期にさしかかったせいなのだろうか。

 ディースカウの死が、私の人生のジグソーパズルの断片の一つが無くなったように感じられたのも、老いという道を歩き始めたからなのだろうか。