例によって、友人たちと発行している同人紙からの転載です。
「ドライブ・マイ・カー」を観る―〝ギフト〟考 番外編ー
「〝ギフト〟考」番外編として、この夏に観た映画「ドライブ・マイ・カー」について書く。
原作は村上春樹の短編集『女のいない男たち』所収の「ドライブ・マイ・カー」である。同短編集の他の作品のエピソードも織り込まれているけれども、原作を見事に換骨脱胎した、濱口竜介監督独自の映画作品だと言えるだろう。
濱口監督は大江祟允と共同で脚本も手掛けていて、この作品はカンヌ国際映画祭で脚本賞を含め四賞を受賞している。3時間もの長尺だが、その長さを少しも感じさせないほど、観客を映画の世界に引き込んでいく。
あらすじ 主人公は西島秀俊扮する家福悠介。舞台演出家で、妻の音(霧島れいか)は脚本家。音はセックスの後、もうろう状態の中で、「女子高生が男子同級生の部屋に繰り返し忍び込む物語」を語る。悠介はその物語を記憶して音に聞かせ、音はそれをもとに脚本を書こうとしていた。
ある日、悠介はほかの男とベッドにいる妻を目撃するが、胸にしまい込んだまま何事もなかったかのように過ごすうち、音はクモ膜下出血で急死する。
2年後、広島で開かれる演劇祭で、チェホフの「ワーニャ伯父さん」を演出することになった悠介。韓国人スタッフのコン・ユンスから、専属ドライバーの渡みさき(三浦透子)を紹介される。愛車を他人に運転されたくなかったが、みさきの運転は文句のつけようがないほど見事だった。
移動の車の中で、悠介は「ワーニャ伯父さん」のセリフが録音されたカセットテープを聞く。それは音が生前、録音しておいてくれたもので、ワーニャの部分だけ、悠介がセリフを挟む。その間、みさきは、黙々と運転を続けるだけだ。
オーディションで日本、韓国、台湾、フィリピン、など九つの言語を母国語とする出演者が決まる。
ワーニャ役を振り当てられた高槻耕史(岡田将生)は、妻が生前、悠介の舞台の楽屋に連れてきた若い俳優で、音の葬式にも来ていた。悠介と高槻の間に流れる微妙な空気に、音とベッドにいたのはこの男ではないかと観客は気づく。
ワーニャの姪、ソーニャは韓国人のイ・ユナが演じることになる。ユナは耳は聞こえるが、口がきけない。ユンスが韓国手話の通訳をする。
出演者全員が向かい合って座り、脚本を声に出して読むという稽古が始まる。自分の役のセリフを、感情を交えずに自分の母国語で、ユナは手話で読む。自分のセリフが終わると机を軽くたたき、それを合図に次の役者がセリフを読む。
そのようにして、淡々と脚本を読み続ける作業が続く。役者たちは、本読みの意図を悠介に問うが、悠介はただ続けるよう言うだけだ。しかし、感情を入れずに、多言語で脚本を読み、聞くという作業が、言葉のもつ本来の意味、登場人物の人間像や関係性、芝居全体の意味を共有し、内面化していく作業だということを、役者たちは少しずつ体得していく。
稽古が終わってから、高槻は悠介をバーに誘う。高槻の話は次第に妻の音のことになり、内面に踏み込ませまいとして平静を保つ悠介。
ある日、ユンスが悠介とみさきを自宅での食事に誘う。ユナが愛犬を連れて出迎えた。ユナはユンスの妻だった。異国日本で、口がきけないユナを支えることができるのは自分だけだと、ユンスは韓国手話を身に着けたのだった。
食事で緊張がほどけてゆき、悠介は、みさきの運転のすばらしさを率直に語る。その時ふいに、画面から、みさきの姿が消える。次の場面、椅子から離れたみさきが、食卓のわきに伏せている夫婦の愛犬の相手をしている。この展開で、ただ黙々と運転を続けていたみさきが、心を開いたのが分かる。
悠介が、どこかに連れて行ってくれと、みさきに頼み、連れて行かれたのはゴミ処理施設だった。
みさきは、北海道で貧しい母子家庭に育ち、水商売の母の送り迎えのために、虐待されながら運転技術を仕込まれた。家が土砂崩れに遭って母が亡くなり、故郷を飛び出す。ガソリンが尽きたところがゴミ処理施設で、ゴミ収集車の運転をしていたという。
高槻が再び悠介に声をかけてきて、2人で飲んだ後、先に店を出た高槻は、自分を隠し撮りしていた男を、通りの奥の公園に連れていく。争う声がしたが、何事もなかったかのように悠介と一緒に、みさきが運転する車に乗り込む。
悠介は車の中で、一人娘を失った後、音が新しい物語を語るごとに、何人かの男と関係を持つようになったことを話す。
高槻は音から聞いたという物語を口にする。それは、悠介が聞いた物語の続きだった。音は高槻とのセックスの後に、その物語を語って聞かせたのだ。
「ワーニャ伯父さん」の舞台稽古の場面。高槻が警察に連行される。公園で殴った男が死んだのだ。
ワーニャ役を悠介が引き継ぐか、公演を中止するか、2日で決断するよう、スタッフに迫られる。悠介は、自分の内面が引き出されるこの役を演じることはできないと思っている。
悠介は突然、みさきの故郷に行こうと言い、車を北海道へと走らせる。
道中、みさきは、「壊れた家の中に母がいることが分かっていたのに、助けを呼ばずに母を見殺しにした」と話す。悠介も、「妻が話があると言っていたのに遅く帰った。妻を死なせたのは自分だ」と告白する。
雪の中に埋もれた家の跡に花を手向けながら、みさきは、母との思い出を語った。悠介も、「ぼくが見ないふりを続けたせいで、音を失ってしまった。音にもう一度話しかけたい」と、うちに閉じ込めていた思いを初めて吐露し、2人はお互いを抱きしめた。
次の場面は「ワーニャ伯父さん」の舞台。客席にはみさきがいる。終幕で、人生に絶望したワーニャ役の悠介に、ユナ演じるソーニャが手話で語りかける。
「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を生き抜きましょう。試練にじっと耐えるの。そして、あの世で神様に申し上げるの。私たちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって」。
感情抜きの多言語での本読み同様、手話だからこそ、チェホフがセリフに込めたメッセージが観客に直に伝わってくる。
濱口監督の手法と様々な仕掛け この映画は、濱口監督独特の手法と様々な仕掛けによって、クライマックス「ワーニャ伯父さん」の終幕の場面へと収斂していく。きわめて複雑な展開を見せながら、少しも破綻がない、その手法は見事というほかない。
悠介と音の夫婦、音と高槻、悠介と高槻、悠介とみさき、悠介とユンス・ユナ夫婦、そして芝居の練習の中で絡み合う出演者たち。これらの人間関係が、映画の進行につれて複雑に絡み合い、影響を与え合い、変化していく。
もう一つの仕掛けは劇中劇だ。音が語る意味不明の物語。悠介が演じる、ベケットの「ゴドーを待ちながら」が映画の冒頭部分に出てくる。これは不条理劇の代名詞的な作品である。
そして、チェホフの「ワーニャ伯父さん」。登場人物たちは不条理な現実の中で苦しみもがいている。これらの劇中劇(物語)は、現実を生きる人間たちに影響を与え、また反対に、現実の人間たちの行動と意識が、劇中劇(物語)の持つ意味を変えていく。
世界は不条理そのものであり、人間は、不条理を受け入れ、じっと耐えて生きていくしかない。これが、この映画のテーマの一つと言えるだろう。それをあからさまに示すのではなく、劇中劇(物語)や登場人物の行動、言葉によって、つまり、濱口監督が仕掛けた仕掛けによって、観客は自然に納得していくのである。
もう一つのテーマは救い。悠介とみさきが周囲の人間とのかかわりによって心を開き、認めがたい現実を受け入れる。苦しみは変わらないが、受け入れることが救いでもある。「ワーニャ伯父さん」のソーニャのセリフは、そのことを端的に示している。
この文章を書きながら、気づいたことがある。音、高槻、ユナの役割についてである。
音は物語を語る途中で急死し、続きを話せる者は高槻だけである。その高槻も途中で警察に連行される。ユナは手話通訳なしにはセリフを伝えられない。
つまり、何らかの障壁を抱えながら、物語・セリフ(=真実)の伝え手としての役割が3人に与えられているということだ。3人の伝える言葉によって、映画は新たな展開を見せる。
言葉とは、魂をのせる贈り物=ギフトにほかならない。映画に限らず、芸術はすべてギフトだと私は考えるが、3人の役割に思い至った時、この映画はまさにギフトだと思った。
映画は、みさきが韓国のスーパーマーケットで買い物をする場面で終わる。買い物を済ませ、みさきが乗り込んだのは悠介の愛車である。運転席の隣には、ユンスとユナ夫婦の愛犬がいる。
なぜ、みさきは韓国にいるのか。悠介はどこにいるのか。ユンスとユナ夫婦はどうなったのか。推し量る手掛かりを濱口監督は何も示さず、みさきの運転する車は、韓国の都市の中を軽やかに走っていく。