空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

「ドライブ・マイ・カー」を観るー〝ギフト〟考 番外編

2021-12-29 13:08:18 | 映画

 例によって、友人たちと発行している同人紙からの転載です。

 

 「ドライブ・マイ・カー」を観る―〝ギフト〟考 番外編ー

 

  「〝ギフト〟考」番外編として、この夏に観た映画「ドライブ・マイ・カー」について書く。

 原作は村上春樹の短編集『女のいない男たち』所収の「ドライブ・マイ・カー」である。同短編集の他の作品のエピソードも織り込まれているけれども、原作を見事に換骨脱胎した、濱口竜介監督独自の映画作品だと言えるだろう。

 濱口監督は大江祟允と共同で脚本も手掛けていて、この作品はカンヌ国際映画祭で脚本賞を含め四賞を受賞している。3時間もの長尺だが、その長さを少しも感じさせないほど、観客を映画の世界に引き込んでいく。

 あらすじ 主人公は西島秀俊扮する家福悠介。舞台演出家で、妻の音(霧島れいか)は脚本家。音はセックスの後、もうろう状態の中で、「女子高生が男子同級生の部屋に繰り返し忍び込む物語」を語る。悠介はその物語を記憶して音に聞かせ、音はそれをもとに脚本を書こうとしていた。

 ある日、悠介はほかの男とベッドにいる妻を目撃するが、胸にしまい込んだまま何事もなかったかのように過ごすうち、音はクモ膜下出血で急死する。

 2年後、広島で開かれる演劇祭で、チェホフの「ワーニャ伯父さん」を演出することになった悠介。韓国人スタッフのコン・ユンスから、専属ドライバーの渡みさき(三浦透子)を紹介される。愛車を他人に運転されたくなかったが、みさきの運転は文句のつけようがないほど見事だった。

 移動の車の中で、悠介は「ワーニャ伯父さん」のセリフが録音されたカセットテープを聞く。それは音が生前、録音しておいてくれたもので、ワーニャの部分だけ、悠介がセリフを挟む。その間、みさきは、黙々と運転を続けるだけだ。

 オーディションで日本、韓国、台湾、フィリピン、など九つの言語を母国語とする出演者が決まる。

 ワーニャ役を振り当てられた高槻耕史(岡田将生)は、妻が生前、悠介の舞台の楽屋に連れてきた若い俳優で、音の葬式にも来ていた。悠介と高槻の間に流れる微妙な空気に、音とベッドにいたのはこの男ではないかと観客は気づく。

 ワーニャの姪、ソーニャは韓国人のイ・ユナが演じることになる。ユナは耳は聞こえるが、口がきけない。ユンスが韓国手話の通訳をする。

 出演者全員が向かい合って座り、脚本を声に出して読むという稽古が始まる。自分の役のセリフを、感情を交えずに自分の母国語で、ユナは手話で読む。自分のセリフが終わると机を軽くたたき、それを合図に次の役者がセリフを読む。

 そのようにして、淡々と脚本を読み続ける作業が続く。役者たちは、本読みの意図を悠介に問うが、悠介はただ続けるよう言うだけだ。しかし、感情を入れずに、多言語で脚本を読み、聞くという作業が、言葉のもつ本来の意味、登場人物の人間像や関係性、芝居全体の意味を共有し、内面化していく作業だということを、役者たちは少しずつ体得していく。

 稽古が終わってから、高槻は悠介をバーに誘う。高槻の話は次第に妻の音のことになり、内面に踏み込ませまいとして平静を保つ悠介。

 ある日、ユンスが悠介とみさきを自宅での食事に誘う。ユナが愛犬を連れて出迎えた。ユナはユンスの妻だった。異国日本で、口がきけないユナを支えることができるのは自分だけだと、ユンスは韓国手話を身に着けたのだった。

 食事で緊張がほどけてゆき、悠介は、みさきの運転のすばらしさを率直に語る。その時ふいに、画面から、みさきの姿が消える。次の場面、椅子から離れたみさきが、食卓のわきに伏せている夫婦の愛犬の相手をしている。この展開で、ただ黙々と運転を続けていたみさきが、心を開いたのが分かる。

 悠介が、どこかに連れて行ってくれと、みさきに頼み、連れて行かれたのはゴミ処理施設だった。

 みさきは、北海道で貧しい母子家庭に育ち、水商売の母の送り迎えのために、虐待されながら運転技術を仕込まれた。家が土砂崩れに遭って母が亡くなり、故郷を飛び出す。ガソリンが尽きたところがゴミ処理施設で、ゴミ収集車の運転をしていたという。

 高槻が再び悠介に声をかけてきて、2人で飲んだ後、先に店を出た高槻は、自分を隠し撮りしていた男を、通りの奥の公園に連れていく。争う声がしたが、何事もなかったかのように悠介と一緒に、みさきが運転する車に乗り込む。

 悠介は車の中で、一人娘を失った後、音が新しい物語を語るごとに、何人かの男と関係を持つようになったことを話す。

 高槻は音から聞いたという物語を口にする。それは、悠介が聞いた物語の続きだった。音は高槻とのセックスの後に、その物語を語って聞かせたのだ。

 「ワーニャ伯父さん」の舞台稽古の場面。高槻が警察に連行される。公園で殴った男が死んだのだ。

 ワーニャ役を悠介が引き継ぐか、公演を中止するか、2日で決断するよう、スタッフに迫られる。悠介は、自分の内面が引き出されるこの役を演じることはできないと思っている。

 悠介は突然、みさきの故郷に行こうと言い、車を北海道へと走らせる。

 道中、みさきは、「壊れた家の中に母がいることが分かっていたのに、助けを呼ばずに母を見殺しにした」と話す。悠介も、「妻が話があると言っていたのに遅く帰った。妻を死なせたのは自分だ」と告白する。

 雪の中に埋もれた家の跡に花を手向けながら、みさきは、母との思い出を語った。悠介も、「ぼくが見ないふりを続けたせいで、音を失ってしまった。音にもう一度話しかけたい」と、うちに閉じ込めていた思いを初めて吐露し、2人はお互いを抱きしめた。

 次の場面は「ワーニャ伯父さん」の舞台。客席にはみさきがいる。終幕で、人生に絶望したワーニャ役の悠介に、ユナ演じるソーニャが手話で語りかける。

 「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を生き抜きましょう。試練にじっと耐えるの。そして、あの世で神様に申し上げるの。私たちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって」。

 感情抜きの多言語での本読み同様、手話だからこそ、チェホフがセリフに込めたメッセージが観客に直に伝わってくる。

 濱口監督の手法と様々な仕掛け この映画は、濱口監督独特の手法と様々な仕掛けによって、クライマックス「ワーニャ伯父さん」の終幕の場面へと収斂していく。きわめて複雑な展開を見せながら、少しも破綻がない、その手法は見事というほかない。

 悠介と音の夫婦、音と高槻、悠介と高槻、悠介とみさき、悠介とユンス・ユナ夫婦、そして芝居の練習の中で絡み合う出演者たち。これらの人間関係が、映画の進行につれて複雑に絡み合い、影響を与え合い、変化していく。

 もう一つの仕掛けは劇中劇だ。音が語る意味不明の物語。悠介が演じる、ベケットの「ゴドーを待ちながら」が映画の冒頭部分に出てくる。これは不条理劇の代名詞的な作品である。

 そして、チェホフの「ワーニャ伯父さん」。登場人物たちは不条理な現実の中で苦しみもがいている。これらの劇中劇(物語)は、現実を生きる人間たちに影響を与え、また反対に、現実の人間たちの行動と意識が、劇中劇(物語)の持つ意味を変えていく。

 世界は不条理そのものであり、人間は、不条理を受け入れ、じっと耐えて生きていくしかない。これが、この映画のテーマの一つと言えるだろう。それをあからさまに示すのではなく、劇中劇(物語)や登場人物の行動、言葉によって、つまり、濱口監督が仕掛けた仕掛けによって、観客は自然に納得していくのである。

 もう一つのテーマは救い。悠介とみさきが周囲の人間とのかかわりによって心を開き、認めがたい現実を受け入れる。苦しみは変わらないが、受け入れることが救いでもある。「ワーニャ伯父さん」のソーニャのセリフは、そのことを端的に示している。

 この文章を書きながら、気づいたことがある。音、高槻、ユナの役割についてである。

 音は物語を語る途中で急死し、続きを話せる者は高槻だけである。その高槻も途中で警察に連行される。ユナは手話通訳なしにはセリフを伝えられない。

 つまり、何らかの障壁を抱えながら、物語・セリフ(=真実)の伝え手としての役割が3人に与えられているということだ。3人の伝える言葉によって、映画は新たな展開を見せる。

 言葉とは、魂をのせる贈り物=ギフトにほかならない。映画に限らず、芸術はすべてギフトだと私は考えるが、3人の役割に思い至った時、この映画はまさにギフトだと思った。

 映画は、みさきが韓国のスーパーマーケットで買い物をする場面で終わる。買い物を済ませ、みさきが乗り込んだのは悠介の愛車である。運転席の隣には、ユンスとユナ夫婦の愛犬がいる。

 なぜ、みさきは韓国にいるのか。悠介はどこにいるのか。ユンスとユナ夫婦はどうなったのか。推し量る手掛かりを濱口監督は何も示さず、みさきの運転する車は、韓国の都市の中を軽やかに走っていく。

 


鳥の肖像を描くには

2018-11-08 10:13:12 | 映画

 例によって、友人たちと年4回発行している同人紙からの転載です。

 

  鳥の肖像を描くには―映画「ZEN FOR NOTHING」を見て

 ずいぶん前に、ドキュメンタリー映画「ZEN FOR NOTHIG~何でもない禅~」を見て、その感想を書こうと思っていた。 

 今年2月か3月に映画を見てから半年以上経ってしまい、詳しい内容はほとんど忘れてしまったけれども、映画の中で、主人公のスイス人女優が、ジャック・プレヴェールの「鳥の肖像を描くには」という詩について語った場面が、頭から離れないでいる。 

 ジャック・プレヴェールといえば、日本で最も有名な詩は、シャンソンの「枯葉」だろう。次に思い出されるのが、不朽の名作と言われる「天井桟敷の人々」の脚本。マルセル・カルネ監督の戦前の映画「悪魔が夜来る」の脚本もプレヴェールによるものだ。 

「鳥の肖像を描くには」という詩は全く知らなかった。 

 探してみたら、唯一、あの高畑勲の訳によるプレヴェールのアンソロジー『鳥への挨拶』に収められていた(「ぴあ」より出版。残念ながら絶版になっており、市立図書館で見つけた)。原本では『ことばたち』という詩集に所収されている。 

 

  まず鳥籠を描くこと

  扉は開けたままで 

  つぎに描く 

  鳥にとって 

  なにかここちよいもの 

  なにかさっぱりしたもの

  なにか美しいもの 

  なにか役立つものを… 

  つぎにカンバスを木にもたせかける 

  庭のなかの 

  林のなかの 

  あるいは森のなかの. 

  木のうしろに隠れる

  一言もしゃべらないで 

  動かずに… 

  ときには鳥はすぐ来る

  だが長年かかることもある 

  その気になるまでに. 

  がっかりしないこと 

  待つこと 

  必要なら何年間でも待つ. 

  鳥の来るのが早いかおそいかは 

  何の関係もないのだから 

  絵の出来ばえには. 

  鳥が来たら 

  来たらのはなしだが 

  完璧に沈黙をまもること 

  鳥が鳥籠に入るのを待つこと 

  鳥が入ったら 

  そっと筆で扉を閉める 

  そして 

  柵を一本一本すべて消す 

  鳥の羽根に決して触れないように気をつけて. 

  つぎに木の肖像を描く 

  鳥のために 

  いちばん美しい枝をえらんで. 

  みどりの葉むれや風のさわやかさも描く 

  日ざしのほこりも 

  夏の暑さのなかの虫たちの声も. 

  それから待つこと 鳥がうたう気になるのを. 

  もし鳥がうたわないなら 

  それは良くないサイン(しるし) 

  絵が良くないサイン 

  しかしもしうたったらそれは良いサイン 

  きみがサインしてよいというサイン 

  そこできみはそっと抜く 

  鳥の羽根を一本. 

  そして絵の隅にきみの名を書く。 

 

  映画「ZEN FOR NOTHING」は、日本在住のドイツ人映像作家、ウェルナー・ペンツェルと写真家の茂木綾子の共同作品で、兵庫県美方郡の山中にある曹洞宗の修行道場、安泰寺が舞台。 

 安泰寺が出てくるというので、私は映画を見る気になったのだ。 

 仏教を学び始めたころ、偶然、安泰寺のドイツ人住職、ネルケ無方さんのブログを発見して、ずっと愛読していた。 

 ネルケ無方さんはキリスト教のなかで生まれ育ったが、青春時代に悩み続けた末、ついには日本にたどり着いて、安泰寺で修行する。 

 教えを受けた住職が亡くなった後、ネルケさんが安泰寺を受け継いだ。 

 ネルケさんは、曹洞宗の道場、永平寺を開いた道元禅師と、戦後に安泰寺を再興した沢木興道、内山興正両師の教えを忠実に実行しているように思える。 

 道元禅師の教えの根本にあるものを現代に生きるうえでちゃんと受け止めて、自ら実践し、生きる道を求めて世界中から安泰寺の門をたたく人々に伝えているように思えるのだ。 

 映画は、スイス人女優サビーネ・ティモテオが、安泰寺を訪れるところから始まり、11月から翌年3月まで、サビーネと、他の修行者たちの安泰寺での日々を淡々と描いている。 

 坐禅を中心に、作務(さむ。禅の修行の一環として寺院維持のための掃除、薪割りなどの労務を行うこと)、当番で典座(てんぞ。食事を作る役職。道元は重要な禅の修行の一つとして位置付けている)を務める様子、作業の合間の楽しみ、就寝前の個人の時間、出家得度式などが、一切のナレーションなしで映し出される 

 安泰寺は基本的に自給自足の生活なので、農作業はもっとも大切な作務だ。 

 ブルドーザーを使っての畑の開墾、植えつけ、収穫作業、冬に備えての雪囲いなどは重労働だ。 

 作務に慣れないサビーネのうんざりした表情も映し出される。 

 12月から3月は、安泰寺は雪に閉ざされるので、その間は坐禅、教学三昧の冬安居に入る。 

 安居(あんご)とは元々、インドで雨季の時期は外出できないので、修行者が一カ所に集まって修行三昧の生活をすること。 

 日本では冬と夏に行われる。 

 サビーネが滞在したのはこの冬安居の期間だったと思うが、作務に加えて坐禅三昧の日々はつらかっただろうと思う。 

 最低半年間の修行を終えた修行者たちが各々の思いを語る場面で、サビーネの語った内容がプレヴェールの詩「鳥の肖像を描くには」についての話だった。 

 彼女自身が語った詳しい内容は忘れたが、「鳥の肖像を描くには」という詩に出会ってから、自分という存在や生き方に疑問を持ち、自分を見つめるために安泰寺にきた。 

 初めは、十分きれいなのに、なぜ毎日隅々まで掃除をするのか、なぜ、ここで様々な労働をしなければならないのか、理不尽に思えた。 

 しかし、毎日の作務を繰り返すうちに、我を忘れて、ただその作業に打ち込み、楽しんでさえいる自分に気づいた。 

 そのように語りながら、サビーネは涙を流した。 

 涙の理由は、「鳥の肖像を描くには」という詩に出会った意味、安泰寺に来た意味に気づいたからだと私は思う。 

 道元禅師の著書『正法眼蔵』のなかの「現成公案」に、次のような言葉がある。 

  

    仏道をならふといふは、自己をならふ也。 

  自己をならふといふは、自己をわするゝなり。 

  自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。 

  万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

 

 ネルケ無方さんは、著書『道元を逆輸入する―「現成公案」を英語から理解する試み』(株式会社サンガ発行)のなかで、このように訳している。  

 

  目覚めの道を学ぶことは、あなた自身の学びを意味する。 

  あなたの学びは、あなた自身を忘れることだ。 

  あなた自身を忘れるということは、よろずの事によって行われる、あなた自身の実現だ。 

  よろずの事による、あなた自身の実現はつまり、あなたの体と心の手放しである。

   そして人の体と心の手放しでもある。 

 

 私は道元禅師が好きで、『正法眼蔵』の注釈書もいろいろ読んだが、どれも禅問答のように分からなかった。 

 自らの実践を通して、日常使う自分の言葉で、道元禅師の言葉を理解しようとするネルケさんの訳がいちばん理解できた。 

 仏道とは「目覚めの道」、それは「仏の智慧、宇宙の真理」のことだ。 

 「自己をならう」とは、ありのままの自分を受け止めること。 

 仏道を学ぶことは、つまり自分で自分を学ぶことだ。 

 「自己を忘れる」ということは、富士山頂に立てば富士山は見えないが周りの世界がよく見えるように、自分になり切ったら、自分はどこにもない。 

 だから自己と他人の境界線もない。 

 見えているのは周りの世界である。 

 「万法に証せらるゝ」とは私の生き方によって私の現実が変わる。 

 私が万法をつくっているのだ。 

 反対に、万法が〈私〉を実現している。 

 もっと簡単に言えば、「あらゆる出会いの中に、自分自身を発見することだ」とネルケさんは言う。 

 仏教が目指しているもの、それはあらゆる束縛から解放されること、自由である。 

 究極の自由が≪解脱≫だ。 

 自分で自分を縛っている束縛の紐を解いてゆく。 

 身も心もすべて手放してしまえば、「放てば充てり」、手放してこそ、手を充たすものがある。 

 「手ぶらであるという自分の姿にこそ、法が現われている」というふうにネルケさんは解説している。  

 私は、「鳥の肖像を描くには」という詩の意味が最初は分からなかった。 

 「ZEN FOR NOTHIG」という映画のなかで、修行者のサビーネが語っている場面の意味をずっと考えているうちに、これは、まさに仏教の目指す世界ではないかと気づいた。 

 鳥は私、肖像を描こうとしている「きみ」も私。 

 鳥と「きみ」を隔てる境界線がなくなり、世界に境界がなくなったとき、鳥は歌い、「きみ」は鳥の羽根をそっともらって、ありのままの〈私〉の名前を書く。 

 監督のウェルナー・ペンツェルは安泰寺で長きにわたって繰り返し修行している。 

 仏教についても、道元禅師の教えについても十分理解しているはずだ。 

 だからこそ、サビーネに「鳥の肖像を描くには」という詩について語らせた。

 そして「仏道をならう」とは、何でもない日常の暮らしの中にある、身も心も手放した自分の中にある、という意味を込めて「ZEN FOR NOTHIG」という題をつけたのだと思う。

 


マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー

2018-09-02 00:35:40 | 映画

 久しぶりに映画を見に行った。

 10年前の「マンマ・ミーア」の続編で、「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」。

 一作目の「マンマ・ミーア」は映画館ではなくて、テレビで見た。

 小さなテレビ画面であったが、すごく感動した。

 最後の方で、ヒロインのメリル・ストリープを中心に、出演者全員が「ダンシング・クイーン」の曲を歌い踊るシーンでは思わず泣いてしまった。 

 ABBAの「ダンシング・クイーン」は若きころ、大ヒットした曲で、かなり長い期間、街中に流れていた。好きな曲だが、この曲で泣くとは思わなかった。

 思うに、がんばって生きる女性たちの健気さが伝わってきたからだろう。

 映画を見た後は、「ダンシング・クイーン」を始め、ABBAの曲が頭の中でいつまでも鳴り響いていた。

 その続編が、近場の塚口サンサン劇場で、一作目と並んで上映されると分かったので、だいぶ前から楽しみにしていた。

 残念ながら、一作目は上映期間が短く、見に行けなかった。

 「ヒア・ウィー・ゴー」は絶対見るぞと心に決め、用事で大阪に出かけた帰り、映画館に駆け付け、最終上映時間に間に合った。観客は4人だけ。

 繁華街のロードショー劇場ではないし、最終上映時間だとしても、台風が近づいて、お天気が不安だったにしても、あまりにも少ない。

 映画は、一作目でメリル・ストリープが演じたヒロイン、若き日のドナが大学を卒業するところから始まる。

 特別音響での上映なので、音楽が身体に響いてくるし、舞台では不可能な、映画ならではのダンス場面の演出が素晴らしい。

 けれども、メリル・ストリープのドナはいつ出てくるの?、待てども待てども、いっこうに現れない。

 それもそのはず、ドナは死んでしまっていた。

 映画は、若き日のドナが、あちこち放浪して、ギリシャのカロカイリ島にたどり着くまでの物語と、ドナの娘・ソフィーが、母の遺志を継いでホテルを再開するまでの物語が交差して進行していく。

 最初は筋書きが分かりにくかった。

 何よりメリル・ストリープがいつ、どんな形で登場するのか気になって仕方がない。まさか、テレビドラマのように、単なる回想場面ではないだろう。

 結局、彼女は、ソフィーが赤ん坊を生んで、その子の洗礼式の場面で、ソフィーにしか見えない形で、祝福の歌を歌う、という設定で登場する。

 その場面は感動的で、私は泣いてしまった。さすがメリル・ストリープ! それにしても、「これだけ? これで終り?」という感じ。

 やはり、映画の「マンマ・ミーア」はメリル・ストリープあってのものだと思った。

 「ヒア・ウィー・ゴー」の監督は、1作目のフィリダ・ロイドに代わり、私の好きな映画「マリーゴールドホテルで会いましょう」のオル・パーカー監督だと知って、とても期待していた。

 ちなみに、「マリーゴールドホテルで会いましょう」のヒロイン、ジュディ・デンチがとてもいい。

 「ヒア・ウィー・ゴー」は、エンターティメント性ではとても楽しく見ることができたが、一作目にはあった物語自体のメッセージが伝わってこないので、ちょっと物足りなかった。

  続編が一作目を超えるのはなかなか難しいのかな。

 


映画「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」を見る

2018-04-07 00:55:14 | 映画

 いろいろあって、長い間ブログにご無沙汰。例によって、友人たちと年4回発行している同人紙からの転載。

 

  映画「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」を見る   

 昨年は雑用に追われて、見たい映画をずいぶん見損なった。そのなかで、二回も見た映画がある。「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」、原題は〝A  QUIET  PASSION〟。

 ディキンスンの伝記映画が上映されることを知ったときは、いま、なぜ、アメリカがディキンスンを取り上げるのか、ふしぎだった。

 ディキンスンの孤高の詩の世界は現在のアメリカ社会とはあまりにかけ離れていると思った。

 監督のテレンス・デイヴィスがイギリス出身で、ディキンスンをアメリカの最も偉大な詩人だとして尊敬し、自ら脚本を手掛け、イギリス、ベルギーの合作で2012年から製作を始めたことを知った。

 エミリを演じたシンシア・ニクソンもディキンスンの熱烈な愛読者だそうである。

 ディキンスンの詩に初めて出会ったのは高校生の時だったか、大学に入ってからか、母が毎月買っていた婦人雑誌に、ディキンスンの詩が載っていた。どういう詩であったのか、忘れてしまったが、「冬の午後には斜めの日差しがある」というフレーズを覚えている。

 今、そのフレーズを手掛かりに詩集をひも解いてみると、

 「冬の午後には/一筋の斜光がある/大会堂(カシドラル)の旋律のようにも/人の心を圧する光がある」という一節で始まる詩が見つかった。

 この詩がその時の詩だったのか、今となっては分からない。

 ともかくも、ディキンスンという未知のアメリカの女性詩人について知りたいと思い、学校の図書館や書店をさがしたが、その当時は訳詩集も出版されていなかった。

 後に『詩集 自然と愛と孤独と』『続自然と愛と孤独と』(中島完訳、国土社刊)という2冊の詩集を手に入れ、夢中で読んだ。詩集には簡単な解説と年表が付されていたが、私はもっぱら、気に入った詩を勝手に解釈して繰り返し読み、勝手なディキンスン像を作っていった。

 今、その詩集を久しぶりに手に取ってみると、至る所に付箋がつけられている。

 中でも、説教を聞いて心惹かれたワズワース牧師を仮想の恋人に見立てて作ったらしい、いくつかの愛の詩に、ロマンティックな想像を掻き立てられた。

 

 もしあなたがこの秋にいらっしゃるなら/夏など払いのけておくものを/半分笑顔で半分鼻であしらって/ちょうど蠅を追う主婦のように――

 もし一年のうちにあなたにお会いできるなら/ひと月ひと月を玉にして/それぞれ別の引き出しにしまっておくものを/日数がまざりあわないように――

 もしそれが何世紀か遅れるだけなら(中略)

 もしこの世を後にしても/あなたと私の生命があるのなら/この人生など果物の皮のように投げ捨てて/かわりに永遠を手にするものを

 だがその間の時の定めない長さに/いま私の心は痛むばかりだ/それは悪魔が蜂となり/針を隠して刺すように

 

 ディキンスンは深い孤独感を抱き続け、魂の永遠を求めた詩人でもあった。

 それらをテーマとした詩にも、若かった私は強く共感した記憶がある。

 自然を詠んだ詩には、作者の優れた観察眼がうかがわれた。何よりも独特の比喩を使った表現に夢中になった。

 社会に出てからは仕事に追われて、ディキンスンのみならず詩集というものを手にすることも少なくなった。

 そんな中、思わぬところでディキンスンと再会する。1982年に製作された映画「ソフィーの選択」。

 メリル・ストリープ演ずるソフィーが恋人ネイサンと心中したのを、ソフィーに心惹かれた青年スティンゴが部屋を訪れて発見する。

 机の上にはディキンスンの詩集が残され、スティンゴが映画のラストシーンで声をあげて読んだのが次の詩だった。

 広いベッドを創れ/畏れながら準備して/公正な/審判の下る日を/静かに待とう/寝床をまっすぐに/まくらもまっすぐに/まくらはまるく/朝日の黄金色の騒音に/心乱されないように

 ディキンスン詩集は、この映画の中でソフィーとネイサンが出会うきっかけとして使われていて、この詩がラストシーンで示されることにより、ソフィーとネイサンの悲劇的な愛と死の意味を観客は深く考えさせられるのである。

 ディキンスンは1830年、マサチューセッツ州アマストに生まれる。

 父エドワードは弁護士で国会議員も務めた、いわば名士である。兄も後に父と共同の法律事務所を開いた弁護士である。

 9歳から16歳まで断続的にアマスト・アカデミーで学んだ後、マウント・ホリヨーク女学校に進むが、在籍したのは1年に満たなかった。

 以後、数えるほどの例外を除いて、アマストを離れることはなかった。

 ついには自宅から出ることさえ稀になる。

 それは広場恐怖症的、神経症的な性格の故であるという説が長年語られてきたが、研究が進むにつれて、実際には文通を含めてもっと広い交際があったという学説が出されている。

 生前に父の友人、ボウルズが発行するスプリングフィールド・リパブリカン紙に10編足らずが掲載されたほかは、エミリの詩はタンスの引き出しにしまい込まれたままだった。

 死後、妹のラヴィニアによって、1800編ほどの詩稿が発見された。

 幾度か詩集が出版され、時代を経るにしたがってディキンスンの詩人としての評価は高まっていった。

 ディキンスンの詩には題名がなく、番号が付けられている。

 さて、映画「静かなる情熱」は、教師が強要する信仰になじめず、エミリが女学校を退学する場面から始まる。

 当時のアメリカの上流社会では、厳格で不寛容なピューリタニズムの影響が強かった。

 オペラに魂を揺さぶられるエミリを、叔母や父は、快楽的だと苦々しく思う。

 教会に行こうとしないエミリを父は非難するし、ひざまずいて祈ることを強要する牧師に、家族の中でエミリ一人が祈りを拒否する。

 ワズワーズ牧師夫妻を家に招き、お茶を勧めると、お茶を飲むのは信仰に反するから、水かお湯でよいと断られる。

 エミリはこのような19世紀アメリカの息苦しい世俗社会に生まれ育ったのだ。

 学校から実家に戻ると、エミリは父親に、夜に書き物をする許しを請う。

 たかが書き物をするぐらいで父の許しを請わなければならないことに驚かされた。それほど当時の家父長の権力は強かった。

 こうして、エミリの詩作が始まった。

 家族が寝静まった深夜から明け方まで、エミリはろうそくの灯りのもとで詩を書き、何編かをまとめて糸で綴じる。

 父の友人が発行する新聞に投稿する許しを得て、実名を伏せて掲載されるが、編集長のボウルズは「有名な文学は男の作品で、女には不朽の名作は書けない」と言う。

 映画の中で、エミリは、世俗的な価値観に疑いを抱くことなく、それを周囲にも強要する人々に怒りをぶつけ、魂の自由を守るために激しい言葉で反論する女性として描かれている。

 詩だけがエミリにとっては真実であり、自分が呼吸できる世界だった。

 映画を1回目に見たとき、エミリ・ディキンスンという女性のあまりにも激しい描き方に、私が若いころからイメージしていたディキンスン像とはちょっと違うと感じて、近くの映画館で遅れて上映されたのを機にもう一度見に行った。

 2回目は、1回目にあまり気に留めなかった場面が心に引っかかった。

 一つは、病弱な母親の描写。ある研究者は、母親をただただ凡庸な女だったと書いている。

 しかし、母が自分の青春時代を語る場面があって、未来に夢を抱いていた少女が、結婚して家に閉じこもるような女になったのは、宗教と家父長的社会に抑圧された結果ではなかったかと思わせる。

 もし詩を書くことによって自分の魂を守れなかったら、エミリもこの母親のようになったかもしれないのだ。

 二つ目は、性的抑圧。兄と結婚した親友スーザンが、結婚して夫と性行為をしなければならないことが恐ろしかった告白する場面がある。

 当時のみならず現在でも、結婚生活に不満はないが、夫との性交渉は忍耐あるのみだと語る女性は少なくない。

 三つ目は南北戦争。1回目は単なる時代背景として南北戦争が描かれたのだと思った。

 兵士の死体が累々と横たわる戦場の映像は何度も繰り返され、戦場となった地名と戦死者数が示される。

 その数は南北軍、市民を合わせて70万人を超える。第二次世界大戦の米軍の死者数40万人の2倍近い死者を出したとは知らなかった。

 ディキンスンの詩に「死」が多く登場するのは、南北戦争が影を落としているかもしれない。

 保護者であった父の死、愛する母の死、そしてエミリ自身もブライト病(腎臓炎)で倒れる。

 激しい痙攣で苦しむエミリを映画は執拗に描いている。エミリの人生そのものの苦しみを描くように。

 ベッドに横たわるエミリの遺体の映像は、同時代のイギリスの画家、ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」を連想させる。

 狂って川に落ち、水に浮かびながら歌を口ずさむオフィーリアは、苦しみから解放されて美しい。

 エミリ・ディキンスンも死によって苦しみから解放され、美しい遺体をベッドに横たえている。55歳だった。

 この映画はデイヴィス監督のディキンスンへのオマージュである。

 なぜ、いまこの映画なのかと冒頭に書いたが、宗教的不寛容、性差別、暴力(富の独占も含む)による支配、戦争が、ディキンスンの生きた時代と変わらず、むしろより強力に人々を抑圧し続けているからだ、と解釈するのは、深読みに過ぎるだろうか。

※岩波文庫から『対訳 ディキンスン詩集 アメリカ詩人選③』が発行されている。

 

 


「ダライ・ラマ14世」を再び観に行く

2015-11-17 23:33:38 | 映画

 京都シネマで再上映されているドキュメンタリー映画「ダライ・ラマ14世」をもう一度観に行った。

 確かめておきたい箇所があったので、京都まで出かけた。

 1回目観たときには、ただ、法王のお話に感動してばかりいたのだが、今回は、少し客観的に、暗闇の中でメモを取りながら観た。(後でメモを見たら、読めない箇所のほうが多かったが)

 確かめたかったのは、カルマについて法王がお話になった場面だ。

 がんが見つかり、再発した女性が「試練を与えられる人と、試練が与えられない人がいる。どうしてですか」と問う。

 法王は答える。

 「仏教には因果の法というものがあります。原因があり、帰結がある。過去のカルマによって多くの不幸が起こるのです」

 難病の子どもを連れた母親に対しても、

 「この状況を解決できる方法があるのならば、そうしなさい。方法がないのならば、因果の法だから、受け入れてください。そして、それ以上、悲しむ必要はありません」と答える。

 最初にこの場面を観たときには、仏教の真理に基づいて、誠実にその人に向けて答えられている、その姿に、感銘を受けた。

 しかし、なぜ、仏教者なら誰でも答えるであろうようなことを、法王はおっしゃったのか。それが気になっていた。

 再び同じ場面を見て、法王の答えには、より積極的な意味が込められていることに気付いた。

 もう1か所、法王がカルマについて話される場面がある。

 「チベットの問題は、我々にとってのカルマです。チベットの外に出て、初めてそのことに気付いたのです」

 カルマは、日本語では「業」と訳される。

 業とは、人間の意識、言葉、行為など。それが積み重なり、因となって、ある結果を生む。

 日本では、「過去の業によって、いまがあるのだから、仕方がない」とか、「親の因果が子に祟り」とか、宿命だから仕方がない、諦めるしかない、というふうに、ネガティブな文脈で使われることが多い。

  しかし、仏教の教えは、そんなに単純なものではない。

 ある一つの原因が、一つの結果を生むのではなく、そこには「縁」=さまざまな条件が複雑に絡み合って、ある帰結に達する。

 法王は話された。「因果の法だから、受け入れなさい。それ以上、悲しむ必要はありません」と。

 「起きてしまったことは、どうすることもできない。私たちは過去には戻れない。だから、それ以上、悲しむことをせずに、良い因が良い果をもたらすように、これからを生きなさい」とおっしゃっているのだ。

 起きてしまったことを怒り、恨み、悲しみ続けるならば、それが業となって、さらに悪い結果をもたらす。

 「チベットの問題は我々にとってのカルマによる。そのことに、チベットを離れて、初めて気付いた」ということを、法王がどういう機会に話されたのかは知らない。

 しかし、それを聞いて、なぜ、法王が、チベットの独立を断念し、「5項目の和平案」を提示されたのかが、よくわかった。

 チベットで起きた問題が、たとえ中国の一方的な侵略によって引き起こされたことであっても、起きてしまったことはどうすることもできない。

 起きてしまった結果を受け入れ、その結果から出発して、どうようになすべきかを考え、行動するしかないのだ。

 現実を見据えて中国と交渉することを考えた結果、独立を断念して中国にとどまること、そのための「5項目の和平案」が提示されたのだと思う。

 中国の侵略は許されるべきことでない。

 しかし、それを、怒り、悲しみ、中国を非難するばかりでは、解決の道は見いだせない。

 ダライ・ラマ法王は、因果の法を説くことで、怒りや怨み、悲しむことから一歩踏み出して、もっと積極的に生きなさいとおっしゃっているのだということに、今日、気付かされた。

 そのように考えれば、悩みを訴える若者に対して、いつも「もっと広い視野で考えなさい」と話される意味も分かって来る。

 目の前にあることに囚われてばかりでは、因果の悪循環から脱することができないのだ。

 映画の中で、「希望が見えない」「閉塞感がある」と訴える日本の若者に対して、法王は次のように答えている。

 「日本人は心の充足が少ないように見える。日本は物質的に恵まれ、テクノロジーも発達している。英語を学び、もっと広い世界に出て、世界に貢献しなさい。それは自信につながります」

 「平和は内なるものから生まれるものです。武力による平和は、一時的なものでしかない。心の中から変えていかなければ。誰かがスタートしなければなりません」

 今日、再び、映画「ダライ・ラマ14世」を観て、この映画は、ダライ・ラマ法王を追いながら、実は日本の有り様を、世界の有り様を映し出している映画だということにも気付かされた。

 パリで起きたテロ事件は、新たな暴力の連鎖を生み出そうとしている。

 ダライ・ラマ法王のメッセージを、いまこそ、すべての人間が受け止めなくては!

 

 

 

 


ドキュメンタリー映画の手法~「ルンタ」「ダライ・ラマ14世」「ロバート・アルトマン」を見て

2015-11-16 11:11:19 | 映画

 前回、写真家、セバスチャン・サルガドのドキュメンタリー映画について書いてからだいぶ経った。

 その映画と前後して見たドキュメンタリー映画がある。

 中国のチベット支配に抗議するチベットの人々を描いた「ルンタ」、ダライ・ラマ14世に長い間密着して撮った映像をもとに作られた「ダライ・ラマ14世」だ。

 その映画を見てからだいぶ経っているので記憶が薄らいでしまっているが、昨日、「ロバート・アルトマン ハリウッドに最も嫌われた男、そして愛された男」という優れたドキュメンタリー映画を見て、感じるところがあったので、記憶をたどって書くことにした。

 ◇「ルンタ」について

 チベットに関する映画は出来るだけ見るようにしているが、「ルンタ」は、正直言って、がっかりした。

 ルンタとは、経文を書いた旗のことで、ルンタを屋外に掲ると、風にはためくたびに、経文を読んだと同じ功徳があり、願いがかなえられるという。

 とても大事なテーマを扱っているのだが、この映画を作った人が何を言いたかったのかが、伝わってこなかった。

 監督は池谷薫。チベット亡命政府がある、インドのダラムサラで、チベット政府関連の建物を作る一方、NPO法人を組織して、中国の人権弾圧に抵抗する政治犯の支援活動をしている中原一博さんに密着して作った映画だ。

 池谷監督が中原さんを知ったのは20年以上前だそうだ。中原さんの活動に共感して、この映画が作られた。

 中国のチベット弾圧は政治・経済・文化、あらゆる方面で行われ、若者たちが、焼身自殺という最後の抗議行動にまで追い詰められていく。

 この映画が、チベットの現状を世界に訴えているということは分かるのだが、池谷監督が撮りたかったのは中原さんなのか、チベットの人々なのか。

 中国から逃れてきた政治犯たちの言葉も、中原さんというベールを透しているようで、もどかしい。

 最後の方で、ルンタの翻るチベットの谷間が出てくる。

 中国人の観光客が能天気にルンタが風になびく風景のなかではしゃいでいる。その舞台で、中原さんが、いきなり、日本語で「チベット万歳」と叫ぶのだ。

 これには、戸惑った。「何? これ! 」という感じ。

 この場面で、監督はチベットに対する中原さんの思いを表現したかったのか。

 一緒に映画をみた友人と帰りに寄った喫茶店で、いつもなら、ああだ、こうだとにぎやかに感想を言い合うのだが、このときはしばらく沈黙があった。

 二人とも、映画に対するがっかり感をどう表現していいか、分からなかったのだ。

 後日、インターネットのサイトで、この映画に同様の違和感をいだいた人の感想を見つけた。

 「この映画に感じる距離感は、そのまま、チベットに対する日本人の距離を表しているのではないか」というものだった。そうかもしれない。

 同じくチベットの難民に取材した岩佐寿弥監督の作品をおのずと思い出す。

 チベット難民のおばあさんに取材した「モゥモチェンガ」、6歳で家族と離れ亡命、ダラムサラのチベット子ども村に学ぶ少年を取材した「オロ」。

 どちらもすばらしい映画だった。

 岩佐監督は、通訳とカメラマンという数人のスタッフだけを連れて、ヒマラヤの谷間で生きる難民の生活を撮り続けた。

 監督は、「国破れて、なお生きる少年在り」という点で、敗戦直後、少年だった自分と「オロ」とは重なっていると語っている。

 「それでもぼくは歩いていくという少年オロの決意は、21世紀という多難な時代に生きる地球上のすべての少年に共通する」と、岩佐監督は語っている。

 岩佐監督の作品には、主人公の姿の向こう側に、人間や世界に対する普遍的な愛というか、まなざしがある。

 「オロ」の公式ホームページを見て、後日知ったのだが、撮影にあたって、現地コーディネーターを務めたのは中原一博さんだった。

 岩佐監督は、今年5月4日に亡くなった。

 

 ◇「ダライ・ラマ14世」について

 この映画の監督は光石富士朗。しかし、実際にほとんどの映像を撮ったのは、薄井大還と、その息子の一議だ。

 薄井親子は、ダライ・ラマ法王の自宅での撮影を許されたことから、その後、来日時も法王に密着し、映像を撮り続けてきた。

 それらの映像を元に作品化するにあたって、客観化するために、友人のプロデューサー吉田裕を通して、光石に監督・編集を頼んだ。

 薄井親子は、長年、法王に密着して映像を撮っていたから、法王に対する思いには並々ならぬものがあるに違いない。

 しかし、彼らが撮ってきた膨大な映像を選んで、観客に確かなことを伝えるためには客観的な目が必要だと、光石に監督を依頼したのだという。

 それは、見事に成功して、単なるチベット・キャンペーンになることを免れている。

 何よりも、ダライ・ラマ法王と仏教をよく理解していると感じた。

 ダライ・ラマ法王の映像の合間、合間に、いろんな日本人の法王への問いがはさみこまれている。

 インターネット上で、この問いがあまりに愚かで、ばかばかしいと批判している人が結構いた。

 しかし、この問いを発している人たちは、ごく普通の人々だ。

 そして、ブッダがこの世を「火宅」と喩えた、その「火宅」に生きている人々そのものである。

 ブッダは、人々に火宅から逃れて、外へ出るようにと、生涯をかけて教えを説く旅を続けた。

 私には、ただチベットのためだけではない、世界中を旅して、その時、その場所で出会った人々にふさわしい言葉で慈悲を説き、仏教の教えを伝え続けるダライ・ラマ法王は、まさにブッダその人のように思える。

 そのダライ・ラマ法王の姿を、この映画は余すことなく伝えている。

 チベット・キャンペーンの映画だと誤解して、この映画を見ない人はずいぶん損をしていると思う。

 物欲と暴力に満ちた今の日本、世界にとって、とりわけ、人生に答えを見つけられないと苦しんでいる若い人々に、この映画は少なくとも、一歩歩みだす勇気を与えてくれる。

 もう一度、見たくて、再上映している京都シネマに明日にでも出かけようと思っているのだが、映画の公式ホームページで、昨日15日に光石監督が挨拶に訪れたことを知り、残念無念。

 でも、昨日は、シネ・リーブル神戸に「ロバート・アルトマン」を観に出かけていたのだ。

 

  ◇「ロバート・アルトマン ハリウッドに最も嫌われた男、そして最も愛された男」について

 初めて見たアルトマン監督の映画は、「MH マッシュ」 (1970年)だ。私と同世代の人なら大抵そうだろう。

 朝鮮戦争が舞台だが、当時はベトナム反戦運動が盛んだった時代だから、当然、ベトナム戦争と重ねて観た。

 あまりの斬新さにショックを受けたのを覚えている。こんな映画のつくり方って、あり?という感じ。

 案の定、アルトマンは、多くの映画製作会社、スポンサーに嫌われ続けたが、映画を愛する俳優、スタッフには敬愛された。

 この映画の監督は、ロン・マンというカナダのドキュメンタリー映画作家だ。

 「MH」から、遺作となった「今宵、フィッツジェラルド劇場で」まで、多くの見落とした映画もあったが、なぜ、アルトマン映画に引かれるのか、分かった気がする。

 過激さゆえにハリウッドで嫌われたが、アルトマン自身は「本当のことを撮って、まっすぐ歩いてきただけだ」と言う。

 アルトマンには、この世界を1つの視点で切り取ること、お定まりの手法でこの世界の真実を描くことは不可能だということがよく分かっていて、映画を作るたびに、本当のことを伝えるには、どんな描き方をすべきか、試行錯誤してきた人だということがよく分かった。

 そのためには、ある時には、ドン・キホーテのように、風車に向かって突進することも辞さない。

 それに対して、ハリウッドは、いかに古びた見方に固着し、飽きることなくワンパターンの手法を取り続けてきたか!

 ロン・マンという監督も、アルトマンという映画人の本当の姿に迫るために、独特な手法を用いて、このドキュメンタリー映画を作っている。

 アルトマンを敬愛する映画スタッフ、「アルトマンらしさとは?」という問いに対する俳優たちの答え、映画、テレビ・ドラマの映像、撮影風景、子どもたちが映したホーム・ムービー、夫人へのインタビュー、そして、アルトマン自身のいろいろな場面での発言、それらが、アルトマンの映画よろしく、多面的、多重的にちりばめられていて、映画を見る観客の想像力がアルトマン像を結んでいくというような手法だ。

 この映画を見たら、アルトマン自身も感心するのではないかと思った。

 

 続けざまに、いろいろなドキュメンタリー映画を見て感じたこと。

 複雑極まるこの世界の真実に迫るには、一面的であってはならない、客観化、相対化が必要なこと。

 映像の向こう側に、人々の想像力を喚起する、ある種の普遍的な世界観があること、そして、人間、世界に対する愛情があること。

 そのために、あらゆる手法への努力を惜しまないこと。

 そういえば、これは、仏教的な世界観に似ているなあ。

 


セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター

2015-09-10 00:04:25 | 映画

 この半月あまりの間に、3本のドキュメンタリー映画を見た。

 一つは「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」。原題は“THE SALT OF THE EARTH” 。

 何年前になるか、サルガドの作品が掲載された雑誌を友人が貸してくれて、初めて見た写真に釘付けになった。

 そのサルガドが故郷ブラジルに帰って、父から受け継いだ荒れ果てた農園に木を植え、周辺にも森を再生したというテレビ番組を少し前にやっていた。

 映画は、ヴィム・ベンダースが監督だというので、上映されるのを楽しみにしていた。

 ヴィム・ベンダースは、30年以上も前に、友人がドイツ領事館から借りてきた映画「さすらい」を小さな集まりで見たのが最初。

 「パリ・テキサス」を見たとき、「さすらい」という映画に感じが似ていると言ったら、「『さすらい』も同じ監督だよ」と友人が教えてくれて、ヴィム・ベンダースという名前が、私のお気に入りの監督の名前として、脳裏に刻まれた経緯がある。

 サルガドとベンダースという組み合わせは、映画を見る前から、期待せずにはおれない。

 映画館は「シネ・リーブル神戸」。

 サルガドは、飢餓や戦争に苦しむ人間に寄り添って写真を撮り続けた結果、精神的なバランスを崩してしまい、写真が撮れなくなる。

 故郷ブラジルに帰るが、生まれ育った父の農場は、開発と旱魃で荒れ果てていた。

 「木を植えましょう」という妻の一言で、農場やはげ山となった周辺に木を植え続け、失われた緑の大地を取り戻す。

 森の再生はサルガドの魂も再生させ、撮影する対象も、自然そのもの、自然とともに生きる先住民と変わっていく。

 サルガドの写真、父の撮影に同行した息子、ジュリアーノ・リベイロ・サルガドの撮った映像、ヴィム・ベンダースとのインタビュー、サルガドの人生の要所要所で重要な、賢い選択を促してきた、妻でもあり仕事の同志でもあるレリア、障害を持つ次男。

 さまざまなことをシンクロさせながら、映画は、人間も動物も自然も、山川草木すべてを含んだ地球そのものが持つ再生の力を感じさせてくれる。

 サルガドの撮る写真は、旧約聖書の世界を感じさせたが、この映画は、仏教的、華厳経的な世界観をも感じさせる。

 ベンダースは、ニュー・ジャーマン・シネマの旗手と言われると同時に、ロード・ムービーの旗手とも言われてきた。この映画も、ロード・ムービーだとも言える。

 故郷を出て、世界中をさまよい、家族とともに荒れ果てた故郷に帰り、森を再生させ、人間の希望の道を見つける、そういう旅人の映画だ。

 そう言えば、華厳経の「入法界品」で、善財童子が旅をして、さまざまな出会いの果てに悟りを得るという話に似ているなあ。

 あとの2本の映画については次回に書く。


そこのみにて光輝く

2014-09-13 01:46:06 | 映画

 この夏、いい映画を2本続けて見た。

 一つは、狭山事件を描いた「SAYAMA 見えない手錠をはずすまで」というドキュメンタリー映画。

 知人から映画の案内が送られてきたとき、いつものプロパガンダ映画かなと思い、正直、積極的に見に行こうとは思わなかった。

 しかし、上映をうっかり見逃した私に、知人が再び、上映スケジュールのコピーを送ってくれた。見れば、私が住んでいるところから、そう遠くない市民会館での上映なので、行って見た。

 見てよかった。再び、映画を見るように勧めてくれた知人に感謝した。

 監督の金聖雄さんは、大阪・鶴橋生まれの在日2世。この人のセンス、アプローチの仕方がとてもいい。

 映画は、仮釈放後、結婚した石川一雄・早智子夫妻の生活を中心に、布川事件、足利事件の免罪被害者との交流、石川さんの兄夫婦の話、石川さんの両親の過去の映像も使って、貧しさと差別の中でまっとうに生きてきた被差別の人々の夫婦愛、家族愛を描いている。

 これまでの運動にありがちだった、プロパガンダ映画では決してない。出てくる人々は、みんな魅力的な人々で、中でも、石川一雄さんと早智子さんの人間性がそのまま伝わってくるような画面を見ていると、石川さんは絶対に無実だという確信が自然に生まれてくる。

 拳を振り上げたり、大声で国家権力を糾弾するというような、プロパガンダ映画にありがちなステレオタイプの映像や言葉はない代わりに、映画に出てくる三組の夫婦の何でもない日常の姿や言葉が、却って、冤罪がいかに非人間的で、正義に反するものであるかということを浮き彫りにしていく。

 会場で挨拶した撮影担当の人が「運動の側からは、運動を描いていないと言われました」と語っていた。

 私は、こういう映画がつくられたことは、狭山事件を、解放運動から、もっと広い人々のなかに広げていく、きっかけになるのではないかと思う。

 

    ~ ◇ ~ ◇ ~ ◇ ~

 

 

 もう一つの映画は「そこのみにて光輝く」。

 朝ドラの「カーネーション」で見て以来、綾野剛ファンになった私は、彼が出ているというだけの理由で、この映画を見に行った。

 封切以来、なかなか出かけることができずにいたが、近所の映画館で上映されていたので、これが最後の機会とばかりに見に行った。

 綾野剛さえ見ることができたら、映画がそれほどでなくても別にいいや、と思っていたのが恥ずかしい。

 綾野剛はもちろんよかったが、ヒロインを演じた池脇千鶴、その弟役の菅田将暉がすばらしい。脇役の高橋和也、火野正平、伊佐山ひろ子もいい。

 何より、呉美保監督の人間のとらえかた、映像センスに脱帽した。脚本、カメラもとてもいい。

 呉美保監督は、以前に評判になった「オカンの嫁入り」を撮った監督だ。

 映画の題名だけは知っていたが、呉美保監督については全く知らなかった。

 そして、原作を書いた佐藤泰志という作家についても全く知らなかった。

 三島由紀夫賞や芥川賞など、何度も文学賞の候補に上げられながら、受賞に至らず、41歳で自死した作家だそうだ。

 帰宅しても、ずっと、映画のことが頭から離れない。

 そうしているうちに、テレビに、突然、モントリオール映画祭で、吉永小百合主演の映画が特別作品賞を、呉美保監督が最優秀監督賞を取ったというニュースが流れた。

 私が見た時間帯のNHKのニュースでは、吉永小百合の映像ばかり流れて、呉美保監督についても、作品についても何の説明も出てこなかった。これって、NHKの偏見?と思ったほど。

 後で、早い時間帯のニュースで、呉美保監督の映像も流れたと知ったが

 とにかく、最優秀監督賞受賞というニュースに、「そうだろ。当然だ」と思った。

 おまけに、その後、「そこのみにて光輝く」が、アカデミー賞外国映画賞候補の日本代表作品に選ばれた。

 呉美保監督は、モントリオールでの記者会見で、「受賞を、作者の佐藤泰志の墓前に報告したい。トロフィーは佐藤泰志の故郷、函館に送った」と語った。その気持ちもすごくよく分かる。

 この映画にかかわった人は全員、原作者の佐藤泰志への思いでつながって、映画に全力投球しているような、そんな感じがする。

 呉監督が語っているように、奇跡が続いて、アカデミー賞も受賞してほしい映画だ。

 私の好きな日本映画の監督は、みんな死んでしまって楽しみがなくなっていたが、これからは、呉美保監督の作品を楽しみにできるのがうれしい。

 

 


一枚のハガキ

2011-08-23 19:14:10 | 映画

 99歳の新藤兼人監督がメガホンを取った「一枚のハガキ」を見た。以前NHKで、そのメイキング・ドキュメンタリーを見ていたので、楽しみにしていた。

 観客は、圧倒的に高齢者が多い。ちょっと早めに行ったのだが、よい席が残っていなかった。見終わって外に出ると、次の上映回の観客が大勢待っていてびっくり。

 戦争という悲劇をただ悲劇として描いていない点、戦争で人生を狂わされた二人(大竹しのぶ演ずる戦争未亡人・森川友子、豊川悦司演ずるくじ引きで生き残ってしまった兵士・松山啓太)が、紆余曲折の末、大地に豊かに実った麦のように生き抜く希望を描いた点が、いかにも新藤兼人監督らしい。

 そこには、絶望したら戦争に負けることになる、戦争なんかに負けてたまるか、倒れても倒れても生き抜くことが、無力な大衆が戦争に勝つ唯一の方法だ、というようなメッセージが込められていると思う。

 戦争映画でよく描かれる出征の場面、英霊と書かれた白木の箱になって帰ってくる場面を皮肉たっぷりに戯画化したり、戦争があってもなくてもいつの世にも抜け目なく器用に生きる庶民の姿など、ユーモラスな場面もあって、大いに笑わされもしたが、始めから終わりまで泣かされて、目が真っ赤になり、外にでるのが恥ずかしかった。

 余計なものはバサッと削り取って、登場人物に変に感情移入せず、人間の営み、喜び、悲しみを単純明快に描き、メッセージもはっきりしている。

 ほかの監督であれば、あまりにも明快すぎてリアリティーが感じられないかもしれない。しかし、新藤兼人監督は、観客を納得させてしまう。

 「そうだよね。負けてたまるか。私たちも、友子や啓太のように、どんなことがあっても、生きなくちゃ。絶望しないで生きてこそ、理不尽を強いた軍人や政治家や、戦争で金儲けをする奴らに勝つことができる」と思わせてしまう力を持っている。

 大竹しのぶはすごい。その演技のあちこちに、乙羽信子を重ねてしまうような場面もあった。

 友子と啓太が樽を担いで沢から水を運ぶシーンでは、「裸の島」の乙羽信子と殿山泰司を連想させた。

 この映画が最後だという新藤兼人監督の脳裏には、過去に撮った映画のさまざまなシーンが去来していたのではないかと思う。

 おりしも、NHKでは、今、戦争のさまざまな場面で地獄を味わった人の証言集を放送している。証言者はいずれも、友子と啓太のように、戦争で人生を狂わされる。そして、どの証言者も、自分だけが生き残ったことを申し訳ないと思い、死ぬまで自分の戦争は終わらないと、異口同音に語っている。

 「一枚のハガキ」の友子と啓太は、そういうすべての人々を代表して、「あなたが生き残ったのは、生き抜くためだ。戦争で死んでしまった人々のためにも、戦争を悲劇のままで終わらせてはいけない。生き抜いて希望の火を次の世界につないでいくのだ」と言っているように思えた。


原田芳雄の「大鹿村騒動記」

2011-08-12 23:33:23 | 映画

 原田芳雄の最後の映画「大鹿村騒動記」を見た。久しぶりに見る映画だ。

 阪本順治監督が、先月71歳で亡くなった原田芳雄を主演に据えて撮った、最初で最後の映画。

 原田芳雄は阪本監督の作品の常連だが、阪本監督の映画は独特の癖があり、どうも相性が悪くて、映画館にあまり足を運ばなかった。

 原田芳雄は黒木和雄監督作品の常連でもある。黒木監督は好きな監督の一人なので、よく見ている。先日BSで「父と暮せば」を放送していたが、上映時には宮沢りえが主演だと思って見たけれども、これは原田芳雄主演の映画だということがよく分かった。

 「父と暮せば」とともに、黒木監督の戦争レクイエム三部作と言われている「TOMORROW明日」「美しい夏キリシマ」にも出ている。ちなみに、この中で私がいちばん好きな作品は「美しい夏キリシマ」だ。黒木監督の少年時代の戦争体験を描いたもので、こういう戦争の描き方があるんだと、感動した。

 その黒木監督も2008年に亡くなった。

 「大鹿村騒動記」は、実在する長野県の村、大鹿村で300年続く「大鹿歌舞伎」に芸能の原点を見た原田芳雄が、阪本監督に話を持ち込んで実現した映画。

 とにかく、原田芳雄がいい。原田芳雄は、若いころからセクシーで、存在感がある俳優だったが、この映画を最後に撮ることができて、幸せだったろうと思う。その幸せ感が、共演の俳優たちにも伝染しているような感じだ。

 おそらくスタッフたちも映画を撮っている間、幸せだったのではないだろうか。

 映画の中で演じられる歌舞伎の演目は「六千両後日文章 重忠館の段」。大鹿歌舞伎の演目は人形浄瑠璃の義太夫狂言が中心になっているという。

 人形浄瑠璃は、歌舞伎に比べると、より土俗的、大衆的で、大衆の思いをストレートに反映しているものが多い。そのため、ストーリーも舞台設定もあり得ないようなめちゃくちゃな展開を見せる。

 しかし、そのめちゃくちゃな展開の中で、この世の真実を語る。大衆は、そこに共感し、怒り、喜び、涙を流し、カタルシスを経験する。

 「六千両後日文章」は今は大鹿歌舞伎にしか伝わっていない演目だそうだ。

 原田芳雄が村の歌舞伎で演じるのは、平家の落人、景清。源氏の大将・源頼朝、頼朝の重臣・畠山重忠にたった一人で戦いを挑むのだが、最後に、源氏の世を見たくないと自ら両眼をくりぬき、目から血を流しながら「仇も恨みもこれまでこれまで」と見得を切る。

 「仇も恨みもこれまでこれまで」というセリフは、映画の中でいろいろなものに縛られ振り回されている村人や、今の日本、世界に向けて発せられた「和解」のメッセージだ。この「重忠館の段」自体が、和解の物語なのだ。自分を殺そうと襲いかかってきた景清を、頼朝は許すのである。

 ジュリー・テイモア監督の「テンペスト」も、復讐と和解の物語だった。最後にプロスペラが、観客に向かっていうセリフも和解を促すものだった。

 「テンペスト」も、「大鹿村騒動記」も、一方はシェイクスピア劇、一方は歌舞伎という伝統的な演劇を扱い、同じメッセージを発している。これは偶然だろうか。

 映画を見終わって、この作品は原田芳雄からの最後の贈りもののように思えた。

 映画を撮っているときには、彼は死ぬとは思っていなかっただろう。けれども、身体の中に癌を抱えていたし、71歳という年齢は、原田芳雄から無駄なものを取り除き、純粋に芸能の原点に立ち返って、伝えるべきものを伝えようと思っていたのではないだろうか。

 私は、この映画でも、マルセル・モースの「贈与論」、岩田慶治さんの「贈りもの=霊魂」「霊魂=場所」説を思い出した。

 原田芳雄が「大鹿歌舞伎」に見出した芸能の原点とは、演者と観客が、演劇という場で、霊魂の交換をするということではなかっただろうか。