いろいろあって、長い間ブログにご無沙汰。例によって、友人たちと年4回発行している同人紙からの転載。
映画「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」を見る
昨年は雑用に追われて、見たい映画をずいぶん見損なった。そのなかで、二回も見た映画がある。「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」、原題は〝A QUIET PASSION〟。
ディキンスンの伝記映画が上映されることを知ったときは、いま、なぜ、アメリカがディキンスンを取り上げるのか、ふしぎだった。
ディキンスンの孤高の詩の世界は現在のアメリカ社会とはあまりにかけ離れていると思った。
監督のテレンス・デイヴィスがイギリス出身で、ディキンスンをアメリカの最も偉大な詩人だとして尊敬し、自ら脚本を手掛け、イギリス、ベルギーの合作で2012年から製作を始めたことを知った。
エミリを演じたシンシア・ニクソンもディキンスンの熱烈な愛読者だそうである。
ディキンスンの詩に初めて出会ったのは高校生の時だったか、大学に入ってからか、母が毎月買っていた婦人雑誌に、ディキンスンの詩が載っていた。どういう詩であったのか、忘れてしまったが、「冬の午後には斜めの日差しがある」というフレーズを覚えている。
今、そのフレーズを手掛かりに詩集をひも解いてみると、
「冬の午後には/一筋の斜光がある/大会堂(カシドラル)の旋律のようにも/人の心を圧する光がある」という一節で始まる詩が見つかった。
この詩がその時の詩だったのか、今となっては分からない。
ともかくも、ディキンスンという未知のアメリカの女性詩人について知りたいと思い、学校の図書館や書店をさがしたが、その当時は訳詩集も出版されていなかった。
後に『詩集 自然と愛と孤独と』『続自然と愛と孤独と』(中島完訳、国土社刊)という2冊の詩集を手に入れ、夢中で読んだ。詩集には簡単な解説と年表が付されていたが、私はもっぱら、気に入った詩を勝手に解釈して繰り返し読み、勝手なディキンスン像を作っていった。
今、その詩集を久しぶりに手に取ってみると、至る所に付箋がつけられている。
中でも、説教を聞いて心惹かれたワズワース牧師を仮想の恋人に見立てて作ったらしい、いくつかの愛の詩に、ロマンティックな想像を掻き立てられた。
もしあなたがこの秋にいらっしゃるなら/夏など払いのけておくものを/半分笑顔で半分鼻であしらって/ちょうど蠅を追う主婦のように――
もし一年のうちにあなたにお会いできるなら/ひと月ひと月を玉にして/それぞれ別の引き出しにしまっておくものを/日数がまざりあわないように――
もしそれが何世紀か遅れるだけなら(中略)
もしこの世を後にしても/あなたと私の生命があるのなら/この人生など果物の皮のように投げ捨てて/かわりに永遠を手にするものを
だがその間の時の定めない長さに/いま私の心は痛むばかりだ/それは悪魔が蜂となり/針を隠して刺すように
ディキンスンは深い孤独感を抱き続け、魂の永遠を求めた詩人でもあった。
それらをテーマとした詩にも、若かった私は強く共感した記憶がある。
自然を詠んだ詩には、作者の優れた観察眼がうかがわれた。何よりも独特の比喩を使った表現に夢中になった。
社会に出てからは仕事に追われて、ディキンスンのみならず詩集というものを手にすることも少なくなった。
そんな中、思わぬところでディキンスンと再会する。1982年に製作された映画「ソフィーの選択」。
メリル・ストリープ演ずるソフィーが恋人ネイサンと心中したのを、ソフィーに心惹かれた青年スティンゴが部屋を訪れて発見する。
机の上にはディキンスンの詩集が残され、スティンゴが映画のラストシーンで声をあげて読んだのが次の詩だった。
広いベッドを創れ/畏れながら準備して/公正な/審判の下る日を/静かに待とう/寝床をまっすぐに/まくらもまっすぐに/まくらはまるく/朝日の黄金色の騒音に/心乱されないように
ディキンスン詩集は、この映画の中でソフィーとネイサンが出会うきっかけとして使われていて、この詩がラストシーンで示されることにより、ソフィーとネイサンの悲劇的な愛と死の意味を観客は深く考えさせられるのである。
ディキンスンは1830年、マサチューセッツ州アマストに生まれる。
父エドワードは弁護士で国会議員も務めた、いわば名士である。兄も後に父と共同の法律事務所を開いた弁護士である。
9歳から16歳まで断続的にアマスト・アカデミーで学んだ後、マウント・ホリヨーク女学校に進むが、在籍したのは1年に満たなかった。
以後、数えるほどの例外を除いて、アマストを離れることはなかった。
ついには自宅から出ることさえ稀になる。
それは広場恐怖症的、神経症的な性格の故であるという説が長年語られてきたが、研究が進むにつれて、実際には文通を含めてもっと広い交際があったという学説が出されている。
生前に父の友人、ボウルズが発行するスプリングフィールド・リパブリカン紙に10編足らずが掲載されたほかは、エミリの詩はタンスの引き出しにしまい込まれたままだった。
死後、妹のラヴィニアによって、1800編ほどの詩稿が発見された。
幾度か詩集が出版され、時代を経るにしたがってディキンスンの詩人としての評価は高まっていった。
ディキンスンの詩には題名がなく、番号が付けられている。
さて、映画「静かなる情熱」は、教師が強要する信仰になじめず、エミリが女学校を退学する場面から始まる。
当時のアメリカの上流社会では、厳格で不寛容なピューリタニズムの影響が強かった。
オペラに魂を揺さぶられるエミリを、叔母や父は、快楽的だと苦々しく思う。
教会に行こうとしないエミリを父は非難するし、ひざまずいて祈ることを強要する牧師に、家族の中でエミリ一人が祈りを拒否する。
ワズワーズ牧師夫妻を家に招き、お茶を勧めると、お茶を飲むのは信仰に反するから、水かお湯でよいと断られる。
エミリはこのような19世紀アメリカの息苦しい世俗社会に生まれ育ったのだ。
学校から実家に戻ると、エミリは父親に、夜に書き物をする許しを請う。
たかが書き物をするぐらいで父の許しを請わなければならないことに驚かされた。それほど当時の家父長の権力は強かった。
こうして、エミリの詩作が始まった。
家族が寝静まった深夜から明け方まで、エミリはろうそくの灯りのもとで詩を書き、何編かをまとめて糸で綴じる。
父の友人が発行する新聞に投稿する許しを得て、実名を伏せて掲載されるが、編集長のボウルズは「有名な文学は男の作品で、女には不朽の名作は書けない」と言う。
映画の中で、エミリは、世俗的な価値観に疑いを抱くことなく、それを周囲にも強要する人々に怒りをぶつけ、魂の自由を守るために激しい言葉で反論する女性として描かれている。
詩だけがエミリにとっては真実であり、自分が呼吸できる世界だった。
映画を1回目に見たとき、エミリ・ディキンスンという女性のあまりにも激しい描き方に、私が若いころからイメージしていたディキンスン像とはちょっと違うと感じて、近くの映画館で遅れて上映されたのを機にもう一度見に行った。
2回目は、1回目にあまり気に留めなかった場面が心に引っかかった。
一つは、病弱な母親の描写。ある研究者は、母親をただただ凡庸な女だったと書いている。
しかし、母が自分の青春時代を語る場面があって、未来に夢を抱いていた少女が、結婚して家に閉じこもるような女になったのは、宗教と家父長的社会に抑圧された結果ではなかったかと思わせる。
もし詩を書くことによって自分の魂を守れなかったら、エミリもこの母親のようになったかもしれないのだ。
二つ目は、性的抑圧。兄と結婚した親友スーザンが、結婚して夫と性行為をしなければならないことが恐ろしかった告白する場面がある。
当時のみならず現在でも、結婚生活に不満はないが、夫との性交渉は忍耐あるのみだと語る女性は少なくない。
三つ目は南北戦争。1回目は単なる時代背景として南北戦争が描かれたのだと思った。
兵士の死体が累々と横たわる戦場の映像は何度も繰り返され、戦場となった地名と戦死者数が示される。
その数は南北軍、市民を合わせて70万人を超える。第二次世界大戦の米軍の死者数40万人の2倍近い死者を出したとは知らなかった。
ディキンスンの詩に「死」が多く登場するのは、南北戦争が影を落としているかもしれない。
保護者であった父の死、愛する母の死、そしてエミリ自身もブライト病(腎臓炎)で倒れる。
激しい痙攣で苦しむエミリを映画は執拗に描いている。エミリの人生そのものの苦しみを描くように。
ベッドに横たわるエミリの遺体の映像は、同時代のイギリスの画家、ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」を連想させる。
狂って川に落ち、水に浮かびながら歌を口ずさむオフィーリアは、苦しみから解放されて美しい。
エミリ・ディキンスンも死によって苦しみから解放され、美しい遺体をベッドに横たえている。55歳だった。
この映画はデイヴィス監督のディキンスンへのオマージュである。
なぜ、いまこの映画なのかと冒頭に書いたが、宗教的不寛容、性差別、暴力(富の独占も含む)による支配、戦争が、ディキンスンの生きた時代と変わらず、むしろより強力に人々を抑圧し続けているからだ、と解釈するのは、深読みに過ぎるだろうか。
※岩波文庫から『対訳 ディキンスン詩集 アメリカ詩人選③』が発行されている。