空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

気功と動的平衡と有機農業と

2017-08-22 21:42:57 | 日記・エッセイ・コラム

 友人と出している同人紙からの転載です。 

  

  三題噺のような題名だが、「気功」「動的平衡」「有機農業」、最近、この三つの言葉を結びつけて、考えを巡らすようになった。その経緯について書く。

 「峨眉気功」との出会い 

 「気功」とは、「峨眉気功」のこと。昨年暮れ、上智大学大阪サテライトキャンパスの公開講座「こころとからだのケア学」を受講した。

 全4回の講座は、毎回、後半に「峨眉気功」の実習がついていて、峨眉気功の中の基礎となる「伸展功」の技を習った。

 講座のまとめに、「東アジアの養生文化の発掘と未来可能性」というシンポジウムも開かれ、峨眉気功の伝承者、張明亮先生の講演を聞く機会に恵まれた。

 張先生が第14代伝人として中国内外で指導している「峨眉丹道医薬養生学」は800年の歴史があり、峨眉山の臨済宗の僧、白雲禅師が創設したと伝えられる。峨眉山は道教の聖地でもあり、芥川龍之介の短編『杜子春』で、主人公の杜子春が仙人修行をするところが峨眉山である。

 峨眉養生学の中心となる思想は、「太極」に象徴される宇宙観や生命観、「気」の思想だ。

 私は更年期に持病の喘息やアレルギーが悪化し、中医学の治療で改善した経験がある。現在も主治医は中医学の先生だし、鍼灸治療も続けてきて気の存在を実感しているので、張先生の峨眉養生学についての話はとても納得できるものだった。

 生命の三つの側面―「形」「気」「神」 

 とりわけ印象に残ったのは、「形」「気」「神」についての話だ。宇宙の万物はすべて「気」で構成されており、生命の根源である。

 「気」には「有形」と「無形」の二種類の存在形式がある。無形の気は微細で、拡散し、運動している状態で、見ることができない。有形の気は、気が凝縮して、目で見える実体となったものだ。

 これを人間に当てはめると、目に見える肉体は有形の気で、「形(けい)」という。目に見えない心、精神などは無形の気で「神(しん)」という。

 気は、形と神を仲介してつなぐもので、生命そのものである。気がなければ肉体は死に、心は活動できない。

 張先生はまた、気は私とあなたをつなぎ、私と世界、自然、宇宙をつなぐものだと説明された。

 峨眉伸展功は導引術の一つ。導引とは、肢体の屈伸運動で気血の巡りを促し、健康体と長寿をもたらす、中国古来の養生法だ。

 張先生は、伝統的な導引術を基礎として、ヨガなども取り入れ、「峨眉伸展功」を完成された。

 伸展功は、伸ばす、曲げる、緊張させる、緩ませるという身体運動によって、気を鍛錬し、心身をコントロールし、形神合一(心身合一)、ひいては人天合一を目指す技である。

 気をコントロールするためには、気を感じることが必要だ。

 例えば、立つという姿勢の場合、頭頂と足底の二点を相反する方向に伸展させる。すると二点の間に、気が通る道ができる。この気の通る道を「勁(けい)」といって、張りすぎても緩めすぎてもいけない。

 伸展功は、「勁」を常に保ちながら動かなければならない。しかし、緊張させる部分、緩める部分、身体のあらゆる部分の動きを観察し、正しい姿勢と動きを身につけなければ、「勁」を感じることはできないし、「気」も感じられない。

 私は長年、友人の鍼灸師の下で鍼灸治療を受けてきた。気が通る道筋を経絡(けいらく)というのだが、的確なツボに鍼(はり)を打たれると、経絡に沿って気が動いていく様子を実況中継できるほど、気を感じ取ることができるようになった。しかし、伸展功で「勁」を感じるのは難しい。

 今、月一回の講習会と、月三回の伸展功を中心とした気功教室に通っているのだが、道遠しである。それでも、体が動く限り続けようと思っている。

 続ける理由は、伸展功が単なる健康体操ではなく、その背景に道教や仏教など、東洋の叡智ともいうべき身体観、世界観、宇宙観があって、折に触れて新しい発見をもたらしてくれるからである。

 ◇動的平衡こそ生命の働き 

 伸展功を学び始めて半年ぐらいたったころ、教育テレビの「SWITCHインタビュー 達人達」という番組で、生物学者の福岡伸一先生と坂本龍一の対談を聞いた。

 坂本龍一の音楽に対する真摯な姿勢にも感動させられたが、福岡先生が「動的平衡」について話した内容に、思わず引き込まれた。

 福岡先生の多くの著作はいまだ読んだことがなく、動的平衡という言葉も聞いてはいたが、それがどういうことを指すのか知らずにいた。

 ロックフェラー大学で、自分の研究分野のことを坂本龍一に話す場面で、動的平衡という言葉が出てきた。

 20世紀の生物学は、細胞の中で何がどういうふうに作られているかというメカニズムばかり研究してきた。しかし、今世紀にかけて、作ることよりも壊すことの重要性が注目されるようになった。

 福岡先生は、三分の一ほどが欠けた車輪が坂を登っていく図を示す。

 欠けている輪の下の端で分解作用が起き、上の端で合成作用が起きている。分解と合成の絶妙なバランスが、生命現象の流れ=動的平衡で、車輪が坂を登る力となり、転がり落ちるのを防いでいる。

 つまり壊すこと、分解がなければ、生命は維持されない。合成より分解のスピードが勝れば、細胞は老化し、やがて死に至る。

 福岡先生が示した動的平衡の図は、太極図を思い起こさせた。太極図の陰の部分が分解作用と考えれば、陽の部分は合成作用。陰と陽は常に動き、変わり続けている。しかし気の働きによって絶妙のバランスをとっているので、生命も宇宙も維持されている。

 また、動的平衡の概念は、仏教の「因果の法」や「無常」にも通じる。

 複雑な因果の働きによって物事が生じては滅する。生きとし生けるものは一瞬たりとも留まることなく、変化し続けている。

 『方丈記』の冒頭部分「行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」、だからこそ川は流れ続けることができるのだ。

 ◇有機農業の有機とは「天地有機」 

 この6月、久しぶりに保田茂先生のお話を聞いた。保田先生は、私がかかわっている産消提携団体「食品公害を追放し安全な食べ物を求める会」(通称求める会)を40年以上前に立ち上げた一人である。

 神戸大学農学部の教授を退官されたあと、NPO法人・農漁村文化研究所を創設し、有機農業の研究と普及に携わっておられる。

 「有機農業が目指してきたもの、目指すもの」と題された講演で、改めて考えさせられたのは、有機農業の本質的な意味についてである。

 保田先生は、1970年代に有機農業運動に尽力した一楽照雄氏の思想に触れ、「有機農業の有機は、『天地有機すなわち、天地、機あり』と理解すべきである」と言われた。天地には自然の働き、法則があるという意味である。

 ハッとさせられた。今まで、有機とは、有機物の有機だと解釈し、有機農業とは農薬や化学肥料を使わず、環境に負荷をかけない農業だというような、表面的な理解しかしていなかった。

 保田先生の言葉に強く心が動かされたのは、中医学や鍼灸治療を受けてきた経験や、伸展功、仏教の勉強を通じて、日常的に「天地有機」を感じるようになっていたからだと思う。

 「有機農業とは、大自然の法則を大地に生かす農業だ」と先生は言われた。

 「天地有機の世界は、山の森、土手の草むらに存在する。山の木、土手の草は自然の法則に従って生きているから、病気や害虫の被害はほとんどない。その秘密の力は土(腐葉土)と環境(生態系)にある。腐葉土は、植物性の有機物を主体に、ダンゴムシ、ゴミムシ、ミミズなどの小動物、土壌微生物など、多様で豊かな生態系の中でつくられる。だから、特定の生物の異常発生も抑制される」。

 「したがって、有機農業の基本原理は、いい土をつくること、いい環境をつくることである」。

 保田先生は、天地の機、すなわち自然の法則に学び、しかも、生産者ができるだけ楽に、質の良い農産物をつくれるように、10年にわたる農業の実践を通じて、有機農業技術を研究され、各地で農業従事者の塾を開き、技術を伝え続けておられる。

 結論というにはおこがましいが、この世に存在するすべてのもの、自分自身、社会、世界、自然、宇宙全体、すべてのものは、天地の機によって生じ、滅する。

 天地の機、その叡智を学び、自らのものとすることで、人間は世界と調和した生き方ができるのではないかと考えている。

 『荘子』の「渾沌、七竅(きょう)に死す」という寓話を折に触れて思い起こす。

 南海の帝・儵(しゅく)と北海の帝・忽(こつ)が、中央の帝・渾沌(こんとん)の手厚いもてなしを受け、その恩に報いようとする。人間にある七つの穴(目、耳、鼻、口)が渾沌にはないので、その穴をあけてあげようと、一日に一つずつ穴を穿っていった。渾沌は七日目に死んでしまった。儵忽はつかの間という意味。渾沌は未分化であらゆるものを包みこんでいる自然。

 効率や便利さを追い求める人間の浅知恵が何をもたらすかを、強烈に皮肉った寓話である。


お盆の墓参り

2017-08-17 18:01:41 | 日記

 夏バテやら、風邪やらで、お盆の墓参りが16日になってしまった。猛暑で、出かけるのがおっくうだったせいもある。

 何しろ、駅から墓まで、影一つない道を20分は歩かなければならない。

 両親の介護をしていた時から、スーパーへの買い物帰りに立ち寄っていた珈琲亭が、お盆にもかかわらず開いていたので、ホッとする。久しぶりなので、マスターも喜んでくれた。

 たまっていたポイントで、東ティモールの豆100gを購入。コーヒーチケットがちょうど1回分残っていたので、ルワンダのコーヒーをいただく。あの部族同士の争いで、虐殺が起きた国だ。

 ルワンダは標高1000~2000mの高原の国で、植民地時代からコーヒーの産地だったが、内陸部で輸送手段がなく、あっても高くつくので、これまであまり市場に出回らなかったのでそうだ。

 ルワンダ産のコーヒーを飲むのは初めてだ。スッキリした、パンチのある苦みと酸味がほどよく調和して、暑さを吹き飛ばしてくれる。

 あとで、ネットで調べてみると、大量虐殺事件からの復興の過程で、スペシャリティコーヒーの生産に力を入れるようになり、コーヒー栽培に適した気候と、農薬を使わず、有機肥料も使わない自然栽培で、質の良いコーヒーが生産されるようになったそうだ。

 小規模農家による栽培で、虐殺で男性が少なくなって、担い手の多くは女性だそうだ。

 これを知って、ルワンダの豆も買えばよかったと、残念に思った。

 コーヒーで息を吹き返して、墓地に向かう。どのお墓もお参りが済んで、新鮮な花で飾られている。

 暑い中、墓の掃除。草抜きをしていると汗がぽたぽた落ちる。花は前日に、弟夫婦が新しく供えてくれていた。

 家の宗教は神道だが、祝詞をそらで唱えられないので、いつも般若心経を唱える。

 気になっていた墓参りが済んでホッとした。

 実家に帰ると、草が生い茂って、とんでもないことになっていた。5月に兄弟で草刈りをしたのだが、夏草の勢いはすさまじい。

 せめて、キンカンと、ユズの木を覆っているツル草だけを処分しようと、根元を鎌で切り、枝に絡まっているツルを引きずり降ろすのだが、思ったよりかなり大変だった。

 しかも、夏も終わろうとしている時期に、久しぶりに人間が現われたので、やぶ蚊どもが一斉に私の皮膚に群がる。

 たまらず家の中に逃げ帰って、腕を見ると、腫れあがって、まるで海のホヤのようになっていた。シャワーを浴び、ホヤのように腫れあがった腕全体に、ムヒを塗る。

 それから、気になっていた家の中の掃除。窓を開けて風を入れ、階下と2階と、全部の部屋を、クイックルでほこりを払い、掃除機をかけた。

 クーラーを入れずに掃除したので、また汗びっしょりになり、シャワーを浴びる。

 そして、最後に、神棚にお参りをした。大きな声で祝詞をあげた。これでスッキリした。

 帰り道で、隣の奥さんに会ったので、草ぼうぼうにしていることを詫びた。隣の庭は、草一本も生えないように、いつもきれいにしているので、我が家の草が気になっているに違いない。

 秋までに、弟たちに声をかけて、草抜きに来なければと思う。

 今回の墓参りで気づいたことがある。

 今まで、田んぼを見ると、介護で大変な思いをしていたころを思い出し、胸が苦しくなっていた。

 母が大たい骨を骨折して手術した病院に通うときも、周りの田んぼには稲が青々と茂っていたし、リハビリ病院に転院したときも、青々とした田んぼの脇を毎日、病院に通った。

 父が、施設に入る前、最後に入院していた病院も、周りは田んぼだらけの、遠いところにあった。

 だから、田んぼを見ると、いろいろ思い出されて悲しくなり、胸が苦しくなってくるのだ。

 ところが、この日、田んぼをみても、きれいに出そろった稲を、夏の風景として美しいと思って見ただけで、苦しさを感じなかった。

 いわゆる介護のPTSDから、解放されたようだった。

 


入江泰吉作品展

2017-08-14 01:05:41 | アート・文化

 12日、友人に誘われて、入江泰吉記念奈良市写真美術館に行った。開館25周年を記念した「入江泰吉菊池寛賞受賞作品展」が開かれていた。

 大分前に入江泰吉の作品が奈良市に寄贈されて、写真美術館ができていたことは知っていたが、訪れるのは初めてだ。

 菊池寛賞を受賞した写真集『古色大和路』『萬葉大和路』『花大和』の中から、代表作約70点が展示されていた。

 誘ってくれた友人は、NHKの日曜美術館で写真展が紹介されていたのを見て、作品に心惹かれ、奈良に詳しい私に、一緒に行かないかと声をかけてくれた。

 阪神電車と相互乗り入れしている近鉄の快速急行は冷房が効いて、猛暑の外界が嘘のように快適だったが、奈良駅でおりると、奈良燈花会が飛火野で開催中、加えてお盆の土曜日とあって、観光客、それも外国人観光客で大変な人出だった。

 駅前からのバスも観光客で超満員だったが、東大寺・春日大社前でほとんどが下車、あとは私と友人の貸し切り状態。美術館最寄りの破石町バス停で降りるとバスは空っぽになった。

 バス停から美術館までがけっこう距離があった。観光地図を見ながら歩いても、途中は緩やかな曲がり道で見通しがきかない普通の住宅街、正しい道を行っているのか不安になるほど、なかなかたどりつけない。

 この高畑界隈は、かつて志賀直哉が住んでいたり、新薬師寺、白毫寺などもあり、お定まりの東大寺、興福寺、春日大社などを離れて静かに散策したい人には人気がある観光地だ。

 住宅や木立の影をひろいながら、やっとたどりつくと、なかなか立派な建物だった。後で思い出したのだが、この建物を設計したのは、若尾文子の旦那さんだった黒川紀章である。入り口を入ると、イントランスホールの奥にカフェがある。階下が展示会場になっている。入場料は500円と安い。

 入江泰吉の作品は、観光ポスターや本や雑誌などで見て知ってはいたが、ちゃんと見たことはなかった。大きなパネル仕立ての作品は、やはり見ごたえがある。

 途中から、作品展を担当した学芸員が、主な作品の前で、写真家入江泰吉のことや、撮影秘話などを解説してくれた。最初は私と友人と、あと二人ぐらいしか集まらなかったが、次第に人が増えて、10人ぐらいが学芸員の解説に聞き入った。

 解説によると、入江は、菊池寛賞の受賞を喜んでいたそうだ。プロ向けの写真賞より、広く大衆に写真を知ってもらうきっかけになるからだ。受賞した写真集は、住宅ブームに乗って、百科事典と並びリビングを彩る豪華本として、高価な写真集にしては驚異的な売り上げ部数を記録した。出版元の保育社のビルが建ったそうである。

 展示の作品は、カラー写真を撮るようになって以降、50代から60代にかけて、入江の写真に対する姿勢がほぼ定まった時代のものが多い。単に大和の風景を美しく撮るのではなく、歴史や万葉集の歌が詠まれた背景、作者の生きざまなどをイメージし、作品に投影している。

 イメージしても、その通りの風景が現れてくれるわけではないので、撮影にふさわしい場所を探して歩き回り、場所が設定されても、気象や時間、その時の光、風の状態によって、まったく違ってしまう。イメージどおりの風景が現れる時まで何度も通い続け、待ち続けたので、「待ちの入江」と言われたそうだ。

 一番気に入ったのは、[二上山暮色」だ。夕焼け空の中に不穏な黒雲がひろがって、地上に黒々と横たわる二上山をいまにも呑み込もうとしているかのようだ。入江が撮りたかったのは、もちろん、二上山に葬られている大津皇子の怨念である。

 私は、折口信夫の『死者の書』を思った。中将姫のもとに、怨念のため成仏できない大津皇子がおどろおどろしく現れる場面を連想した。

 もう一つは、山田寺の写真。蘇我倉山田石川麻呂が建てた寺で、大化の改新で蘇我入鹿暗殺に加担したが、後に中大兄皇子らの陰謀により謀反を企てたとされ、兵に囲まれて、妻子とともに山田寺で自害した、その現場である。

 近代になってから再建された寺の屋根が樹木の中に埋もれている。屋根と背景は暗い影に覆われていて、手前のススキの原だけに光があたっている。不思議なというより、不気味な感じの風景だ。ここでも、入江が撮りたかったのは、歴史の中に埋もれた悲劇と、人々の怨念だろう。

 さらにもう一つ、気に入った作品がある。解説を聞いたおかげで目に留まった作品だ。桜井市の吉隠(よなばり)の里に雪が降っている風景。これは、穂積皇子が、亡くなった恋人、但馬皇女の墓を望んで詠んだ挽歌「降る雪はあはにな降りそ 吉隠の猪養の岡の寒からまくに」とうたった現場である。

 桜井市の観光協会のホームページには、雪が積もって晴れた吉隠の棚田の写真が載っているが、入江の写真は、積雪に至る前、雪が降りだして、だんだんとその降り方が激しくなろうとする、その時をとらえている。

 但馬皇女を偲んで挽歌を詠んだ穂積皇子の思いが、その降る雪に込められているのである。

 ほとんどの写真は、1970年年代、高度経済成長の波の中で、古き良き日本の風景が破壊されていった時代に撮影されている。入江が撮った風景は、今は多くが失われてしまった。このような入江の作品は、芸術作品であると同時に、失われてしまった歴史の記録写真でもあるそうだ。

 入江が好んで写した地道、雨の降ったあと、ところどころに水たまりが光り、人々の歩いた跡や自転車の跡が残っている、そんな道を入江は撮り続けた。

 解説を聞きながら作品を鑑賞して、さらにもう一度見て歩いたので、かなり時間がかかった。

 けれども、興味深い解説も聞くことができて、写真家・入江泰吉を知ることができたので、とても良い時間を過ごせた。

 資料室も併設されていて、写真集の図書館となっている。自由に入って閲覧できるので、また来て、ゆっくり写真集を見たい。

 友人と、ほんとうにいい展覧会だったねと話し合った。友人曰く「500円でこんなにいい時間を過ごすことができるなんて」。

 この展覧会は8月27日まで開かれている。