空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

異空間

2011-01-31 20:58:49 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、秘仏、愛染明王像が公開されていることを知って、初めて西大寺を訪れた。

 近鉄西大寺駅は、奈良に行くときに通過するのみで、降りたことがない。かつて東大寺に対して西の大寺と言われたほどのお寺があるとは想像できないほど、駅の周囲は雑然としている。

 ところが、駅周辺からちょっと住宅地に入ると、静寂な空間が現れる。平安時代、室町時代の再三の災害や兵火によって、昔日の堂塔は失われ、東大寺の広さには到底及ばないが、思ったより広々とした境内に、ゆったりとお堂が配置されている。

 西大寺といえば、称徳天皇発願の寺であること、鎌倉時代に叡尊によって再興されたこと、大茶盛のお寺ということぐらしか認識がなかった。

 実際にお参りしてみると、観光客もまばらで、明るく、静かな、とても親しみの持てるお寺である。

 愛染明王は、小像ながら、鎌倉彫刻の美しさ、力強さをもった仏像。ご本尊の釈迦如来立像は、清凉寺の釈迦如来像を模刻したものという。この二つのお像があまりにすばらしいので、絵葉書セットを買ってしまったほどだ。

 京都・清凉寺の釈迦如来像は、お釈迦様37歳の姿を写したといわれる像が中国に伝来し、それを東大寺の僧、奝然(ちょうねん)がコピーさせて日本に持ち帰ったという伝説がある。独特の形と雰囲気を持っていて、私の好きな釈迦如来像である。

 西大寺のご本尊が清凉寺式釈迦如来像だとは知らなかったので、拝観できて幸いだった。

 興正菩薩叡尊坐像も、生前に造られたといわれるだけあって、叡尊の人となりが伝わってくるような、生き生きとした肖像である。

 称徳天皇は、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の後、鎮護国家を祈願して西大寺を建立した。彼女はまた、乱平定を祈願して、百万塔を造らせ、諸寺に納めている。当時、天皇の寵愛厚く、中央で力を持っていた道鏡の進言があったのかどうか。

 百万塔はいま、西大寺にはたった一つしか残されていない。その百万塔を前にすると、父、聖武天皇のあとを継いで孝謙天皇となり、さらに淳仁天皇を排して称徳天皇として再び皇位についた、女帝の思いの強さが伝わってくるような気がした。

 西大寺は、さまざまな歴史と人々の思いを内に秘め、周囲の街の喧騒から隔離された、異空間のようなお寺だった。

 その日は、さらに、別の異空間にも迷い込んだのだが、それについては明日。


ネルケ無方さん

2011-01-29 09:30:43 | 本と雑誌

 自宅ちかくの本屋さんを久しぶりにのぞいたら、ネルケ無方さんが本を出していた。

 『迷える者の禅修行~ドイツ人住職が見た日本仏教』(新潮新書)。

 ネルケさんは、兵庫県但馬地方の山奥にある安泰寺の住職だ。

 安泰寺は、大正時代に洛北に開かれ、有名な沢木興道師、内山興正師も住職を務めた曹洞宗の禅道場。1976年に但馬に移ってきたという。数年前、ふとしたことから、ネルケさんが開設した安泰寺のホームページを見つけて、時々、読ませていただき、勉強もさせていただいた。

 いつかは、安泰寺の座禅会に加わりたいと思いつつ、すごく遠いのと、冬は雪に閉ざされ、夏は夏草に覆われ、修行もかなり厳しそうなので、実現しそうにない。

 ホームページのネルケさんの文章もすごいが、夫人のともみさんの叫び声に近い本音や、修行に参加した人々の体験談も載っていて、安泰寺の厳しさが伝わってくる。

 そのホームページに掲載されたネルケさんの修行物語が下敷きになっているが、編集者に厳しく書き直しを命じられたらしい。

 本にするには、書き手の思いもさることながら、日本の一般読者の興味を引くものでなければならず、とくに、外国人が著者である場合には、ほとんどと言っていいほど、「外国人が見た日本」というテーマが中心に据えられる。

 私は、こういう視点で本を作るのは、そろそろ、やめた方がいいと思う。

 ネルケさんは、クソがつくほどまっすぐに、道元禅師の教えを実践しようとしている人で、その試行錯誤のなかから、自分が学びとったものを、ホームページに書き綴ってこられた。

 読みながら、こちらの胸が苦しくなるような内容のものも多かった。

 ネルケさんは、自分で大事だと思っているような箇所も、削られてしまったとあとがきに書かれているが、私は、削られてしまったところをこそ読みたいと思う。

 でも、本は売れないと困るから、編集者は、鬼のようになって、ネルケさんの大事だと思った箇所を削除したんだろうな。

 もちろん、ネルケさんの文字通り、血のにじむような修行の話は、先輩の僧、雲水たちの様子なども含めて、とても興味深く、一般の読者にも受け入れらるような本に仕上がっている。


イサク・ディーネセン

2011-01-21 13:42:51 | 映画

 ここ数週間、自宅に帰る途中、寄り道して、立て続けに映画を見た。

 オゾン監督の「しあわせの雨傘」、ロドリゴ・ガルシア監督の「愛する人」、そして、「バベットの晩餐会」。

 どれもいい映画だったが、とくに「バベットの晩餐会」は、20年以上前に見て、テレビでも何回か放映されるたびに見て、ビデオに撮って何度も見る、という具合に、繰り返し見ては、そのたびに、深く考えさせられた映画である。

 今回は、tohoシネマズの「午前10時の映画祭」で、久しぶりに映画館で見られるというので、前から楽しみにしていた。

 記憶に残っているいちばん好きな場面は、晩餐会が終わって、招待客の将軍が、姉娘のマチーヌに愛を告白するところだったが、今回は、最後にバベットが、自分の料理と芸術について語る場面に強く心を打たれた。

 その場面こそ、この作品のテーマであるにもかかわらず、こんな場面があったことを覚えていなかった。さらに、この原作を書いた人は、きっとすごい作家にちがいないと確信して、調べてみると、なんと、アイザック・ディネーセンだった。初めてこの映画を観たとき、原作が彼女であることを知っていたはずなのに、それも忘れてしまっていたのだ。

 原作は、ちくま文庫で出ているので、すぐに買って読んだ。

 翻訳した桝田啓介さんによると、映画「愛と哀しみの果て」の原作者(原題はOut of Africa、日本では「アフリカの日々」)として広く知られるようになったときに、イサク・ディーネセンとすべきところを、アイザック・ディネーセンという誤った表記が広まってしまったそうだ。

 初めてディーネセンという女性の存在をを知ったのは、フェニミズムに共感して、その関係の本を乱読していたその昔、圧倒的な男性社会で、それぞれの生き方を模索した何人かの女性の生涯を紹介した本を読んだとき。

 本名は、カレン・ブリクセン。女性関係の絶えない夫に性病まで感染させられ、一生苦しめられたこと。アフリカに渡って農場経営をし、失敗してデンマークに帰国、中年になってから男性名で作家活動をしたこと。知的で美しい写真も載っていて、とても興味を持ったことを覚えている。

 今回、原作を読んで、映画と表現の仕方が違うところもあり、デンマーク語で読めたらいいのにと思った。

 内容が、宗教、愛、芸術についての物語であり、ヨーロッパの文化や歴史、地理についての知識や見識があれば、文章の向こう側に、もっと豊かな風景も見えてくるのではないかと思った。ディーネセンの文学は、そんな文学である。

 

 


アンリ・マティスの「ブルーヌード」

2011-01-17 21:51:32 | アート・文化

 実家では、家事や介護でテレビを見る時間がない。見たい番組はもっぱら自宅に帰った時に見ている。大体、地上波より遅れて、BSで再放送されたものを見ることが多い。

 先日、自宅に帰った日に、BSジャパンの「美の巨人たち」を見て、アンリ・マティスの「ブルーヌード」(アンリ・マティス美術館蔵のもの)が創られた経緯を初めて知った。

 晩年、マティスは癌の手術による体力消耗で油絵が描けなくなった。さらに、妻と娘がレジスタンス活動でナチスにつかまったりしたことで、精神的にも苦しかった時期、絵筆を持つ代わりに、色紙を切って作品を描く、切り紙絵で創作を続けた。

 青一色で描かれた「ブルーヌード」もそんな時期の1枚だ。

 私の好きな「ジャズシリーズ」も切り紙絵だが、そんな苦しい時期に作られたとは知らず、きれいな色彩と、弾けるような形が、落ち込んだ気分を明るくしてくれるので、絵葉書をずっと部屋に飾っていた。

 「ブルーヌード」が制作された背景を知って、あらためて作品を見ると、部分で微妙に違う青の色、はさみで切り取られたさまざまな形、下地に残された試行錯誤の鉛筆のあと、など、どんなことを思い、心身の痛みにどんなふうに耐えながらこの作品を創作したのか、いろいろ想像されて、涙が出た。

 一見、とてもシンプルな「ブルーヌード」が、実は、この世界のありとあらゆる物語を語っているのだ。

 雑然として真実が見えなくなった世界を、シンプルな形に切り取ることで、人々に真実を見せてくれる。

 「ブルーヌード」は、そのような芸術の真髄を、如実に示した作品だと言える。


おだやかに

2011-01-02 14:11:08 | 日記・エッセイ・コラム

 新年、明けまして、おめでとうございます。

 年末は、何かと気が急いて、ブログを書く余裕がなかった。

 元日は、二人の弟の家族、妹家族、甥の家族、総勢15人が勢ぞろい。

 昨年は、海外在住の妹の次女とそのフィアンセも駆けつけて、家族全員が揃い、こんなことは最初で最後だと思っていた。母の入院、両親への本格的な介護が必要になったということもあって、みんな、今年が最後になるかも知れないと思って、来てくれたのだろう。

 中でも、一昨年生まれた甥の娘、エマちゃんが、自由に駆け回り、おしゃべりできるまでに成長して、みんなのアイドル。本人も、自分が中心的スターであることを分かっているようで、おおいに愛嬌を振りまいてくれた。両親も、ひいじいじ、ひいばあばと呼んでもらえて、上機嫌だった。

 というわけで、おだやかなお正月を迎えることができた。

 昨年は、両親の介護が本格的になり、心身両面で右往左往したおかげで、仏教の教えに一段と近づくことができた。特に、ここ1、2か月は、仏教の本質的な教えである空と縁起について、ずっと考え続け、それに応えるかのような、人や本との出会いがあった。

 年末、最後に自宅に帰る日に、遠回りして唐招提寺に参ってきた。2009年秋に金堂の大修理が終わって以来、行ったことがなかったし、反省と懺悔の気持ちをいろいろ仏様にきいてもらいたいので、お参りした。

 結構、観光客もいたが、ここは、開山忌などの年中行事が行われる日以外は、いつ来ても静かにお参りできる。唐招提寺のこの静けさが好きだ。折に触れて唐招提寺に足を運ぶのは、苦難を乗り越えて日本に戒律を伝えた、鑑真和上と弟子たちの信仰心にいくらかでも触れたいという思いからだ。

 インドでイスラムの攻撃にさらされながらお釈迦様の教えを伝え、時代に生き残れる仏教のありようを模索し続けた人々、鳩摩羅什をはじめとするシルクロードの民、インドに渡って多くの経をもたらした玄奘など中国の僧たち、そして鑑真和上。

 また、日本から中国に死を覚悟で渡って、真の仏教の教えを学びに行った空海、最澄、円仁、道元禅師。そして、自らの民族の苦難を背負いながら、世界中にお釈迦様の教えを説き続けるダライ・ラマ法王。

 このような人々の、苦難をものともせず、ひたすら真の教えを伝えたいという思いがなかったならば、日本に仏教は根付かず、今、私が仏教にたどり着くこともなかった。

 仏教をめぐる、時間、空間の広がりを思うとき、とても厳粛な気持ち、感謝の気持ちがわいてくる。

 久しぶりに目にする金堂の天平の甍は美しく、威厳に満ちて、青空に大きく両翼を広げていた。金堂の仏様たち、毘盧遮那仏、薬師如来、千手観音も、修理を終えて、ひときわ美しいお姿で、衆生の祈りを受け止められていた。中国の僧たちが創建したお寺のせいか、この仏様たちは、どこか中国的な大きさが感じられる。中でも千手観音の迫力あるお姿には、いつも圧倒される。

 仏様の前で、般若心経、懺悔偈(さんげげ)を唱え、これまでの自分の行いを懺悔した。

 我れ昔より造るところの諸々の悪業は

 皆無始の貪瞋癡(とんじんち)に由る身語意(しんごい)より生ずるところなり

 一切我れ今、みな懺悔したてまつる

 これからは、自我に執着せず、怒らず、自らの無明をいつも自覚し、おだやかに行動することを誓った。

 おだやかであるためには、空と縁起という存在の有り様を、いつも心にとめておくことが必要だ。

 そして、両親がおだやかな毎日を送ることができますように、世界中の人々が、平和な中に、おだやかな日々を送ることができますように、心を込めてお祈りした。

 毘盧遮那仏は宇宙の象徴であり、薬師如来は人々を病から救ってくださる仏であり、千手観音は千の手で人々を苦しみから救ってくださる。人々の思いを受け止めるのにふさわしい組み合わせの仏様だ。