空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

満点の着地①

2013-10-12 22:46:39 | 日記・エッセイ・コラム

 

10月10日、父が旅立った。

 6月に部屋で転倒して、大たい骨の付け根を骨折し、寝たきりになってから、4か月。

 歩けなくなると、身体の老化はもちろん、認知症が進む速度も早くなった。

 骨折が落ち着いて、ベッドに起き上がったり、車いすで移動できるようになることを期待したが、とうとう、尿パック、紙おしめから解放されることはなかった。

 何よりも、父に対して申し訳ないと思うのは、一度も実家に連れて帰れなかったことである。

 亡くなった週は、交代で父を訪問していた妹が仕事が忙しいので、私が毎日父の様子を見に行った。10月に入って、I先生から「酸素飽和度が低くなったので、そろそろ覚悟してください」と連絡が入っていたからだ。

 看護師さんや主治医のI先生が、指先に挟んだパルスオキシメータで測定した動脈血酸素飽和度(SpO?)を連絡ノートに記入してくれていたが、それまで90~80%だったのが、10月に入って、70%、60%、50%台と、上がり下がりを繰り返しながらも、確実に下がっていった。

 インターネットで調べたら、100~95%は正常値、80~50%はチアノーゼが起き、50%以下は組織障害、25%以下は死亡という解説が載っていた。

 亡くなった日は、5時まで父のそばに居た。ヘルパーさんが毎日清拭をして着替えをしてくれるので、脱いだものと、タオルケットを洗濯した。枕カバー、布団カバーも替えた。その日亡くなるとは思わなかったが、もう遠くないと感じていたので、少しでもきれいなベッドにしておきたかった。

 前日までは、何とか呼びかけに応じていたのに、その日は、返事なのか、呻吟なのか分からなかった。食事も、前日までは、主食は残したものの、副食は全部食べていたが、その日の朝食は主食10分の1、副食10分の3、昼食はとっていなかった。苦しそうではなかったが、呼吸もぜーぜーいっていた。

 それでも、もう少しもってくれるだろうと、根拠のない判断をして、翌日の朝、行くつもりで帰宅した。帰宅する前、父の耳元で、「お父さん、お母さんが迎えにきたら、安心して行っていいよ。ヨシボウ兄ちゃん(赤ん坊のとき亡くなった私の兄)、おばあちゃん、おじいちゃん、みんないるし、大丈夫だから」と大きな声で言ってみた。その時には、呻吟とは違う「あーあー」という声を出したように思う。

 帰宅して、その日の父の様子を妹にFAXで送った。仕事から帰ってきた妹から、「明日まで仕事を抜けられない、もう1日、お父さんに頑張ってほしい」と電話が来た。

 10時ごろ、クリニックの看護師さんから「さっき、ヘルーパーさんが様子を見にいったら、呼吸が停止していたと連絡がありました」と電話が入る。二人の弟に連絡、妹にもクリニックから連絡が行ったらしい。

 10時を過ぎるとバスがなくなり、タクシー乗り場のある電車の駅前まで歩いた。10月としては異常にむし暑い夜だったが、汗を拭く余裕もなく、ひたすら歩いた。冷房の効いたタクシーに乗ってからも、汗はぬぐってもぬぐっても吹き出した。

 父のもとには、すでにI先生と看護師さんが来てくれていて、死亡確認が行われた。脈を見て、瞼を開かせて、「10時56分、ご臨終です」とI先生が言われた。

 容体が悪化してから、ほとんど毎日のように臨時往診をして、連絡ノートに詳しい所見を書いてくださった先生、看護師さん、入れ替わり立ち代わり、食事や下の世話、清拭をしてくださったヘルパーさんには、いくら感謝しても感謝しきれない。

 「私の方こそ、お父さんには、いろいろ教わりましたよ。あんたがいると安心やと言ってくれて、いつもありがとう、ありがとうとお礼を言われました。こんな状態で、食事も最後までちゃんと食べられた。今日の晩御飯も完食されたんですよ。ほんとうにすばらしいおとうさんです」とI先生。私「えっ、朝食は少し、昼食は食べなかったのに、夕食は全部食べたんですか」。 それから、父がいかに最後まで生命力が強かったかというエピソードが次から次へと語られた。笑いさえ起った。

 先生は死亡診断書を書きに一旦部屋を出て行かれ、看護師さんが身体を拭いて着替えをさせるから部屋の外で待っていてくださいと言うので、外に出て弟たちに電話をしていると、妹が到着した。

 妹は看護師なので、手伝うと言って部屋に入ったので、私も入って、二人の看護師が父の清拭と着替えを行い、私はタオルを洗って手渡す手伝いをした。その間も、父のいろいろなエピソードが語られ、泣き笑いの作業となった。(この項つづく)