半年ぶりに映画館で映画を見た。松井久子監督の「レオニー」という映画で、彫刻家、イサム・ノグチの母、レオニー・ギルモアを描いたもの。
昔、京都近代美術館でイサム・ノグチ展を見て以来、彼の作品はもちろん、その生涯に心ひかれた。ドウス昌代の「イサム・ノグチ~宿命の越境者」は、気になりながら、まだ読んでいない。映画は、それをベースに作られたそうなので、絶対に見たいと思っていた。
しかし、本をベースにしているものの、シナリオは、監督の解釈と想像力で書いたと、パンフレットにはある。
本を読んでいないので比較はできないが、映画を見た限りでは、この作品は、イサム・ノグチや、母、レオニー、父、野口米次郎の生涯に起こった事実を描くというより、3人を結び付けている芸術を描いた、魂の物語だと思った。
イサム・ノグチは、母、レオニーの芸術に対する愛と、父、米次郎の詩への愛から生まれた芸術家だ。
もちろん、肉体をもつ人間だから、時代や社会の影響を受けざるを得ない。
しかし、優れた芸術作品が人間を感動させるのは、時代や社会の制約を受けながらも、それを超越した魂の活動から生み出されたものだからだ。
レオニーがさまざまな障碍を乗り越えられたのは、芸術への愛、詩人である米次郎への愛があり、芸術への確信があったからだし、米次郎がレオニーを愛し、彼女を手放したがらなかったのは、必ずしも、男の身勝手ばかりではない。
彼もまた、レオニーの芸術を愛する魂を愛し、その魂の純粋さ、確かさを分かっていたと思う。
半面、肉体を持つ人間として、社会や時代を無視できない、そういう矛盾した男、米次郎役に中村獅童を選んだ松井監督の狙いは見事当たっている。
世俗的な制約を振り切って、魂の命ずるままに生きるレオニーと、世俗を捨てきれない米次郎は、ある意味、人間のあり方の象徴である。
レオニーを捨てた米次郎は、現代の倫理観からは非難されるべきだろうが、大部分の人間は、大なり小なり、米次郎のような生き方をしているのではないだろうか。
イサム・ノグチの母、レオニーの生涯を描いたものだと理解して映画を見た人は、期待を裏切られたかもしれない。
私は、松井監督の芸術に対する思いを、もっと前面に出して描いてもよかったと思うが、映画は一人ではできない。さまざまな制約があったと思う。
それを乗り越えて、7年がかりで完成させたのは、すごいエネルギーだ。
レオニー役のエミリー・モーティマーもよかったし、音楽も映像も見事。
映画は、やはり、すばらしい総合芸術だ。
まったく偶然にも、映画が終わった後で、松井監督本人が現れて挨拶された。「一度では分からないので、二度、三度見てほしい」と言われた。
できるなら、もう一度見に行きたい。