空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

レオニー

2010-11-29 23:14:09 | 映画

 半年ぶりに映画館で映画を見た。松井久子監督の「レオニー」という映画で、彫刻家、イサム・ノグチの母、レオニー・ギルモアを描いたもの。

 昔、京都近代美術館でイサム・ノグチ展を見て以来、彼の作品はもちろん、その生涯に心ひかれた。ドウス昌代の「イサム・ノグチ~宿命の越境者」は、気になりながら、まだ読んでいない。映画は、それをベースに作られたそうなので、絶対に見たいと思っていた。

 しかし、本をベースにしているものの、シナリオは、監督の解釈と想像力で書いたと、パンフレットにはある。

 本を読んでいないので比較はできないが、映画を見た限りでは、この作品は、イサム・ノグチや、母、レオニー、父、野口米次郎の生涯に起こった事実を描くというより、3人を結び付けている芸術を描いた、魂の物語だと思った。

 イサム・ノグチは、母、レオニーの芸術に対する愛と、父、米次郎の詩への愛から生まれた芸術家だ。

 もちろん、肉体をもつ人間だから、時代や社会の影響を受けざるを得ない。

 しかし、優れた芸術作品が人間を感動させるのは、時代や社会の制約を受けながらも、それを超越した魂の活動から生み出されたものだからだ。

 レオニーがさまざまな障碍を乗り越えられたのは、芸術への愛、詩人である米次郎への愛があり、芸術への確信があったからだし、米次郎がレオニーを愛し、彼女を手放したがらなかったのは、必ずしも、男の身勝手ばかりではない。

 彼もまた、レオニーの芸術を愛する魂を愛し、その魂の純粋さ、確かさを分かっていたと思う。

 半面、肉体を持つ人間として、社会や時代を無視できない、そういう矛盾した男、米次郎役に中村獅童を選んだ松井監督の狙いは見事当たっている。

 世俗的な制約を振り切って、魂の命ずるままに生きるレオニーと、世俗を捨てきれない米次郎は、ある意味、人間のあり方の象徴である。

 レオニーを捨てた米次郎は、現代の倫理観からは非難されるべきだろうが、大部分の人間は、大なり小なり、米次郎のような生き方をしているのではないだろうか。

 イサム・ノグチの母、レオニーの生涯を描いたものだと理解して映画を見た人は、期待を裏切られたかもしれない。

 私は、松井監督の芸術に対する思いを、もっと前面に出して描いてもよかったと思うが、映画は一人ではできない。さまざまな制約があったと思う。

 それを乗り越えて、7年がかりで完成させたのは、すごいエネルギーだ。

 レオニー役のエミリー・モーティマーもよかったし、音楽も映像も見事。

 映画は、やはり、すばらしい総合芸術だ。

 まったく偶然にも、映画が終わった後で、松井監督本人が現れて挨拶された。「一度では分からないので、二度、三度見てほしい」と言われた。

 できるなら、もう一度見に行きたい。

 

  

 


安らかな時間

2010-11-26 21:51:34 | 日記・エッセイ・コラム

 今日は、母がデイサービスに行き、ヘルパーさんが父をお風呂に入れてくれる日だ。

 なのに、母は出かけるのを嫌がり、父は、電子辞書が壊れたから電気店に行って買い替えると、私が止めるのも聞かずにタクシーを呼んで出かけた。

 両親の気分に振り回されることには、だいぶ慣れてきたつもりでいたが、久しぶりに切れた。2階に上がったきり、しばらくラジオを聴いていた。

 ヘルパーさんが帰る頃、階下に降りると、父は昼寝、母は居間で居眠りをしていた。

 今日来てくれたヘルパーのUさんは、老人ホームでも、動けなくなったお年寄りの世話をしているという。

 「このお仕事は大変ですね」と言うと、「皆さん、そう言われるんですが、私はこの仕事が好きなので。おむつ交換なんかは大変ですけれど、一人一人のお年寄りと向き合っている時間が、私にはとても安らかな時間なんです」と言われた。

 「でも、ほとんど動けないお年寄りなんでしょう」

 「目の動きで分かりますから」

 私は、ついさっき、父のわがままに切れてしまった自分を恥じた。

 安らかな時間。

 そんなことは考えもしなかった。

 その日、やるべきことで頭をいっぱいにして、予定通りにいかないと、それだけでストレスを感じてしまう私。

 Uさんは、動けなくなったお年寄りの時間に合わせて、相手をしているのだ。

 安らかな時間とは、お年寄りの中を流れている時間だ。

 それは、まさに、自分の都合に合わせて物事を見ることをやめて、利他、慈悲の心で行動せよという仏教の教えそのものだ。

 Uさんは、お年寄りと安らかな時間を過ごすことで、自分も安らかになると言われた。

 これも、自己を捨てれば、苦もなくなる、という、仏教の教えそのものだ。

 Uさんと話しているうちに、私も、いらだった心が穏やかになった。

 Uさんは、ほんとうに、いいお仕事をされている、と思った。

   


上村松園展

2010-11-22 21:53:07 | アート・文化

 友人に誘われて、京都近代美術館で開かれている「上村松園展」に行ってきた。

 まとまった形で松園の作品を見るのは初めて。

 入ってすぐに、代表作の「序の舞」が掲げられている。

 気品と、静けさに加えて、内面的な強さが感じられる。思っていた以上に、名作だ。目の前の能舞台で、本当に舞を見ているような存在感だ。 

 父親を早くに亡くして、母親一人に育てられた松園。シングルマザーで、今よりははるかに男社会であったろう日本画壇において、自分の理想とする日本画を生涯、追求し続けた松園。

 年代によって、女性の内面の描き方が進化しているのが分かるような展示の仕方がしてあって、とても興味深かった。

 若いときには、六条の御息所を描いた「焔」や、恋に狂った女を描いた「花がたみ」のような、女の情念をストレートに出したような作品が好きだった。

 今回は、「序の舞」に見られるように、女性の喜怒哀楽はすべて中に秘められているような、松園60代以降の作品に心ひかれた。

 中に秘められているというより、喜怒哀楽が昇華されて、むしろ解放感さえ感じられる。

 松園は、自分の絵を見たときに、見た人の邪念が払われるような絵が描きたい、と言っていたそうだ。

 今日、松園の作品に接して、体も心も軽く、すがすがしい気持ちになった。

 本当に美しいものに触れると、人は、邪念が無くなる。


パク・ヨンハ

2010-11-16 00:00:32 | 日記・エッセイ・コラム

 実家に戻るとき、長い間使っていなかったウォークマンを持って帰った。

 セットされたままのテープに、パク・ヨンハの「初めて出会った日のように」が入っていた。

 私も「冬ソナ」にはまった一人だが、ヨン様より、パク・ヨンハのファンになった。

 ファンといっても、世の韓流ファンの女性たちのように時間もお金も熱意もないので、来日した折に出演するテレビを見るぐらい。

 それでも、彼の人柄にひかれるのに十分だった。

 イ・ビョンホン主演のドラマ「オールイン」の主題歌、「初めてで出会った日のように」は、曲、歌詞、歌手、三拍子そろった名曲だ。

 You tubeから録音して(ダウンロードではなく、あくまでアナログ)、山歩きをしながら幾度も聞いた。

 実家に帰る電車の中で、久しぶりにパク・ヨンハの歌を聴いた。

 自殺したことがいまだに信じられない。

 今、思うと、彼のしぐさや表情には、孤独感や悲しみのようなものがいつも漂っていたような気がする。やさし過ぎたのかもしれない。

 彼の父、パク・スンイン氏が癌で亡くなったのは、それから4カ月後だ。

 パク・スンイン氏が有名な音楽プロデューサーで、ソン・チャンシク、ヤン・ヒウンらのマネージャーをしていたことを、自殺関連の記事で知った。

 ソン・チャンシク、ヤン・ヒウンといえば、70年代、パク・チョンヒの独裁政権時代に、検閲、発禁という弾圧をかいくぐって歌い続けた歌手たちだ。彼らの歌は、学生・労働運動の中で広がっていった。。

  ソン・チャンシクの「コレ・サニャン(鯨取り)」「ウェ・ブルロ(なぜ呼ぶの)」などは、テープが伸び切ってしまうほど聞いた。

 ヤン・ヒウンがギターの弾き語りで歌う、キム・ミンギ作詞・作曲の「アッチム・イッスル(朝露)」や、抵抗詩人キム・ジハの「金冠のイエス」は、日本で、韓国の民主化運動に連帯して開かれた集まりで、よく歌われた。

 そんなスターたちを生み出したのが、パク・スンイン氏だったのだ。反戦、民主化の波が世界中で同時・多発的に広がった時代の、同じ団塊の世代の人だ。

 一つの歌を生み出すのに、才能や技術のほかに、勇気や覚悟が必要とされた時代、最前線で働いていた人だ。そんな父親を、パク・ヨンハはとても尊敬していたそうである。

 久しぶりにパク・ヨンハの歌を聴いて、いろいろ思い出した。 

 思えば思うほど、パク・ヨンハの自殺は、あまりにも痛ましい。

 

 

 

 


山歩き

2010-11-14 20:13:42 | 日記・エッセイ・コラム

 週末、自宅に帰る。暖かくて気持ちがいいので、久しぶりに山歩きをした。

 千日回峰行の行者さんにはほど遠いが、できる限り、早足で駆けるようにして歩く。自分が空っぽになるようで、気持ちがいい。いつものコースを歩くと、ちょうど1時間かかる。

 桜、楓、ケヤキ、ナンキンハゼなどの赤や黄、クロモジ、イチョウなどの黄色、カメラを持ってこなかったのが残念なほど、紅葉が見事。一番多いコナラの葉も、もう少しすると黄金色になる。

 自宅近くの里山は四季折々に花が咲いて、山歩きの楽しさが倍増する。

 春はクロモジ、ヤブツバキ、山桜、ヒサカキ、コバノミツバツツジ、モチツツジ。

 初夏には野イチゴ、タニウツギ、ウノハナ、スイカズラ、野イバラ、ニセアカシア、山藤。

 秋はいろいろな木の実と、色とりどりの落ち葉が山道を彩る。

 冬の木々は、空に伸ばした枝先にたくさんの木の芽を用意して、春を待っている。いつも歩いているうちに、冬枯れの枝を見ても、何の木か分かるようになった。

 草むらに隠れていた野ウサギや、雉に遭遇したこともある。

 メジロ、ウグイス、ヤマガラなど、小鳥も多い。

 夏の夕方になると、谷あいの空高く、ツバメが群れをなして、飛んでいる。上昇気流に乗って、遊んでいるように見える。

 山が一番美しいのは、やはり芽吹きの春から初夏にかけて。萌黄色から、緑がだんだん濃くなって、光を反射して照り輝く。

 介護生活に入る前には、自宅での仕事の合間に、毎日のように山歩きをしていた。

 住宅地近くのこんな小さな空間でも、華厳経や大日経の世界がイメージされるような、豊かな生命力にあふれていた。

 空海には、どこで何をしていたか不明の時期がある。四国や、あちこちの山を歩き回って、修行していたらしい。

 空海はこの時期に大日如来の存在を体感したのではないか。

 己を無にして山を駆け回っていると、そんなことを思ったりもした。

 


東大寺での1日

2010-11-09 00:16:21 | 日記・エッセイ・コラム

 心配だった朝からの雨も上がって、東大寺でのダライ・ラマ法王の講演会は無事終わった。

 法王さまの声の調子はまだ回復していなかったけれども、仏教の縁起の法に基づいた世界平和の構築に向けて、暴力ではなく対話で、愛情と慈悲の心で努力すること、それ以外に解決方法はないのです、と訴えられた。

 相手が対話を拒んだらどうしたらよいかとの質問にも、どんなに時間がかかっても、1歩でも前進するために、努力を続けることです、と答えられた。

 これは、チベット支配を続ける中国との交渉の過程で、法王さまが確信されたことだと思う。

 世界の人々に向かって、心の平安と、平和について話をされる法王さまのお姿に接するとき、私はいつも、祖国チベットの人々に思いをはせる法王さまの胸の内を想像してしまう。

 以前、日本の学生に「今までで、一番つらかったことは何ですか」と問われて、「ヒマラヤを越えてインドに逃れたとき、国境まで私を守ってきた人々を見送らねばならなかったときです。彼らがどうなるのか、私は知っていたから」と答えられたことがある。

 ダライ・ラマ法王はチベットに足を踏み入れることができず、苦しんでいるチベットの人々に直接、声をかけることもできない。

 世界の人々に向けた平和へのメッセージは、チベットの人々への、強いメッセージでもあるのだと思う。

 私たちは、ダライ・ラマ法王のメッセージを深く受け止め、中国に対しても、ただただ非難するのではなく、中国が対話の席に出てくるように、知恵を出し、努力を続けることが大切なのではないかと思う。

 会場となった大仏殿後堂広場は、大仏殿の北側にあたる。法王さまは毘盧遮那仏と背中合わせでお話をされたことになる。

 周りは、紅葉し始めた木々が美しく、小鳥たちが盛んにさえずっていた。静かな空間だった。

 雨模様だった空も、法王さまが現れると、雲間から太陽が顔を出した。

 隣に座った女性と、講演会が始まるまでの長い時間、いろいろな話をした。

 興味を持つことがらが合致して、両親を介護している合間に出かけてきたことも同じだった。

 帰りに、喫茶店でコーヒーを飲んで、また、いろいろな話をした。

 こういうご縁もあった1日だった。 


追っかけ

2010-11-07 21:21:37 | 日記・エッセイ・コラム

 今日、ダライ・ラマ法王の講演会に行ってきた。

 大阪青年会議所が開催したPeace Conference 2010で、平和について基調講演をされた。

 世界各国から学生が集まり、1週間寝食をともにし、世界平和という共通のテーマを話しあうというプログラムで、学生たちが作った「世界学生平和憲章」を発表した。今後、30年間続けるそうだ。

 ダメもとで申し込んだら、無料のチケットが送られてきた。久しぶりに法王さまにお会いできると、前の晩は興奮して眠れなかった。 

 法王さまは、風邪をひかれて、咳こんだり、鼻をかまれたり、熱があるようにも見えた。

 お話の内容よりも、法王さまのお体の方が気になった。風邪のせいか、以前より、とてもお年を召されたようにも思える。

 声もかすれて、大きな声が出せないにもかかわらず、話が進むにつれ、声も、身振りも大きくなる。熱が入ると、どこまでも話を続けられるので、通訳泣かせだ。

 過去2世紀、人類は、物質的繁栄を遂げ、科学技術も大きく発展したが、それをもってしても、精神的安定を得ることができないでいる。

 世界は相互依存的に構築されており、1国家だけで問題は解決できなくなっている。

 すべての問題は人間の心によって引き起こされている。

 70億の人類は、人間という点ではみな同じであり、生きとし生けるものは、幸福になりたい、苦しみから逃れたいという点で同じだ。

 他を思いやるやさしさ、愛情をはぐくむことが、心に平和をもたらし、勇気をもたらす。

 個々人の中に内なる平和を築くことが、世界平和を構築することにつながっていく。

 仏教の縁起の考えを織り込みながら、こういう話をされた。

 皆さんの顔をよく見たいと、ソファーから立ち上がって聴衆に近い演壇に立たれたり、照明で聴衆の顔が見えないと、バッグから有名なサンバイザーを引っ張り出してかぶられたり、懐を探ってティッシュを出して鼻をかまれたり、通訳が話している間にマスクをされたり、いつもの茶目っ気ぶりは健在だった。

 明日は奈良・東大寺での講演がある。こちらのチケットも、自分では信じられないぐらいの行動力を発揮して購入した。

 生まれて初めて、法王さまの追っかけをする。

 それにしても、風邪の症状が少しでも緩和され、法王さまが楽になられますように。 


モクちゃんのこと

2010-11-05 22:26:44 | 日記・エッセイ・コラム

 このブログの管理人のニックネーム、モクちゃんは、以前飼っていた猫の名前である。16年近く共に暮らして、2001年5月に死んでしまった。

 この年は、周りでいろんなことが立て続けに起こって(9.11のテロもこの年だった)、モクちゃんの死を十分悲しむ暇もなかった。

 そのせいか、時折、モクちゃんのことを思い出して、涙ぐむことがある。

 ペットロス症候群という言葉があることを知った時、「ペットを失ったぐらいで、大げさな」と思ったが、自分に起こってみて、納得した。

 モクちゃんは、命というものについて、いろいろ教えてくれた猫である。

 1985年8月12日に、日航機が御巣鷹山に墜落した。その飛行機には、親友のお父さんが乗っていて、最後まで遺体が確認できなかった。

 あくる日の13日、自宅のアパートの近くで、子猫の鳴き声がした。駆け寄ってみると、弱り切った子猫が、まるでおはぎのように転がっていた。炎天下で、もう少し発見が遅れたら死んでいただろう。

 私は猫を飼ったことがない。捨て猫に遭遇しても、目をつぶって通り過ぎてきた。

 思わず拾ったのは、日航機事故で、「命というものは、ながらえることの方が奇跡で、本来、簡単に壊れてしまうものなんだ」ということが分かったからだ。

 アパートはペット禁止だから、こっそりと飼った。

 血まみれ、ウンコまみれ、蚤まみれだった。ぬるま湯で洗ったら、ぐったりしたので途中でやめた。おかげで、それから長い間、蚤に悩まされた。

 ミルクを飲ませるのにも苦労した。お皿からも、スポイドからも飲まない。海綿に浸すと、突起状になったところが、お母さんのおっぱいと同じ大きさだったせいか、飲んでくれた。

 子猫と、ミルクを浸した海綿の小皿を、箱の中に入れて、仕事に出かけた。帰ってきたときには、ミルクは腐っていた。

 よく育ってくれたと思う。拾って数日後、4階のベランダから落ちた。運び込んだ犬猫病院で、この子は生まれつき片方の腎臓が働いていないみたいだから、育たないかもしれない、と言われた。

 モクという名は、私の好きな椋の木からつけた。育たないかもしれないが、もし、命が助かったら、椋の木のように、空に大きく枝を伸ばして生きろ、という願いを込めた。

 途中で、ムクというのは犬みたいだから、別名のモクに変えた。拾った時には、椋の実と同様、チャコールグレイだったが、だんだん黒くなって、見事な黒猫になった。

 何度も病気をして、何度も医者に掛かり、そのたびに病気に打ち勝って、16年ちかくも生きた。猫としては長生きである。

 死ぬときは、私の腕の中で死んだ。私をじっと見つめて、一息、苦しそうに大きく息をして、死んだ。

 死んだ瞬間、腕に感じていた重さが無くなった。命には重さがあるんだ、それとも、魂の重さなのかな。

 モクちゃんが死んだときのことを思い出すと、今でも涙があふれる。

 

 


みんなの仏教塾

2010-11-04 02:38:57 | 日記・エッセイ・コラム

 勝本華蓮さんが主宰する「みんなの仏教塾」に行ってきた。

 今日のテーマは「我おもう、けれど、我ありではない」。

 お釈迦様が説いた仏法の根本思想を、とても平易な言葉で、解説してくださった。

 要するに、人間は「自我」に執着するから、苦しいのだ。

 その「自我」を構成している物質的、精神的要素は、どれも「我」ではない。いろいろな構成要素の集合体である「私」も、「我」ではない。無常であり、苦であり、非我→無我である。

 この世が無常、苦、無我であることをつぶさに観察し、そこから離れ、解脱することをお釈迦様は説かれた。

 面白いとおもったのは、「梵天勧請」についてのお話。

 悟りを開いたお釈迦様は、悟りについて説明しても誰も理解できないだろうと考え、そのまま涅槃に入ろうとする。そこに梵天が現れて、人々に説法することをを勧める。

 梵天はブラフマン、宇宙の原理である。お釈迦様は宇宙の意志と一体になった後、この世に戻ってきたのではないか、というのが勝本さんの考えである。

 宇宙と一体になるということは、自己がなくなる、つまり一種の死である。

 悟りの世界、「涅槃寂静」の世界は、自他の区別もない、時間、空間もない、一切の区別がない世界である。

 そのような究極の世界から戻ってきて、お釈迦様は説法を始められた。

 私は、アメリカの脳科学者、ジル・ボルト・テイラーの『奇跡の脳』を思い出した。

 彼女は、脳卒中で倒れたとき、自分が宇宙と一体になり、自分の肉体と外界との境界がなくなった、不思議な経験を書いている。

 「目に見える世界の全てが、混ざり合っていました。そしてエネルギーを放つ全ての粒々と共に、わたしたちの全てが群れをなしてひとつになり、、流れています。ものともののあいだの境界線はわかりません。なぜなら、あらゆるものが同じようなエネルギーを放射していたから。」

 その感覚は、至福のときだったと、彼女は言う。

 「もう孤独ではなく、淋しくもない。魂は宇宙と同じように大きく、そして、無限の海のなかで歓喜に心を躍らせていました。」

 彼女の経験した感覚が、お釈迦様の悟りの世界と同じものだったかどうか分からない。

 しかし、彼女は、脳卒中を起こす前と、後とでは、世界とのかかわり方が変わった。

 自然の中に立つと、風の流れ、小川のせせらぎ、鳥たちのさえずり、自分を取り巻く世界の全てを感じることができるようになったという。

 彼女は、脳卒中という偶然の出来事で、宇宙と一体になる経験をしたが、人間の脳は、坐禅や瞑想などの修行を積むことで、そういう状態を生み出すことができるのだろうか。

 


真釈般若心経

2010-11-01 13:36:18 | 本と雑誌

 偶然見つけて、お世話になった仏教関係サイトに「空海スピリチュアル」というのがある。

 仏教の勉強を始めたころ、まずは「般若心経」だと思って、いろいろ本を読んだが、読めば読むほど分からない。

 インターネットで探していたら、「空海スピリチュアル」が見つかった。そこに、宮坂宥洪師が月刊誌『大法輪』に連載された般若心経の解説が載っていた。

 これを読んで、それまで全然分からなかったことが、ストンと腑に落ちた。

 その原稿を補足、文庫本としたのが、『真釈 般若心経』(角川ソフィア文庫)である。もう一度読み直すそうと、先日、自宅から持ち帰った。

 宥洪師のお父さま、宮坂勝宥師も著名な仏教学者だ。数ある著書の中の1冊、『仏教の起源』という本を図書館で借りたけれど、サンスクリット語や英語が分からない人間には、とても難しい内容だった。

 分かる部分だけ読んで返却したけれども、仏教が生まれたころのインドの歴史的背景や、お釈迦様が生まれ、出家し、入滅されるまで遊行なさった風土がイメージできて、私の仏教理解を大いに助けていただいた。

 仏法をならうということは、道元禅師が言われるように、自己をならうことにほかならないが、宥洪師の解説で分かり易かったのは、自己を知る修行のプロセスを4層の建物にたとえていること。

 1階が幼児レベルのフロア、2階が世間レベルのフロア、3階から仏教のフロアになるが、3階は小乗レベルのフロアで、そこに舎利子がいる。4階が大乗レベルのフロアで、そこに観自在菩薩がおられる。そして、見晴らしのよい屋上にブッダがおられる。

 「だれでも自分自身の内にもっとも見晴らしのよい上層階があるにもかかわらず、私たちはそれに気づかず世間にあって悩み、苦しみから逃れるすべを知りません。しかし、自分自身の内なる高次の観点に至れば、あらゆる苦悩から解放されるのだ、ということを『般若心経』は伝えようとしているのです。」

 「般若波羅蜜多の修行とは、般若(智慧)の完成をめざす修行ではなく、般若そのものに立脚した修行」

 「自分自身を離れてどこかに般若(智慧)があるわけではありません。『般若に立脚する』とは、自分自身の内なる般若に目覚めよということなのです。」

 もう一度、この本を読み直して、自己を見つめ直したい。

 久しぶりに「空海スピリチュアル」を検索してみたら、「エンサイクロメディア空海」というサイトになって、デザインが一新され、内容も充実していた。また、折に触れて、読ませていただこうと思う。