例によって、友人と発行しているミニコミ紙に掲載した文章を転載します。
新元号「令和」をめぐる騒動があまりに軽薄、解釈も恣意的なので、出典とされる「梅花歌三十二首」が含まれる『萬葉集』巻五を読み返してみる。
漢字には意味がある。
白川静さんの『字通』によれば、「令」は「礼冠をつけて跪いて神意を聞く人の形」から、「おつげ、みことのり、いましめ、よい、させる」などの意味が生まれた。
「和」は、「軍門の前で盟約し、講和を行う」意。そこから「やわらぐ、なごむ、かなう、したがう、声があう」の意味となる。
二文字を合わせた「令和」という熟語はどういう意味になるのか。そもそも熟語として成り立つのだろうか。
安倍首相は記者会見で「『令和』には、人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められております」と説明。
さらに記者の質問に、「歴史上初めて国書を典拠とする元号を決定した。(万葉集は)我が国の豊かな国民文化を象徴する国書。我が国の悠久の歴史、薫り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄はしっかりと次の時代にも引き継いでいくべきであると考える」と答えている。
「即位後朝見の儀」で、「天皇陛下のお言葉」を受けた「国民代表の辞」でも繰り返している。
天皇の言葉が、簡明ながらその思いが伝わってくるのに対し、首相の言葉は美辞麗句を並べた内容のないものだ。
官僚が首相の意を忖度して書いた作文なのだろうが、安倍政権がこれまでやってきたことと重ね合わせると、「よくもまあ!」と、その厚顔ぶりに呆れる。
「令」と「和」という文字が使われているのは、『萬葉集』巻五の815から846までの梅の花を詠んだ三十二首の歌の前に添えられている長文の漢文の序である。
梅花の歌三十二首併せて序
天平二年の正月の十三日に、帥老(大宰帥大伴旅人のこと)が宅に萃(あつ)まりて、宴会を申(の)ぶ。時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぐ。(以下略)
大伴旅人による序が、中国東晋(317~420年)の書家、王義之の『蘭亭序』を模したものであることは、古今の万葉集研究者が指摘している。
『蘭亭序』は、名勝・蘭亭での曲水の宴で作られた詩二十七編の序文として王義之が書いたもの。
岩波の新日本古典文学大系『萬葉集一』の補注では、「令月」以下の語句は、後漢の張衡「帰田賦」にある「仲春令月、時和し気清らかなり」から取ったものであると述べている。
「帰田賦」は、張衡が時の政治に失望し、官職を辞して郷里の田園に帰る詩である。
旅人の他の作品にも中国の詩文を引用した表現が多くみられる。旅人は中国の詩文に通じていた教養人であった。
であるから、安倍首相が「初めて国書を典拠とした」と、さも我が国固有の表現であるかのごとく言っているのには違和感を覚える。
国書にこだわること自体が、文化のあり様というものを理解していないし、そもそも万葉集を読んだことがあるのだろうか。
万葉集に戻る。万葉集の軸となる部分は旅人の子、大伴家持の編集によるという見方が有力である。個々の作品を読むだけでは歌に込められた意味は理解できない。
歴史的背景も含め全体を見渡して、編者の意図を読み取らなければならない。
巻五には、いわゆる筑紫歌壇の歌が集められている。
神亀から天平年間に大宰府、筑紫に滞在した歌人(大伴旅人、山上憶良らが中心)がサロンを形成、筑紫歌壇と呼ばれる。
◇巻五は旅人の悲嘆の歌で始まる
巻五は「不幸が重なり、悪い知らせが続いて、独り断腸の涙を流している」という漢文の序に続いて
793 世の中は空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり
(世の中は空しいものだと思い知るにつけ、さらにいっそう深い悲しみがこみあげてくる)
という旅人の悲嘆の歌で始まる。
旅人は、神亀四年(727)、大宰帥(だざいのそち=大宰府長官)に任ぜられ、六十三歳という老齢の身で筑紫に赴く。
当時、政治の中枢にいた長屋王(天武天皇の孫であり、高市皇子の子)と旅人は近しい関係にあったようだ。
聖武天皇の母宮子と、妃の光明子は藤原不比等の娘である。
二人を押し立てて権力を握ろうとしていた藤原氏にとって、光明子の立后に反対していた長屋王は邪魔な存在であった。
旅人の大宰府赴任は藤原氏の策略だという見方がある。
大宰府着任の半年後、異母妹・大伴坂上郎女の夫、大伴宿奈麻呂の死の知らせが届く。
そのひと月前、旅人は最愛の妻、大伴郎女を失っていた。
793の歌は、身内の死を悲しむだけではなく、老齢になって都から遠ざけられた旅人の悲嘆がその背景にあるように思われる。
その次に、山上憶良の歌が続く。
憶良は旅人が大宰帥に着任した前年の神亀三年、六十七歳で筑前守に任ぜられた。
仏教思想がちりばめられた漢文の哀悼詩と、「日本挽歌」と題した794の長歌、五首の反歌(795~799)を、旅人になり切って詠んでいる。
「私に付き従ってきたばかりに、都から遠い異郷の地で死んでしまった妻、私はなすすべがない」という内容で、ここでも妻の死を悲しむばかりでなく、都を離れた鄙(ひな)の地にいる嘆きがうたわれている。
以下に続く旅人と憶良の主な作品について見ていこう。
800~805は、憶良が管内巡察の折、詠んだ作品。筑前守として、民の暮らしに向き合おうとした憶良の生真面目さがうかがえる内容だ。有名な「子等を思ふ歌」の反歌
803 銀(しろがね)も金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子に及(し)かめやも
もこの中で詠まれた歌だ。
◇長屋王の変
これらの作品が作られたのは神亀五年である。
翌神亀六年(729)二月、長屋王の変が起き、長屋王と妃の吉備内親王、二人の間の四人の子(皇位継承権があるとみなされていた)は自殺した。
事件が藤原氏の策謀であったことは、ほぼ定説になっている。
同じ年の八月、元号が改まって天平元年となり、光明子は皇后となった。
長屋王を自殺に追い込んだ藤原不比等の四人の息子は、八年後の天平九年(737)、天然痘で相次いで亡くなる。
長屋王の祟りだと噂された。
◇旅人、藤原房前に琴を送る
810~812は、旅人が対馬産の梧桐で作った日本琴(やまとのこと)を藤原四兄弟の一人、房前(ふささき)に贈るに際して添えた書状の中の二首と、それに対する房前の返書および返歌である。
旅人の書状は、琴が乙女となって夢に現れ、「匠に切られて、琴となった私ですが、徳の高い方の側に置かれることを願っています」と語り、旅人と歌を贈答するという物語仕立てになっている。
旅人の趣向をこらした書状に対して、房前の返書は短く、実に素気ない。
旅人の書状の日付は「天平元年十月七日」。
長屋王一族の悲劇、光明子が皇后となって、藤原氏の権力を握ったことは、もちろん知っていただろう。
『字通』の著者・白川静さんには『初期万葉論』『後期万葉論』という名著がある。
『後期万葉論』の第五章「旅人讃酒」で興味深い旅人論を展開している。
琴をめぐる旅人と房前のやり取りについて、「房前は旅人より十六歳下ながら、中衛府の長官(中略)、九月には中務卿を兼ねている。便々と誼を請うわけにはゆかぬが、文学の戯れとしてならば、古族大伴氏の衿持を傷つけることもあるまい。(中略)文学に託した和親状のようなものであった」
「その房前の返事が、いかにも慇懃無礼な文章とも思われるのは、私だけであろうか。誇り高い名門で、政界の最長老の地位にある旅人として、それはまさに『狂を発する』ほどの屈辱ではあるまいか」と書いている。
◇虚構の文学
白川静さんは、巻五に収められた代表的な旅人の作品「梧桐日本琴」や「梅花の歌」に続く「松浦川に遊ぶ歌并せて序」を例に挙げ、旅人の作品の特徴を「虚構の文学」と呼んでいる。
「松浦川に遊ぶ歌」(853~863)は現在の佐賀県松浦郡の景勝地、玉島の潭(ふち)に遊んだ折に詠まれた歌と漢文の序である。
美しい仙女たちが現われて、蓬客(ほうかく=さすらいの旅人)と対話し、歌の贈答をするという内容で、一幕物の劇のように仕立てられている。
「梧桐日本琴」も、「松浦川に遊ぶ」も、現実の出来事を、中国・唐の伝奇小説『遊仙窟』(主人公が神仙の家に泊まり、仙女たちと交歓するというあらすじ)を模した、虚構の世界に置き換えて、一つの文学作品を構成している。
虚構の文学の世界に遊ぶことで、生き難いこの世の中と向き合おうとしたのではあるまいか。
旅人には、もう一つの代表作、次の338に始まる十三首の「酒を讃(ほ)むる歌」(巻三338~350)がある。
338 験(しるし)なき ものを思はずは 一坏(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし
(甲斐のない物思いにふけるよりは、一杯の濁り酒でも飲む方がましであるらしい)
白川静さんは「讃酒歌」について「旅人にとっては悲憤の歌であり、慷慨の詩である」「いつも説話のような歌物語の裏に隠されていたかれの本当の姿が、ここにある。その意味で、これほど自己表現的な文学はかつてなかった」と評している。
(つづく)