空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

遠い山なみの光

2011-06-07 22:54:29 | 本と雑誌

 『わたしを離さないで』を読んで以来、カズオ・イシグロにはまってしまった。

 気に入った作家の作品は、続けざまに、飽きるまで読むのが私の読書の仕方である。その点、カズオ・イシグロの作品は多くはないので助かる。

 図書館にある彼の作品は、相変わらずどれも貸出中なので、買って読むしかない。

 最新刊の短編集『夜想曲集』を読み、次いで最初の長編小説『遠い山なみの光』を読み終えた。

 『わたしを離さないで』と同様、短編集でも、『遠い山なみの光』でも、読者を引っ張って離さない手腕は変わらない。

 サスペンスや、推理小説は、犯人は誰だろう、結末はどうなるのだろうという興味で引っ張られる。

 カズオ・イシグロの手法は、小説の主人公、あるいは語り手の心理に、読者を同調させるのである。

 その心理というのも、はっきりした感情や、意志というようなものではなく、主人公、あるいは語り手の、明確にできない、判断できない、理解できない、時には、本人さえ気づいていないような心の動きである。

 その心の動きを表現するのに、会話や、過去の記憶が巧みに使われている。

 作者は、もちろん、ある程度は計算して書いているのだが、それがあまりにも計算通りだったら、作為が目立ってしまう。

 ところが、カズオ・イシグロの作品は、作為を感じさせない。

 最初の長編小説『遠い山なみの光』も、最新長編小説『わたしを離さないで』も、舞台設定も、時代も違うが、テーマは一貫している。

 すなわち、人は生きていくのに、その時、その時を理解し、的確に判断を下して前に進んでいるのではない。分かっているつもりでも、井の中の蛙の理解にすぎないし、予想や意志どおりに世界は動かない。

 つまり、不条理の中を、手探りで、けれども、その時、その時の自分を信じて進むしかない。

 進むのに必要なのは、希望である。その希望も、本人が確実だと思っていても、確実を保証するものは何もない。本人が確実だと思っているだけだ。

 希望とは呼べないほどの、遠くに見える薄明りのような不安なものであっても、それを足がかりに、人は前に進まなければならない。

 それが生きるということである。

 仏教的に言えば、この世は不条理以外の何ものでもないが、それをそのまま描いては文学にならない。不条理をどのように描くか、というところから、文学が始まる。

 『わたしを離さないで』は、舞台設定そのものが不条理であったが、その中で精いっぱい生き抜く主人公たちの姿が感動を呼ぶ。

 『遠い山なみの光』は、戦後間もない日本、それも原爆投下の傷跡が残る長崎で生きる人々を語り手の記憶を通して描いている。

 語り手の悦子は、長崎にいるときには、人生の不条理にはっきりとは気付いていない。周りの人間が不満や不安の中で手探りで生きていることを、悦子と相手との会話によって、悦子の記憶をたどることによって、霧の中の風景のように浮かび上がらせている。その手法が見事である。

 悦子自身は、人生の決断をして長崎からイギリスへ行く。その過程で、いくつもの不条理の波に翻弄される。しかし、彼女は、後悔していないし、絶望していない。日常の生活がこれからも続くだろう。

 そうだなあ、そういうふうに誰もが生きていくのよね。いろいろあるけど、わたしも生きていかなくちゃ。

 というような希望が、読者の心に残る。


わたしを離さないで

2011-05-31 22:38:33 | 本と雑誌

 久しぶりに小説を読んだ。カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」。

 NHK教育テレビのETV特集「カズオ・イシグロを探して」という番組を見て、カズオ・イシグロという作家にすごく魅かれた。

 日本生まれの作家が「日の名残り」でブッカー賞を取ったことは、当時、話題になったし、それを原作にした映画は、私の好きなアイヴォリー監督だし、エマ・トンプソン、アンソニー・ホプキンス主演だから、映画館でも、テレビでも何度も見た。

 しかし、カズオ・イシグロについては興味があったけれども、小説作品をよむ機会がなかった。

 映画「わたしを離さないで」は、臓器移植を扱った作品だということをどこかで読み、勝手に作品をイメージして、つまり、臓器移植の倫理性を問うような内容だと思って、見に行く気にならなかった。

 テレビ番組では、作家自らが「わたしを離さないで」という作品について、「大人に保護されて、外界のことを知らない子ども時代を描くのに、臓器移植のために育てられているクローンの子どもたちという状況を設定したが、これはすべての人間に当てはまる物語でもある」と語っている。

 子どもが大人になっていく過程で、受け入れがたい外の世界とどのように折り合いをつけていくか、そのときに、記憶、子ども時代の記憶が、自分の人生を肯定的にとらえるうえで、大切な役割を果たしている、というふうにも語っている。

 分子生物学の福岡伸一先生がカズオ・イシグロの愛読者で、身体は一瞬一瞬変化していて、自己に属するものではない、人間を自己たらしめているのは、記憶ではないかと語っているのも面白かった。

 インタビューを聞いて、とても魅力的な作家だと思った。

 自宅近くの図書館の検索をしたら、どの作品も貸出中。私のようにテレビを見て、興味を持った人がたくさんいたのだろうか。翌日、書店に行って、まず『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫)を買って、実家と自宅を往復する電車の中で一気に読んだ。

 テーマも、大体のあらすじも分かっているのに、読みだしたら止まらない。読者をぐいぐい引っ張って、ありえない状況設定なのに、語り手のキャシーの気持ちに同調してしまう。

 悲劇的な物語でありながら、最後には、肯定的な涙を流している自分がいる。なんとも不思議な小説である。

 読み終わって、タルコフスキーの「惑星ソラリス」を思い出した。

 タルコフスキーは、知性をもつソラリスの海が人間の記憶を受け取って、形だけでなく、心を持った実在の人間を生み出すという理解しがたい状況をとおして、人間の愛とは何なのかを描いている。

 ソラリスで起きることを受け入れられない者は、自殺したり、狂ったり、自室に閉じこもったりする。

 映画は、主人公が地球の我が家で幸せそうに暮らしているところが、実はソラリスの海の中だったということを示して終わる。

 これは、主人公が、はじめは受け入れがたかったソラリスと折り合いをつけたということを物語っている。

 「わたしを離さないで」の主人公キャシーも、真実を知っていくにつれて苦しむ。しかし、仲間とともに育った場所、ヘールシャムの記憶は誰にも奪うことはできない、と自分の短い人生を肯定して、行くべきところに、つまり臓器提供が待っている場所に向かうところで小説は終わる。

 カズオ・イシグロは、映画も大好きらしいので、きっと、タルコフスキーの作品も見ているだろう。惑星ソラリスについて、聞いてみたい気がする。

 映画の上映館を調べたら、来月に上映される映画館が見つかった。それまでに、もう一度小説を読み直そう。


ネルケ無方さん

2011-01-29 09:30:43 | 本と雑誌

 自宅ちかくの本屋さんを久しぶりにのぞいたら、ネルケ無方さんが本を出していた。

 『迷える者の禅修行~ドイツ人住職が見た日本仏教』(新潮新書)。

 ネルケさんは、兵庫県但馬地方の山奥にある安泰寺の住職だ。

 安泰寺は、大正時代に洛北に開かれ、有名な沢木興道師、内山興正師も住職を務めた曹洞宗の禅道場。1976年に但馬に移ってきたという。数年前、ふとしたことから、ネルケさんが開設した安泰寺のホームページを見つけて、時々、読ませていただき、勉強もさせていただいた。

 いつかは、安泰寺の座禅会に加わりたいと思いつつ、すごく遠いのと、冬は雪に閉ざされ、夏は夏草に覆われ、修行もかなり厳しそうなので、実現しそうにない。

 ホームページのネルケさんの文章もすごいが、夫人のともみさんの叫び声に近い本音や、修行に参加した人々の体験談も載っていて、安泰寺の厳しさが伝わってくる。

 そのホームページに掲載されたネルケさんの修行物語が下敷きになっているが、編集者に厳しく書き直しを命じられたらしい。

 本にするには、書き手の思いもさることながら、日本の一般読者の興味を引くものでなければならず、とくに、外国人が著者である場合には、ほとんどと言っていいほど、「外国人が見た日本」というテーマが中心に据えられる。

 私は、こういう視点で本を作るのは、そろそろ、やめた方がいいと思う。

 ネルケさんは、クソがつくほどまっすぐに、道元禅師の教えを実践しようとしている人で、その試行錯誤のなかから、自分が学びとったものを、ホームページに書き綴ってこられた。

 読みながら、こちらの胸が苦しくなるような内容のものも多かった。

 ネルケさんは、自分で大事だと思っているような箇所も、削られてしまったとあとがきに書かれているが、私は、削られてしまったところをこそ読みたいと思う。

 でも、本は売れないと困るから、編集者は、鬼のようになって、ネルケさんの大事だと思った箇所を削除したんだろうな。

 もちろん、ネルケさんの文字通り、血のにじむような修行の話は、先輩の僧、雲水たちの様子なども含めて、とても興味深く、一般の読者にも受け入れらるような本に仕上がっている。


真釈般若心経

2010-11-01 13:36:18 | 本と雑誌

 偶然見つけて、お世話になった仏教関係サイトに「空海スピリチュアル」というのがある。

 仏教の勉強を始めたころ、まずは「般若心経」だと思って、いろいろ本を読んだが、読めば読むほど分からない。

 インターネットで探していたら、「空海スピリチュアル」が見つかった。そこに、宮坂宥洪師が月刊誌『大法輪』に連載された般若心経の解説が載っていた。

 これを読んで、それまで全然分からなかったことが、ストンと腑に落ちた。

 その原稿を補足、文庫本としたのが、『真釈 般若心経』(角川ソフィア文庫)である。もう一度読み直すそうと、先日、自宅から持ち帰った。

 宥洪師のお父さま、宮坂勝宥師も著名な仏教学者だ。数ある著書の中の1冊、『仏教の起源』という本を図書館で借りたけれど、サンスクリット語や英語が分からない人間には、とても難しい内容だった。

 分かる部分だけ読んで返却したけれども、仏教が生まれたころのインドの歴史的背景や、お釈迦様が生まれ、出家し、入滅されるまで遊行なさった風土がイメージできて、私の仏教理解を大いに助けていただいた。

 仏法をならうということは、道元禅師が言われるように、自己をならうことにほかならないが、宥洪師の解説で分かり易かったのは、自己を知る修行のプロセスを4層の建物にたとえていること。

 1階が幼児レベルのフロア、2階が世間レベルのフロア、3階から仏教のフロアになるが、3階は小乗レベルのフロアで、そこに舎利子がいる。4階が大乗レベルのフロアで、そこに観自在菩薩がおられる。そして、見晴らしのよい屋上にブッダがおられる。

 「だれでも自分自身の内にもっとも見晴らしのよい上層階があるにもかかわらず、私たちはそれに気づかず世間にあって悩み、苦しみから逃れるすべを知りません。しかし、自分自身の内なる高次の観点に至れば、あらゆる苦悩から解放されるのだ、ということを『般若心経』は伝えようとしているのです。」

 「般若波羅蜜多の修行とは、般若(智慧)の完成をめざす修行ではなく、般若そのものに立脚した修行」

 「自分自身を離れてどこかに般若(智慧)があるわけではありません。『般若に立脚する』とは、自分自身の内なる般若に目覚めよということなのです。」

 もう一度、この本を読み直して、自己を見つめ直したい。

 久しぶりに「空海スピリチュアル」を検索してみたら、「エンサイクロメディア空海」というサイトになって、デザインが一新され、内容も充実していた。また、折に触れて、読ませていただこうと思う。

 

 


妙好人の世界

2010-10-17 01:09:19 | 本と雑誌

 ここ1、2週間、実家と自宅とを行き来する電車の中で、『妙好人の世界』(楠恭、金光寿郎著、法蔵館)という本を読んでいる。NHKラジオで放送されたものをまとめたもので、以前に購入したまま積ん読状態になっていた。

 日本に伝わった仏教は、伝わった時期、宗派によって、ずいぶん違うように見えるが、勉強してみると(系統的なものではなく、わからないことがあればこの本、それでもわからなければあの本というふうに、飛び石を伝うようにあれこれ読んできた)、何となく仏教の基礎知識だと思っていた事柄が、実は、仏教の本質とはあまり関係がないということがだんだん分かってきた。

 「自力か、他力か」ということも、その一つである。

 私が学校で習ったころの歴史の教科書には、「他力とは、浄土真宗に代表されるように、ひたすら弥陀の本願にすがる宗教」、「自力とは、禅宗のように、厳しい修行で悟りを開く宗教」というふうに書かれていたように思う。そういう理解の仕方であるから、「私には、他力より自力のほうが性に合ってるかも」などと、浅薄なことを考えていたものである。

 仏教に限らず、本来、宗教というものは、他力か、自力かというような二元的世界を超えたところで人間に働くものではないかと思う。「他力か、自力か」などと言っているときにはまだ他人事である。切羽詰って藁をもつかみたい、天から垂れてきたクモの糸にもすがりたい、というような場面でこそ、一人の人間に働きかけるのだ。

 そういうことが私なりに納得できるようになったのは、両親の介護という壁の前で、心身ともに疲れ果てたときだった。頭が空っぽになって、夜中、部屋に閉じこもって、大声をあげて、子どもが泣きじゃくるように泣いた。

 妙好人についても、深い考えはなかった。なぜ、この本を買ったのか。「こういう分野も勉強しておかなくちゃ。いつか時間のあるときに読もう」というぐらいの気持ちで購入したのだと思う。購入してすぐに読んでいたら、「真宗の模範的な信者のことを書いた本」という理解から1歩も進んでいなかったと思う。

 敬愛する文化人類学者、岩田慶冶さんが、『道元の見た宇宙』という名著のあとがきで、「本を読む〈とき〉は、本との〈出会いのとき〉である。出会いはいつも突然に、驚きとともにやってくる。〈出会いのとき〉は〈無心のとき〉でなければならない」と書いておられる。この『妙好人の世界』は、まさに、「本を読む〈とき〉」に読んだ、という気がしている。

 対談なので分かりやすいということもあるが、楠恭氏の言葉が私の心にずんずん響いてきて、電車の中で泣いてしまった。鼻炎のふりをして何度もティッシュで鼻をかんだ。

 楠氏はかの鈴木大拙師の弟子である。「学問や教学は宗教経験から出て来るものである。先ず宗教経験を得ると、阿弥陀仏も、浄土も、浄土往生も、信心獲得ということも、救済ということもみなわかってくる」という鈴木師の言葉を冒頭で紹介している。

 この宗教経験というところから見ると、「物種吉兵衛」「因幡の源左」「浅原才一」という妙好人の、たどたどしい言葉で表現された世界と、「唯仏与仏」「身心脱落」「本証妙修」という言葉で道元禅師が示された世界とが、重なってくるように思った。

 妙好人の世界から光を当てると、道元禅師の言葉が理解しやすくなったといってもいい。

 この本は、まだ読んでいる途中なので、この続きは読了後、あらためて書くつもり。