『わたしを離さないで』を読んで以来、カズオ・イシグロにはまってしまった。
気に入った作家の作品は、続けざまに、飽きるまで読むのが私の読書の仕方である。その点、カズオ・イシグロの作品は多くはないので助かる。
図書館にある彼の作品は、相変わらずどれも貸出中なので、買って読むしかない。
最新刊の短編集『夜想曲集』を読み、次いで最初の長編小説『遠い山なみの光』を読み終えた。
『わたしを離さないで』と同様、短編集でも、『遠い山なみの光』でも、読者を引っ張って離さない手腕は変わらない。
サスペンスや、推理小説は、犯人は誰だろう、結末はどうなるのだろうという興味で引っ張られる。
カズオ・イシグロの手法は、小説の主人公、あるいは語り手の心理に、読者を同調させるのである。
その心理というのも、はっきりした感情や、意志というようなものではなく、主人公、あるいは語り手の、明確にできない、判断できない、理解できない、時には、本人さえ気づいていないような心の動きである。
その心の動きを表現するのに、会話や、過去の記憶が巧みに使われている。
作者は、もちろん、ある程度は計算して書いているのだが、それがあまりにも計算通りだったら、作為が目立ってしまう。
ところが、カズオ・イシグロの作品は、作為を感じさせない。
最初の長編小説『遠い山なみの光』も、最新長編小説『わたしを離さないで』も、舞台設定も、時代も違うが、テーマは一貫している。
すなわち、人は生きていくのに、その時、その時を理解し、的確に判断を下して前に進んでいるのではない。分かっているつもりでも、井の中の蛙の理解にすぎないし、予想や意志どおりに世界は動かない。
つまり、不条理の中を、手探りで、けれども、その時、その時の自分を信じて進むしかない。
進むのに必要なのは、希望である。その希望も、本人が確実だと思っていても、確実を保証するものは何もない。本人が確実だと思っているだけだ。
希望とは呼べないほどの、遠くに見える薄明りのような不安なものであっても、それを足がかりに、人は前に進まなければならない。
それが生きるということである。
仏教的に言えば、この世は不条理以外の何ものでもないが、それをそのまま描いては文学にならない。不条理をどのように描くか、というところから、文学が始まる。
『わたしを離さないで』は、舞台設定そのものが不条理であったが、その中で精いっぱい生き抜く主人公たちの姿が感動を呼ぶ。
『遠い山なみの光』は、戦後間もない日本、それも原爆投下の傷跡が残る長崎で生きる人々を語り手の記憶を通して描いている。
語り手の悦子は、長崎にいるときには、人生の不条理にはっきりとは気付いていない。周りの人間が不満や不安の中で手探りで生きていることを、悦子と相手との会話によって、悦子の記憶をたどることによって、霧の中の風景のように浮かび上がらせている。その手法が見事である。
悦子自身は、人生の決断をして長崎からイギリスへ行く。その過程で、いくつもの不条理の波に翻弄される。しかし、彼女は、後悔していないし、絶望していない。日常の生活がこれからも続くだろう。
そうだなあ、そういうふうに誰もが生きていくのよね。いろいろあるけど、わたしも生きていかなくちゃ。
というような希望が、読者の心に残る。